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序章・彼の幸せ
希望
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カイエンは今日も書類をしたためる。
いつもの王都への報告書に、村人の訴えに対する裁定だ。
いつもの業務。いつもの日常。
いつも通り静かな屋敷。
羽ペンが羊皮紙の上を滑る音だけが響く。
その時、大きな大きな声がした。
泣き声だ。
天よ裂け、地よ割れんばかりの泣き声である。
カイエンは羽ペンをペン刺しに立てて、部屋の隅の小さなベッドへ向かった。
そこには浅黒い肌の赤ん坊が泣いている。
普通ならば何とも耳障りな声だと思うだろう。
だが、カイエンはその大きな大きな声が、元気な元気な声であるため、喜ばしく思って微笑んだ。
この赤ん坊は昨日、あの森で拾った赤ん坊だ。
母親であろう女性が死に臨んで守り切ったこの赤ん坊が、今、元気に声を上げている事をカイエンはとてもとても嬉しく思う。
そう。カイエンはこの赤ん坊を養子にすることにしたのだ。
広い屋敷に一人きりというのも寂しいし、ちょうど良いという思いである。
本来、カイエンのような領主や貴族が勝手にどこの馬の骨とも知れぬ赤ん坊を養子になど取れない所であるが、彼は王に左遷され、実家とも半ば絶縁状態である。
誰も彼を咎めるものなど居ないのだ。
しかし、一つ問題がある。
その問題とは、カイエンに子育ての知識など無かった事だ。
かつて子供が居たときでさえ、全ては雇った乳母に任せたものである。
一応、村の奥さんに子育てをお願いしていたが、まだ到着していなかった。
朝の家庭が忙しいだろうから、朝と昼の間くらいに来てくれれば良いと伝えていたのだ。
カイエンは、多少赤ん坊が泣くくらいなら、あやしてやれば良いだろうと思い、悠長に考えていた。
問題を後回しにして、子育ての奥さんが来てから任せれば良い……と。
しかし、実際には、抱き上げてあやしてやっても一向に泣き止まない。
昨夜、グズッた時には、あやしてやったら泣き止んでいた。
しかし、今は泣き止まなかった。
カイエンは事ここに及んで、赤ん坊は問題を解決しないと泣き止まないのだと初めて気付いた。
どうすれば良い?
カイエンは無い知恵を絞って考える。
オムツを脱がして見るが、特に排便は無い。
では食事か?
しかし、赤ん坊とは女の乳で育つもの。
乳が無いとして、一体、何を食べられそうか見当着かぬ。
カイエンはほとほと困り果てた。
こんな事なら、奥さんに朝から来て貰えれば良かった……。
その時、廊下をドタドタ走る音がし、勢い良く扉が開いた。
恰幅の良い女が入ってきて、カイエンから赤ん坊を取り上げると、おもむろに胸を出して乳を吸わせ出す。
「よーしよし。お腹空いてたねぇ」
柔和な笑みを浮かべ、赤ん坊へと優しく話し掛けた。
この女性こそ、カイエンが赤ん坊の世話をお願いしていた女性だ。
名前をマーサと言い、三人の息子を成人させ、現在は一人の娘を育てている子育ての達人とも言える人である。
さらに、五人目の子供は死産、ゆえに張った胸の処理の為もあって赤ん坊の子育てに適任であった。
本人自身は死産を重く受け止めていないのか、もう子供を作る歳じゃ無かったってことねぇなんて言っていたが。
しかし、彼女は本来、まだカイエンの屋敷に来ない筈であった。
屋敷へ来るのが随分と早い。
「お母さんの言うとおり、早く来て良かったね」
恰幅の良いマーサの影に隠れて小さな女の子が赤ん坊を見ていた。
肩ほどの長さの真っ白な髪の毛を後頭部でまとめ、くりくりとした目をしている女の子。
