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三年目の新婚クライシス

No,242 【番外編】バレエ講師・佐藤由美の憂鬱 前編

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「…由美さん…バレエ公演のチケットだけど…これからは君の分も俺に払わせてもらえないかな…出来れば、一生、ずっと…」
私を陶然と酔わせてくれた東京バレエ団のウィンター・ガラ公演の帰り道。
私の恋人は少し照れ臭そうな表情を浮かべてそう言ってくれたのだった。



※ ※ ※



私は地域密着の大病院の一家に生まれた。父が先見の明がある人だったのか、お年寄りに優しい病院作りを目指して介護事業の着手や自前の訪問看護ステーションなどの建設の便宜を図る為に医療法人『優和会』を設立した。瞬く間に病院事業は拡大してゆき、兄はその後を継ぐ形で医師としても日夜奮闘していた。そんな一家の一人娘として生まれた私は、かなり甘やかされて育った。望んで出来ない事は何もなかった。お茶、お花、日舞、ピアノ、バイオリン、そしてクラシックバレエを幼い頃から習っていた。私立のエスカレーター式のお嬢様学校に通い、小学校から大学まで自由に伸び伸びと育った。傲慢な我儘娘にならなかったのは、通院してらっしゃるお祖父ちゃんやお祖母ちゃんたちとの交流があったからだ。ボランティアを気取る心算はなかったが、私に出来る事をするだけで皆さんは喜んでくれて、とても嬉しそうな表情かおを見せてくれたから。
ピアノやバイオリンは早々に脱落したが、バレエはロシアのボリショイ・バレエ団とイギリスのロイヤル・バレエ団の演技に感動し、衝撃を受け。『いつか自分もスポットライトを浴びて、あんな風に踊りたい!!』と夢をいだく様になった。そして小学五年の時にトウシューズを履く事を許されて、様々な役を演じる様になってゆくが。しかしどうしても、主役をる事は出来なかった。高校在学中に某バレエ団のオーディションに合格し入団したが、群舞コール・ド・バレエしか任される事はなく、最高の役は『白鳥の湖』の『四羽の白鳥たちの踊り』の四人の中の一人であった。二幕の有名な舞いで、二分足らずの踊りである。けれど高度な足の技を要求される難役でもある。舞台上で舞い終わった後、お辞儀レヴェランスをした瞬間ときに浴びた満場からの拍手は一生の宝物となった。どんなに努力を重ねても主役を務める事が無理であると分かった時。私はバレリーナになる事を諦めバレエ団を退団して、別の道を模索し始めた。
転機は平野三沙子先生と三沙江先生との出会いだった。双子の姉妹である彼女らは良く似ていた。共に海外バレエ留学の経験があり、国際コンクールで入賞こそ逃しているものの、彼女たちの踊りにはどこかしら光るものが確かに存在していた。そしてその独創的な発想力と類稀なる行動力には圧倒される事もしばしばだった。モダンバレエも学んでいた先生たちは、ジャズダンスの他にヨガやピラティスなども学び、それぞれが研究の末に遂には独自の美容法と健康を保つ為のメソッドを編み出す事に成功した。私はそのメソッドテクニックと威力と効果に魅了され、将来の夢を描き、一生を捧げる事を決意したのだ。平野先生たちに“弟子入り”してバレエ・インストラクターになって、世の女性たちがいつまでも若く美しく健康的に生きてゆけるお手伝いをして行きたいと願う様になったのだった。バレエ教室を開き、子供たちにバレエを教える講師は数多いが、私は大人や高齢者を相手に教える事を望んだ。バレエの魅力を伝えるのではなく、むしろバレエを“手段”にする道を選んだのだ。私の“お祖母ちゃんたち”の為にも。熱心にメソッドと根幹の精神を学び、平野先生たちの魅力のエッセンスを少しでも吸収しようと努力に努力を重ねた。それはプリマを目指すよりも遥かにやり甲斐のある事だった。やがて独立して、文化センターの教室などで講師として務める事が出来るまでになってきて。牧野秀美さんと……改め、上井真唯さんと出会ったのは、そんなある日の事だった。そして、山中一道さんと云う男性ひとと知り合い、お付き合いして徐々に親しくなっていったのは、その真唯さんが切っ掛けだったのだ。




