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ラブラブ新婚編

No,174 貴志さん、歌舞伎座デビュー 昼の部 二幕目

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「いや~、思っていたより、ずっと楽しめましたよ。 歌舞伎が、こんなに面白いものだったとは!」

ここは三階にある、かの吉兆が商う歌舞伎座店である。事前にネット予約していた「松花堂弁当」を頂きながら、にこにこと話している貴志さんを見ていると、真唯の箸も、追加オーダーした白のグラスワインもすすむすすむ(笑)。ちなみに真唯は、ここに入るのは初めてだ。旧・歌舞伎座の中の店にも入った事はない。 ……同じ三階に位置する食事処「花籠」で懲りたのである。三十分しかない幕間に、三階まで上って急かされるように食事して、また一階へと戻る忙しなさに。だから桟敷席を取っている時は、席で食べられるお弁当を注文していたのだが……今日はそれは夜の部のお楽しみである。

「そうでしょう!? 【毛抜】はお家騒動のコメディでしたけど、次の【勧進帳】は感動出来るお話ですよ! 幸四郎丈の武蔵坊弁慶は絶品ですし…期待してて下さい…っ!!」
「ええ。真唯さんのブログの記事を拝読していた時から憧れていたのです。楽しみですよ。」

……たちまち、真唯の頬に朱が昇る。……そうなのだ。真唯は何回か【勧進帳】を観ているが、初めて観たのは実は幸四郎丈の弁慶で。大感激した真唯は、ブロマイドは勿論、テレカまで買ってしまった思い出がある懐かしい配役なのである。……小っ恥ずかしくて……そして、嬉しい。貴志さんから、ブログの記事は全部読破したと告白されているが、実感して照れてしまうのはこんな瞬間ときなのだった。

そしてひとしきり、歌舞伎談議とブログの話に花を咲かせて。
間もなく始まる第二幕を観るために、先を急いだのである。



※ ※ ※



そしていよいよ、お待ちかねの【勧進帳】である。
説明の必要のない、お馴染の“判官贔屓ほうがんびいき”のストーリーである。
実を言えば真唯は、義経の不運はある意味自業自得で、自らが引き寄せてしまったものだと思っている。
だが。
この舞台を観ていると。
平家との合戦に勝利しながら、兄・頼朝に疎んじられる義経は、あくまで“悲運の貴公子”であり。白紙の巻物を勧進帳として堂々と読み上げ、主君を想い心の中で血の涙を流し詫びながら金剛杖で打ち据える、命がけで主君を守ろうとする弁慶は、“悲劇の主人公”であると素直に納得してしまうのである。
荒事の十八番だけあって、弁慶役は、その技量と品格を要求される。
迫力ある台詞まわし、見事な腹芸。力強さ、豪快さ。そして、義経との絆を感じる情感あふれる場面で魅せる忠誠心。
対する安宅の関守・富樫左衛門も、それに見合うだけの力量を要求される。一行を怪しむその眼力。弁慶との緊迫感溢れる遣り取り。そして、一行が実は義経主従と知りながら、関所の通行を見逃す情け深さ。懐の広い人柄として描かれているのである。

富樫と弁慶が和解して、酒宴の座興で舞う「延年の舞」。
弁慶は富樫の情けを汲み取り、感謝の気持ちを込めて舞いを舞う。
おとこおとこが酌み交わすお酒は、何にも勝る美酒だったに違いない。

そして、ラストを飾る【飛び六方】は、手が届きそうな処で魅せてくれる大迫力で……鳥肌ものの感動を味わわせてくれた幸四郎丈に手の皮が痺れるのも構わず拍手を贈り……ハッと気付いて視線を動かせば、貴志さんもにっこり笑顔で拍手を送っておられて……思わず叫んでしまいましたよ、「ブラヴォーッ!!」と。



「…あァ…ッ! …やっぱり、高麗屋は最高でした…っっ!!」
……貴志さんの様子を伺う事を忘れてしまうくらい、すっかり夢中になってしまって無意識で乗り出していた身体を座椅子の背にもたれ掛けさせて、恥ずかしさ混じりに囁けば……看過出来ない台詞が返って来た。
「…どうせ賛辞を贈るのでしたら、『ブラボー』ではなく、『高麗屋』と叫んで差し上げた方が、幸四郎氏も喜ばれたのではありませんか…?」
「勘弁して下さい! そんな高等技術に挑戦する、無謀なチャレンジャーにはなれませんよ!!」
「…無謀って…」
「タイミングの問題もありますし…何よりああ云う掛け声は、それなりに渋い声の方の方が良いんです。」
「………………」
「…貴志さんにご贔屓さんが出来たら、是非叫んで差し上げて下さい。…貴志さんのヴァリトンは低くて良く響くから、きっと素敵ですよ。」
「…真唯さんにウットリして頂くために…頑張ってみましょうか…」
「…その代わり、声を掛けるタイミングは良ォ~く研究して来て下さいね。…見事にタイミングを外したら、即行、他人の振りしちゃいますから…っ!」
「…やれやれ…私の奥さまは手厳しい…」
「…フフ…それより、初【勧進帳】は、いかがでしたか…? …楽しんで頂けましたか…?」
「…ええ、勿論ですよ。 …真唯さんが絶賛されていた理由わけが、良く理解りました…」
「嗚呼、良かった…っ! その言葉を聞けただけでも、今日お誘いした甲斐がありましたよ…っっ!!」
「…それより、喉が渇きませんか? …よろしければ、珈琲のお代わりを買って来ましょうか?」
「…ああ…それじゃ、お言葉に甘えようかなァ…」
「お任せ下さい。直ぐに買って参ります!」
「…そんなに急がないで平気ですよ…気を付けて下さいね。」
「行って参ります。」