カイエンは彼女を知っている。
マーサの四人目の子供にして長女のリーリルだ。
年齢は十歳である。
リーリルの髪が白いのは遺伝で、マーサも茶色掛かった白の髪だ。
「男の人ってのはね、みぃんな赤ん坊を甘く見るのよ。この子たちほど愛らしい見た目の愛おしい悪魔なんて居ないというのにね」
マーサの言葉はカイエンの耳を痛くした。
確かに全くもって然り、赤ん坊なんてあやせば泣きやむものだと甘く見ていた。
マーサはカイエンのその甘い見通しを事前に読んで、予定時間よりずっと早く屋敷へ駆けつけてきたのだ。
全くもって年の功と言うべきか。
カイエンはマーサの慧眼に頭が上がらなかった。
「リーリル。よく見てなさい。あなたもいずれは赤ちゃんを産んで、おっぱいをあげるんだからね」
「はぁい」
そして、十歳のリーリルをわざわざ連れてきた理由は、どうやら赤ん坊の育て方をリーリルに教えるためのようだ。
領主の赤ん坊を子供への教育に使うなどと……と言いたい所であるが、今まさにカイエンはマーサに助けられたばかりである。
とても異を唱えられなかった。
「所でカイエン様。この子の名前は?」
「あ。いや、その……」
マーサに聞かれ、カイエンは言葉を濁した。
「実は……名前を決めていませんでして……」
「まあ!」
カイエンは赤ん坊の名前を決めていなかったのである。
マーサはそんなカイエンを非難がましい目で見るのだ。
しかし、カイエンにもカイエンなりの理由がある。
以前のカイエンは育児というものを人任せにしていた。
いや、貴族というものは往々にして、乳母や教育者を雇うものであり、貴族自体が子供の教育にどうこうするものではないのだ。
つまるところ、カイエンは子供の名前というものが分からなかったのである。
「どう名付けるべきかも含めて、マーサさんに聞きたかったのです」
「ふぅん、そうなんですか」
変な名前を付けては赤ん坊がかわいそうだろうと思ったカイエンなりの配慮であった。
「あ。お母さん。この子、女の子だよ」
「ええそうねえ。おちんちんが無いものねえ」
カイエンがマーサに名付けをお願いした理由は、また赤ん坊が女の子であったことも一つである。
男の子であれば、多少の変な名前でも構わないかも知れぬが、女の子に変な名前を付けては不憫に思ったのだ。
「リーリルはどう思う?」
「んー。じゃあ、サニヤってのはどう?」
「あら良いわね。カイエン様はどうですか?」
「え? あ、ああ、サニヤですか……。うん、良いと思います。少なくとも、私が名付けるよりは」
こうして、赤ん坊の名前はサニヤに決まった。
その後、マーサはリーリルに子育てのイロハを教えながらサニヤの面倒を見る。
その間、カイエンは執務に集中することが出来た。
また、カイエンはサニヤと遊びたくて、いつもよりずっと速く仕事が進んだ。
執務室の外から聞こえるサニヤやリーリルの笑い声、マーサがあやす声。
それらを聞くと、カイエンの手は自然と軽やかに動くのである。
こんな気持ちで仕事が出来たのはいつぶりか。
左遷や家族との別れによって、知らず知らずの内に生きる目的のようなものを見失っていたのかも知れない。
しかし今、ようやく生きる目的を見つけたのだ。
人というものは、努力する理由が無ければ努力出来ないのだろうと、カイエンは思うのであった。
「よし。こんなもので良いか」
いつもの二日分の書類を午前中に終わらせられた。
いいや、いつもの動きが遅かったのであろう。
本来のカイエンならば、このくらい出来て当然だったのだ。
カイエンはしたためた書類を棚へしまい、執務室を出る。
元気に笑うサニヤを見ていたいと思ったのだ。