山中一道さんと云う男性ひとはスーパーゼネコンに勤めているエリートなのに、驕り高ぶると云う事がまったくなく至って謙虚な人柄の優しい男性だった。私よりもかなり年上なのに、たまにとても可愛らしく見えてしまうのは惚れた欲目と云うヤツなのだろうか? 最初はバレエと云うものに対しては全くの素人だったが、私の話は笑顔で聞いてくれてついつい話しに熱が入ってしまったのも仕方が無いと思う。いわゆる“聞き上手”と云うのかも知れない。興味深そうに聞いてくれれば熱心に話し込み、つい公演に誘ってしまっても無理はないわよね? 心療内科医の兄と、医療事務と経済学を学ぶ弟に囲まれて育ったが、女子校育ちの私は異性と云うものに免疫がなかった。ダンサーにも男性はいるが数は少ないし、私の周りの彼らはあくまでも完全な“ダンサー仲間”でしかなかったから。
山中さんとのお付き合いについて友人に相談したら、やはりあんまりバレエの話しをするのは良くないと忠告された。相手をどん引きさせてしまうと言うのだ。相手は社交辞令で聞いてくれてるのだからと。それで自然消滅してしまったと云う話しを聞けば慎重にもなろうと云うものだ。かと言って他の話題と云えば、施設の慰問(?)や最近暇を見つけて習い始めたフラワーアレンジメントの話しになってしまう。お年寄りとの茶飲み話とお花の話。どちらにしても、男性が興味を持つ話題とはとても思えない。
それに比べて山中さんのお話しはとても面白い。ちょっとした雑学や時事ネタは勿論、流行りのテレビや映画、本や雑誌、漫画にアニメ。人気の役者やキャラクターにも詳しいし、かと思えば女の子に人気のスイーツや喫茶店にレストラン、ファッション事情にも通じている。何でも、秘書と云う仕事の手前、知っておいて無駄な事は何一つとしてないそうだ。却って何を見ても聞いても仕事に繋げてしまうと情けなさそうな表情をして、「ですから、佐藤さんから聞くバレエのお話しは気分転換になって、とても楽しいんです。」とにっこり微笑ってくれるのだ。ここまで言われれば、こちらが恐縮してしまう。友人たちが言ってた、単なる社交辞令だとはとても思えない。かくして私の話題はバレエに戻り、集中し熱中してしまい、“バレエ公演デート”を重ねる事になってしまうのだった。
けれどこの“公演デート”には、一つの決め事がしてあった。
曰く。


『自分のチケット代は、自分で支払う事』


バレエのチケットは高額だ。アーティストのライブやクラシックコンサートなどに比べれば一桁違う。友人たちと行く場合は、それぞれチケットの入手経路が違うし、誰かが一括で予約し支払う時は必ず割り勘になっていたけれど。山中さんとある公演に行った時、言われたのだ。
「デートなんだから、次からは俺に払わせて?」
と。
それを聞いた時、とても悩んでしまった。チケット代金は、座席の種類によってかなり違う。今まで何の躊躇いもなく可能な限り良い席にして万単位の金額を払っていたけど、多少は劣るかも知れないが一万円以下の安い席にするべきだろうかと。しかしそれでは、あまりにあからさまだろう。友人の経験談を聞いたり、スマホで調べて色んな意見を読み漁ってみたら、余計に分からなくなってしまった。結局はその次の公演だけは彼に払ってもらったけど。その次からはどうしようかと、またまた悩んだ。友人たちも『ありがたく奢ってもらえ』派と、『絶対、割り勘』派に真っ二つに分かれた。親友に相談したら、『年上の男性おとこ見栄プライドもあるから、難しい問題だよね。』と一緒に唸って終わってしまった。思いあまって恩師の平野三沙子先生に相談してみたら、『結局、価値観と育った環境の違いなのよね。』と言われ。
『「割り勘が当然」と思ってる男性と、「デート代は男が持つべし」と当たり前に思ってる男性がいるわ。彼は完全に後者なのね。でも、バレエ公演のチケット代金が、果たしてデート代に含まれるかどうかそこも問題ね。ならば答えは、貴女の価値観とのすり合わせと、どこまで妥協出来るかよ。彼とのお付き合いを大事にしたいなら、改めて良く考えてみる事ね。』と、温かなお言葉で突き放された。答えは自分次第だと。
それから私は考えた。彼の気持ち、私への思いやり。そして、自分の事。自分の考え方と価値観。それから、彼との事をどう思っているのか、初めて真正面に真面目に、そして真剣に考えた。その結果を次のデートの時、彼にぶつけた。別れ話になる事を覚悟の上で。