……背後のカーテンと扉が閉められた瞬間。
アタシは叫び出したい心地に襲われた。


(…喉が渇くなんて…それだけ興奮してた証拠じゃない…っ!
 …やったァ~、貴志さんを歌舞伎好きにさせる第一歩を踏み出せた…ッ!
 …歌舞伎稲荷大明神さま、ありがとうございます…っっ!!)


ムフフと緩む頬をパンフで隠して。アタシは一人ニヤついていた。……少しづつで良いのだ……歌舞伎役者さんに感情移入してお芝居を……歌舞伎を楽しんで……あのお母さんバカおんなにつけられてしまった心の傷トラウマを、少しずつでも癒していければ……



貴志さんが買って来てくれた珈琲でひと息ついて。
第三幕目【魚屋宗五郎】は、始まった。
河竹黙阿弥作の現代劇に近い世話物で、非常に分かり易くて面白い。

酒乱気味で断酒をしていた魚屋宗五郎が、奉公に出していた妹が無実の罪で殿さまにお手打ちにされた事を知り、哀しみのあまり断っていた酒を飲んでしまい、酔った勢いで殿さまの屋敷に乗り込んで……と云うストーリーである。
お江戸の“庶民”が活き活きと描き出されている名作である。

何と言っても、宗五郎を演じる菊五郎丈が良い。
妹を無残に殺された無念さ、切なさ、遣る瀬無さ。それが禁酒の誓いを破り酒を飲んでしまい……酒乱と化すのは大きな見せ場ではあるが、屋敷玄関での長台詞にはそれ以上の役者・菊五郎の“情念”を感じさせた。

最後はご家老の取りなしで、目出度し目出度しとなるハッピーエンドなのも嬉しい。


……真唯は、ハッピーエンドが大好きである。爽快痛快な気分で帰宅の途に付けるのは、何よりも嬉しい事である。


チラリと横目で伺えば、笑顔で拍手を送っている貴志さんの姿がに入る。




……良かった…っ!

……今日の舞台…気に入って貰えたんだ…っっ!!



大いなる充実感を胸に、真唯も定式幕が引かれた舞台に、いつまでも拍手を贈っていたのだった―――



※ ※ ※



「…歌舞伎の【勧進帳】は、能の【安宅】をもとに創られたものなんですが…【安宅】では、富樫はかなり軟弱な人物なんです。…通行の許可を出したのも、勧進帳を堂々と読み上げる弁慶の気迫に押されての事ですし…義経を怪しんだものの、弁慶が義経をなじり、金剛杖で打ち据えるその迫力に恐れをなしての事ですし…」
「…【勧進帳】と【安宅】は、そんなに違うんですか…」
「一行が通された後に催される酒宴も、富樫の罠であると弁慶は疑って…「延年の舞」は、富樫を油断させるあくまで座興で…最後まで心を許さずにいとまを告げて…奥州へ落ちのびて行くんです。」
「…最後まで、弁慶と富樫の腹の探り合いと云う訳ですか…」
「【勧進帳】がああ云った展開にはなって行ったのは、多分に“判官贔屓”の“江戸っ子気質”が働いているんでしょうね。」
「…能の【安宅】も一回観てみたいものですが…何かがっかりしてしまいそうですね…」
「…能には、能の良さもあるんですが…正直言えば、富樫を好漢に仕立て上げて…とりあえずのハッピーエンドになってる【勧進帳】の方がアタシは好きなんです…例えその先が破滅だと理解っていてもです…」
「………………」

今、アタシと貴志さんは、【壹眞かずま珈琲店】でひと時のコーヒーブレークを楽しんでいる。夜の部開始の四時半まで、時間を潰すためだ。



……ちょっと前のアタシからは、想像も出来ない贅沢だ……しかも、お芝居がはねた、その後は……帝都ホテルで過ごす事になっているのだから……


……すっかり旦那さまに毒されてる自分が、ちょっぴり怖い気もするが……今日は特別なのだ……何たって……貴志さんの歌舞伎座初御目見得デビューなのだから……





パンフレットを見ながら、今日観た舞台のあれやこれやを楽しく語り合う。


貴志さんと歌舞伎について、こんなに楽しく語り合えている今が愛しい……




……夜の部の演目について考えるのは……今は待ったを掛けた。
……ラストを飾る演目が、純粋なハッピーエンドではないからだ……




とにかく、今は。
楽しそうに幸四郎丈の弁慶を誉め称える、綺羅綺羅した貴志さんの表情をずっと見つめていたかった。






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