笑い声を頼りに、一階のリビングへ歩いて行くと、サニヤを抱いて笑い合うリーリルが居た。
リーリルはサニヤの目の前に指を持っていき、サニヤは指を掴もうとしている。
「えへへー。ほーら、あと少しで掴めるよー」
リーリルがそう言って指を動かすと、サニヤはキャッキャと無邪気な笑い声を上げている。
どうやらリーリルがサニヤをあやしているようだ。
マーサは見えない。
「あ。カイエン様」
「やあ、リーリルちゃん。マーサさんはどこに行ったのかな?」
「昼食を作るっていってました」
と、いうことはキッチンだろう。
この屋敷に移り住んでからは一度も使われていない場所だ。
「そうか。楽しみだなぁ」
マーサの手料理は美味しい。
都会と違って調味料などは殆ど手に入らないので、味付けは淡白なものであるが、マーサは素材の味というものを良く引き出すので、薄味ながら味わい深い料理を作ってくれるのだ。
カイエンはお昼を楽しみにしながら、リーリルとサニヤの前へ座った。
「えっと……カイエン様?」
リーリルは少し、困惑している。
それもそうだ。
サニヤの父であり、領主でもあるカイエンが目の前に座ったのだから、何かを要求されているのだと思ったのである。
いくら田舎娘で、小さな子供とは言え、リーリルはカイエンがどれほど偉い人かは理解していた。
しかし、カイエンは静かに首を左右に振って「サニヤをあやす姿を見せてくれ」とだけ言ったのである。
リーリルはカイエンの事を少し訝しんだ。
見ているだけで良いのだろうか? と。
カイエンは赤ん坊のあやし方が分からなかったから、せめてサニヤが笑う姿を見たかったのであるのだが、リーリルはそれが分からなかったのである。
とはいえ、カイエンが見ているだけで良いと言ったので、リーリルはサニヤをあやす。
キャッキャと笑うサニヤの姿を見て、カイエンは豊かな気持ちになった。
「……サニヤ。お父さんだよー」
リーリルはおもむろに、サニヤをカイエンへと渡してくる。
いきなりの事に、カイエンはドキマギとしながらサニヤを抱き上げた。
「カイエン様。もっと優しく、腕で首を支えてください」
「こ、こうか?」
「そうです。そうです」
両腕で抱きこみ、二の腕でサニヤの首を支える。
いまにもずり落ちそうだ。
それに、うっかり力を込めてどこか怪我させてしまわないか不安なる。
「ぼ、僕は見ているだけで良かったんだけど……」
「本当はサニヤちゃんと遊びたかったんじゃないですか?」
リーリルに本心を見透かされていた。
確かにカイエンはサニヤと遊びたかったが、赤ん坊に触れ合うというのは不安で不安で。
遊ぶにしても、もう少し大きくなってからの方が良いと思って我慢していたのだ。
しかし、こうなってはもう、我慢する意味も無し。
リーリルを真似て、指をサニヤの前へ出してみる。
チロチロと指を動かすと、サニヤは楽しげに笑って指を掴もうとする。
カイエンの指はサニヤから逃げようとするも、失敗して掴まれてしまった。
そして、サニヤはその指を自分の口に持ってくるとしゃぶりはじめる。
「お、おいおい。汚いぞ……。えっと、どうしよう?」
「引っ張れば良いですよ」
「あ。そうか」
手を引くと、容易にサニヤの口から指は抜けた。
サニヤはカイエンの指を物寂しそうに見て、少し泣きそうになる。
せっかくおしゃぶりできたものを取られて悲しいのだろう。
「ははは。これは食べ物じゃないぞ」
そう言って、サニヤの前へまた指を持ってくると、サニヤもまた、楽しそうにキャッキャと笑った。
カイエンは少し、サニヤをあやすコツを掴む。
そうなると、サニヤと遊ぶのも中々楽しいもので、自然と笑みがこぼれた。