「山中さんのお気持ちは分かりました。デート代をもって下さろうとする事はありがたいし、嬉しいです。でも、チケット代を支払ってもらうと、公演を心から楽しめないんです。どうしても、山中さんに対する罪悪感が残ってしまうんです。それに、バレエ公演のチケット代金は、演者に対する最低限の礼儀だと私は思ってるんです。ダンサーの踊りへの敬意と言い換えても良いと思ってます。その日その瞬間に、全身全霊を込めて舞台に立つバレエダンサーの演技への感謝の気持ちを表す機会を、私から奪わないで下さい。バレエ公演を純粋に楽しむ為にも、どうか私にチケット代を払わせて下さい。お願いします。」


勢い良く頭を下げた。
そして顔を上げると、山中さんの眼をしっかりと見つめた。
(…私の気持ちを分かってもらいたい…)
その一心だった。
小娘の言い草だが、かつてのバレエ演者としてのプライドでもあった。生意気な事を言ってる自覚はあったので、これで見限られても仕方ないと覚悟もしていた。けれど、山中さんは分かって下さった。
「そんな風に深く考えた事がなかった。俺が浅はかだった。ごめん、反省する。」
と、謝ってさえくれたのだ。

そんな優しい彼に私はつけ加えた。
「その代わり、デートの時の飲食代なんかはありがたく甘えます。でも、時々は、私にも奢らせて下さいね?」と。
それからは楽しく気持ち良くバレエ鑑賞デートをする事が出来たのだった。






けれど、そんなお付き合いに、変化が訪れた。
山中さんと一緒の時の、真唯さんの旦那さまである上井さんとの再会だ。
彼は凄い男性ひとだった。
スーパーゼネコンの元・専務であり、何と日本舞台芸術振興会の【パトロン】であり、バレエ・ロイヤル・シートの特別会員なのだ! 遥か雲の上の男性かたなのだ。“雲上人”と云う言葉があるが、実際に元・華族であったと云うからホントに凄い。しかも、その家柄や社会的地位を捨ててまで真唯さんと結ばれたと云うから、情熱的な男性かたでもあるのだ。バレエには関心が薄いのに、奥さまを喜ばす為だけにあらゆるバレエ団の特別会員になり、奥さまに最高の鑑賞環境を作る事に精力を傾けてらっしゃるのだ。その証拠に、観劇の後の興奮状態の真唯さんを見つめる上井さんの表情は、蕩ける様に甘い。
さながら、「カルメン」のドン・ホセの様だ。

上井さんにチケットを取ってもらうようになって、一道さんの様子が少しずつ変わって行った。元々照れ屋なところがある人だったのに、愛情表現がゆっくり変化して行った。ちょっぴり大胆になって、とは言っても可愛らしいものではあったが、私には充分に嬉しい事だった。連絡がマメになったり、さり気なくエスコートして手を繋いだり、感情や愛情をいちいち言葉にしてくれたり、ちょっとした事でも誉めてくれたり。“愛されてる”と云う自信に繋がり、講座の生徒さんから「この頃、ますます綺麗になりましたね。」「何だか、キラキラしてますね。」なんて言われた日には、恥ずかしいけど嬉しくて。赤面しながらも、レッスンには一層力が入ってしまう。そして、一道さんの様子についつい視線が向き、注目してしまうから気が付く事が出来た。真唯さんに対する上井さんのありようを羨ましそうに見ていた事に。彼の表情の変化と、瞳の奥に見え隠れする熱に。