リーリルも、笑い合うカイエンとサニヤを見て、楽しそうに微笑むのだった。
いつもの王都への報告書に、村人の訴えに対する裁定だ。
いつもの業務。いつもの日常。
いつも通り静かな屋敷。
羽ペンが羊皮紙の上を滑る音だけが響く。
その時、大きな大きな声がした。
泣き声だ。
天よ裂け、地よ割れんばかりの泣き声である。
カイエンは羽ペンをペン刺しに立てて、部屋の隅の小さなベッドへ向かった。
そこには浅黒い肌の赤ん坊が泣いている。
普通ならば何とも耳障りな声だと思うだろう。
だが、カイエンはその大きな大きな声が、元気な元気な声であるため、喜ばしく思って微笑んだ。
この赤ん坊は昨日、あの森で拾った赤ん坊だ。
母親であろう女性が死に臨んで守り切ったこの赤ん坊が、今、元気に声を上げている事をカイエンはとてもとても嬉しく思う。
そう。カイエンはこの赤ん坊を養子にすることにしたのだ。
広い屋敷に一人きりというのも寂しいし、ちょうど良いという思いである。
本来、カイエンのような領主や貴族が勝手にどこの馬の骨とも知れぬ赤ん坊を養子になど取れない所であるが、彼は王に左遷され、実家とも半ば絶縁状態である。
誰も彼を咎めるものなど居ないのだ。
しかし、一つ問題がある。
その問題とは、カイエンに子育ての知識など無かった事だ。
かつて子供が居たときでさえ、全ては雇った乳母に任せたものである。
一応、村の奥さんに子育てをお願いしていたが、まだ到着していなかった。
朝の家庭が忙しいだろうから、朝と昼の間くらいに来てくれれば良いと伝えていたのだ。
カイエンは、多少赤ん坊が泣くくらいなら、あやしてやれば良いだろうと思い、悠長に考えていた。
問題を後回しにして、子育ての奥さんが来てから任せれば良い……と。
しかし、実際には、抱き上げてあやしてやっても一向に泣き止まない。
昨夜、グズッた時には、あやしてやったら泣き止んでいた。
しかし、今は泣き止まなかった。
カイエンは事ここに及んで、赤ん坊は問題を解決しないと泣き止まないのだと初めて気付いた。
どうすれば良い?
カイエンは無い知恵を絞って考える。
オムツを脱がして見るが、特に排便は無い。
では食事か?
しかし、赤ん坊とは女の乳で育つもの。
乳が無いとして、一体、何を食べられそうか見当着かぬ。
カイエンはほとほと困り果てた。
こんな事なら、奥さんに朝から来て貰えれば良かった……。
その時、廊下をドタドタ走る音がし、勢い良く扉が開いた。
恰幅の良い女が入ってきて、カイエンから赤ん坊を取り上げると、おもむろに胸を出して乳を吸わせ出す。
「よーしよし。お腹空いてたねぇ」
柔和な笑みを浮かべ、赤ん坊へと優しく話し掛けた。
この女性こそ、カイエンが赤ん坊の世話をお願いしていた女性だ。
名前をマーサと言い、三人の息子を成人させ、現在は一人の娘を育てている子育ての達人とも言える人である。
さらに、五人目の子供は死産、ゆえに張った胸の処理の為もあって赤ん坊の子育てに適任であった。
本人自身は死産を重く受け止めていないのか、もう子供を作る歳じゃ無かったってことねぇなんて言っていたが。
しかし、彼女は本来、まだカイエンの屋敷に来ない筈であった。
屋敷へ来るのが随分と早い。
「お母さんの言うとおり、早く来て良かったね」
恰幅の良いマーサの影に隠れて小さな女の子が赤ん坊を見ていた。
肩ほどの長さの真っ白な髪の毛を後頭部でまとめ、くりくりとした目をしている女の子。
カイエンは彼女を知っている。
マーサの四人目の子供にして長女のリーリルだ。
年齢は十歳である。
リーリルの髪が白いのは遺伝で、マーサも茶色掛かった白の髪だ。
「男の人ってのはね、みぃんな赤ん坊を甘く見るのよ。この子たちほど愛らしい見た目の愛おしい悪魔なんて居ないというのにね」
マーサの言葉はカイエンの耳を痛くした。
確かに全くもって然り、赤ん坊なんてあやせば泣きやむものだと甘く見ていた。
マーサはカイエンのその甘い見通しを事前に読んで、予定時間よりずっと早く屋敷へ駆けつけてきたのだ。
全くもって年の功と言うべきか。
カイエンはマーサの慧眼に頭が上がらなかった。
「リーリル。よく見てなさい。あなたもいずれは赤ちゃんを産んで、おっぱいをあげるんだからね」
「はぁい」
そして、十歳のリーリルをわざわざ連れてきた理由は、どうやら赤ん坊の育て方をリーリルに教えるためのようだ。
領主の赤ん坊を子供への教育に使うなどと……と言いたい所であるが、今まさにカイエンはマーサに助けられたばかりである。
とても異を唱えられなかった。
「所でカイエン様。この子の名前は?」
「あ。いや、その……」
マーサに聞かれ、カイエンは言葉を濁した。
「実は……名前を決めていませんでして……」
「まあ!」
カイエンは赤ん坊の名前を決めていなかったのである。
マーサはそんなカイエンを非難がましい目で見るのだ。
しかし、カイエンにもカイエンなりの理由がある。
以前のカイエンは育児というものを人任せにしていた。
いや、貴族というものは往々にして、乳母や教育者を雇うものであり、貴族自体が子供の教育にどうこうするものではないのだ。
つまるところ、カイエンは子供の名前というものが分からなかったのである。
「どう名付けるべきかも含めて、マーサさんに聞きたかったのです」
「ふぅん、そうなんですか」
変な名前を付けては赤ん坊がかわいそうだろうと思ったカイエンなりの配慮であった。
「あ。お母さん。この子、女の子だよ」
「ええそうねえ。おちんちんが無いものねえ」
カイエンがマーサに名付けをお願いした理由は、また赤ん坊が女の子であったことも一つである。
男の子であれば、多少の変な名前でも構わないかも知れぬが、女の子に変な名前を付けては不憫に思ったのだ。
「リーリルはどう思う?」
「んー。じゃあ、サニヤってのはどう?」
「あら良いわね。カイエン様はどうですか?」
「え? あ、ああ、サニヤですか……。うん、良いと思います。少なくとも、私が名付けるよりは」
こうして、赤ん坊の名前はサニヤに決まった。
その後、マーサはリーリルに子育てのイロハを教えながらサニヤの面倒を見る。
その間、カイエンは執務に集中することが出来た。
また、カイエンはサニヤと遊びたくて、いつもよりずっと速く仕事が進んだ。
執務室の外から聞こえるサニヤやリーリルの笑い声、マーサがあやす声。
それらを聞くと、カイエンの手は自然と軽やかに動くのである。
こんな気持ちで仕事が出来たのはいつぶりか。
左遷や家族との別れによって、知らず知らずの内に生きる目的のようなものを見失っていたのかも知れない。
しかし今、ようやく生きる目的を見つけたのだ。
人というものは、努力する理由が無ければ努力出来ないのだろうと、カイエンは思うのであった。
「よし。こんなもので良いか」
いつもの二日分の書類を午前中に終わらせられた。
いいや、いつもの動きが遅かったのであろう。
本来のカイエンならば、このくらい出来て当然だったのだ。
カイエンはしたためた書類を棚へしまい、執務室を出る。
元気に笑うサニヤを見ていたいと思ったのだ。
笑い声を頼りに、一階のリビングへ歩いて行くと、サニヤを抱いて笑い合うリーリルが居た。
リーリルはサニヤの目の前に指を持っていき、サニヤは指を掴もうとしている。