ちなみに山中さんは、紛れもなく私の初の彼氏だ。初恋と言っても過言ではない。幼稚園の頃、同じ組のジロちゃんに淡い想いを寄せていた事はあるが、そんなものはこの際ノーカウントだ。ファーストキスの相手も勿論、山中さん。あれは忘れもしない、恒例のクリスマス公演である『くるみ割り』を観た帰り道の事だった。Kバレエカンパニーの設立15周年記念でもあったから良く覚えてる。厳密なハッピーエンドではないものの、クリスマスの夜の夢の世界の余韻に浸っていた時。マンションの近くまで送ってもらって車から降りようとした瞬間。腕を引かれたと思ったら彼の腕の中にいて。そっと唇が触れ合ったのだ。すぐに離れてしまったその感触に呆然としてると、「…メリークリスマス…暖かくして、良い夢を…お休み。」と囁いて帰って行ったけど、アテンザのテールランプをボウッと見送ってしまったロマンティックな大切な思い出だ。



※ ※ ※



緋龍院建設の秘書さんだった時は彼は凄く忙しくて大変そうだった。彼の身体の事も心配だし、思うように会えない時は寂しかったけど我慢した。『私と仕事とどっちが大事なの!?』なんて八つ当たりはしたくなかったから。だから上井さんの会社に転職した時、最初は心配したけど直ぐに安心出来た。何より表情が全然違うんだもの。土日がしっかり休めるのも魅力だったしね。お給料事情をわざわざ説明してくれた時は、彼が私との結婚を意識してくれてると確信出来て嬉しかった。
だからと言って、まさか忘年会の二次会の席であんな流れになるとは思わなかった。ガールズトークの恋バナなんてあんまり経験がなかったから、舞い上がってたと云う事もあると思う。はっきり言って酔ってた。お酒にではなく、シチュエーションに。だから、あんな我儘を言えたのだ。「…今夜は…帰りたくないな…」なんて。私の独身女性用のマンションは、基本的に男性の立ち入りは禁止だ。エントランスホールまでしか入る事は許されてない。だから、一緒に夜を過ごすとなると、それはそのまま彼の部屋にお邪魔したいと云う意味になる。まあ、ホテルと云う手もあるんだけどね。「…ちらかってるけど…家に来る…?」って一道さんに言ってもらえた時は嬉しかった。折角勇気を振り絞ったのに拒否されたら悲しいし、ふしだらな女だと軽蔑されてしまったら生きてけない! 『ちらかってる』なんて言葉はまったくの謙遜で、彼の几帳面な性格が反映されてるキチンと片付いたお部屋だった。そしてその晩、彼に抱かれた。
『ああ、瞳の言う通りに勝負下着、買っておくんだった!!』とか、『ああ! こんな可愛い系じゃなくて、SEXY系のオードトワレにすれば良かった!!』なんてプチパニックになってたけど、慣れてないと云う事が丸分かりの私に一道さんは凄く優しかった。初めてなのが、バレバレだったのだと思う。時間を掛けて丁寧に愛してくれた。噂通り凄く痛かったけど、頭の中が真っ白になって、とっても幸せだった。
“初めて”がこの男性ひとで良かった。
女性おんな”に生まれて良かったと心から思えた。



そして穏やかに流れるピロートークタイム。
「…もう、離したくないな…このまま、ここに住んじゃいなよ…」
「…由美、可愛い…由美の好きな事、何でもしてあげたい…」
「…上井さんほどには出来ないけど…結婚したら、バレエのチケット代、全部出したい…出させて、お願い…」
甘く囁かれる言葉がくすぐったくて恥ずかしくて……嬉しくて堪らなかった。




嬉しくて、幸せで。
それはもう怖いくらいで。






……だから、この時、欠片も思わなかったのだ。





一道さんとのお付き合いについて、まさかあんなに悩む事になるなんて―――







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