「えへへー。ほーら、あと少しで掴めるよー」
リーリルがそう言って指を動かすと、サニヤはキャッキャと無邪気な笑い声を上げている。
どうやらリーリルがサニヤをあやしているようだ。
マーサは見えない。
「あ。カイエン様」
「やあ、リーリルちゃん。マーサさんはどこに行ったのかな?」
「昼食を作るっていってました」
と、いうことはキッチンだろう。
この屋敷に移り住んでからは一度も使われていない場所だ。
「そうか。楽しみだなぁ」
マーサの手料理は美味しい。
都会と違って調味料などは殆ど手に入らないので、味付けは淡白なものであるが、マーサは素材の味というものを良く引き出すので、薄味ながら味わい深い料理を作ってくれるのだ。
カイエンはお昼を楽しみにしながら、リーリルとサニヤの前へ座った。
「えっと……カイエン様?」
リーリルは少し、困惑している。
それもそうだ。
サニヤの父であり、領主でもあるカイエンが目の前に座ったのだから、何かを要求されているのだと思ったのである。
いくら田舎娘で、小さな子供とは言え、リーリルはカイエンがどれほど偉い人かは理解していた。
しかし、カイエンは静かに首を左右に振って「サニヤをあやす姿を見せてくれ」とだけ言ったのである。
リーリルはカイエンの事を少し訝しんだ。
見ているだけで良いのだろうか? と。
カイエンは赤ん坊のあやし方が分からなかったから、せめてサニヤが笑う姿を見たかったのであるのだが、リーリルはそれが分からなかったのである。
とはいえ、カイエンが見ているだけで良いと言ったので、リーリルはサニヤをあやす。
キャッキャと笑うサニヤの姿を見て、カイエンは豊かな気持ちになった。
「……サニヤ。お父さんだよー」
リーリルはおもむろに、サニヤをカイエンへと渡してくる。
いきなりの事に、カイエンはドキマギとしながらサニヤを抱き上げた。
「カイエン様。もっと優しく、腕で首を支えてください」
「こ、こうか?」
「そうです。そうです」
両腕で抱きこみ、二の腕でサニヤの首を支える。
いまにもずり落ちそうだ。
それに、うっかり力を込めてどこか怪我させてしまわないか不安なる。
「ぼ、僕は見ているだけで良かったんだけど……」
「本当はサニヤちゃんと遊びたかったんじゃないですか?」
リーリルに本心を見透かされていた。
確かにカイエンはサニヤと遊びたかったが、赤ん坊に触れ合うというのは不安で不安で。
遊ぶにしても、もう少し大きくなってからの方が良いと思って我慢していたのだ。
しかし、こうなってはもう、我慢する意味も無し。
リーリルを真似て、指をサニヤの前へ出してみる。
チロチロと指を動かすと、サニヤは楽しげに笑って指を掴もうとする。
カイエンの指はサニヤから逃げようとするも、失敗して掴まれてしまった。
そして、サニヤはその指を自分の口に持ってくるとしゃぶりはじめる。
「お、おいおい。汚いぞ……。えっと、どうしよう?」
「引っ張れば良いですよ」
「あ。そうか」
手を引くと、容易にサニヤの口から指は抜けた。
サニヤはカイエンの指を物寂しそうに見て、少し泣きそうになる。
せっかくおしゃぶりできたものを取られて悲しいのだろう。
「ははは。これは食べ物じゃないぞ」
そう言って、サニヤの前へまた指を持ってくると、サニヤもまた、楽しそうにキャッキャと笑った。
カイエンは少し、サニヤをあやすコツを掴む。
そうなると、サニヤと遊ぶのも中々楽しいもので、自然と笑みがこぼれた。
リーリルも、笑い合うカイエンとサニヤを見て、楽しそうに微笑むのだった。
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