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第陸章:カワイソウナヒト
01:双子夜叉の苦悩
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朝になっても目覚めず、昼になっても目覚めず、夜になっても目覚めなかった胡涅は、二日後の昼になって、ようやく寝ぼけた声をあげた。
「……ゆ、め?」
なんだか酷い夢を見ていた気がする。
理想としていた自分が壊されて、知らなければ平穏でいられる境界線を越えたみたいに、朱禅と炉伯の存在だけを求める夢。
まるで悪夢といえる恐ろしさに、思い出そうとした身体が勝手に震えたが、額に当てようとした手首を見て、夢じゃない現実に悲鳴をのみこむ。
「…ッ…ぅ…」
飛び起きようとして、できなかった。
「…………貧弱すぎる」
自分の非力さに泣きたくなるが、二十五年もこの身体に付き合っていれば、さすがに持ち直しも早い。
「朱禅…っ…炉伯?」
いるはずの二人がいないことに早速不安を覚えたといえば、彼らは喜ぶだろうか。
「やっと起きたか」
「永遠に目覚めぬかと心配した」
現れたスーツ姿の二人にホッと胸を撫で下ろす。
この場合は二人の姿があったことではなく、全裸でなかったことに肩の荷が降りた。そう思いたい。
またあの惨劇が繰り返されるなら、目蓋を閉じてもう一度眠ってしまいたい。
そうは言っても十分な睡眠を得た脳は眠気を感じず、逆に今すぐ起きて何かを食べたいほどの空腹とのどの乾きを訴えている。
「……どれくらい、寝てた?」
「二日ほど」
手首に残した傷は気にかけてくれているらしい。朱禅が手を取ってそこにキスをくれる。
服の代わりにかけられた薄いシーツがもどかしい。遠慮しているのか、悪いと反省しているのか。唇に「おはよう」のキスをくれなかったことを少しだけ不満に思う。
「胡涅、何か食えそうか?」
「……うん、おなかすいた」
素直に答えられるほどの空腹感。
起きてすぐに空腹を感じるなどいつ以来だろう。小さい頃はずっとお腹がすいていた。口に含めば不味くて食べられず、それでも美味しそうだと手を伸ばして吐き出す。
手術を受けたあと、朱禅と炉伯と出会ってからは徐々に食べられるようになって、おいしいを知ることができた。
「朱禅、何か作って」
彼らが作るものはおいしい。
その実体験が口にさせるが、すでに部屋には何か美味しそうな匂いが漂っている。
「ココアじゃだめか?」
「……炉伯」
窓際の可愛いテーブルセットに銀のトレーを置いて、マグカップ片手に炉伯が近付いてくる。
ココア。
そういえば、毎朝飲んでいたなとどこか遠い昔みたいに思いながら、胡涅は両手を炉伯へと伸ばした。
「嬉しい。ありがとう」
「ん」
炉伯もおはようのキスの代わりに手首にキスを送ってくる。
てっきりマグカップを渡してくれると思っていたのに、まさかのキスだけ。行き場をなくした両手の間で炉伯の白い髪がふわふわと揺れている。
「……炉伯?」
胡涅はじっとそれを眺めていたが、あまりに普段とは距離を感じるその行為に、素直な不満を吐き出した。
「まだ、怒ってる?」
二人とも不機嫌ではなさそう。だと、信じたい。
「怒ってねぇよ」
よしよしと頭を撫でてくれた炉伯の目をじっと見つめてみたが、見つめ返してくれた色は何色ともいえない。
たしかに怒ってはいない。
でも、機嫌がいいともいえない。
「胡涅、こぼさずに飲めるか?」
「朱禅、子どもじゃないんだから大丈夫だよ」
炉伯にお礼を言って、両手でマグカップを受けとった胡涅の髪を朱禅も撫でてくる。心配するところはそこかと、胡涅は両手で掴んだそれに迷わず口をつけた。
「…………」
「んだよ」
「………別に」
美味しいけど、何か足りない。
その何かに思い当たるものはひとつだけある。
「やっぱりこぼしそう」
ぐいっとわざと、今度は朱禅にそれを押し付ける。
「手首痛いし、マグカップ重い」
顔も見ずにうつ向いたまま、胡涅は朱禅と炉伯の見守るなかで頬を膨らませた。
「まずかったか?」
炉伯の青い瞳が覗き込んでくる。
「……そうじゃなく、て」
キスしてほしい。
単語はノドまでやってきたのに、なぜか声に出てくれない。セックスする前のほうが、身体の関係がなかったときのほうが、もっと素直に「ほしい」と言えていたのに、たかが口移しひとつに躊躇してしまうのは、それだけ彼らを男として意識し始めた結果だろう。
「胡涅」
言わなければわからないと、マグカップを押し返してくる朱禅を胡涅は見上げる。
顔が熱い。
赤い瞳に写るからだと言い訳を繰り返して、胡涅は「やっ、やっぱり自分で飲む」とそれを奪い返した。
ごくごくとマグカップの中身を飲み干す。
今までどうやってキスしていたのかわからない。あまりに自然だったせいで、意識したことがなかったからかもしれない。
発作が起きれば、衝動に任せて彼らを襲い、病気のせいにして好きなだけ彼らに触れられる。だけど、そういうときほど、発作は起こらない。
「ごちそうさまでした」
唇についたココアを舐めて、マグカップを炉伯に返す。
「ん」
唇を親指の腹でぬぐってくれた炉伯は、そのまま自分の指をべろりと舐めた。
「………っ」
間近で見る美形は心臓に悪い。軽率に間接キスするくらいなら、直接してくれればいいのに、青い瞳はすぐにはなれて窓際のテーブルにマグカップを置きにいった。
「朱禅」
「なんだ?」
背中に枕を積んで、ラクにもたれかかれるようにしてくれた朱禅の手に身体を預けながら胡涅は身体を横たえる。
「……傍にいてくれる?」
朱禅が着ているスーツを掴んで問いかけてみれば、少し驚いた顔がすぐに綻ぶ。
「あまり愛らしいことをいうな。襲いたくなる」
「……答えになってない」
「我は胡涅と共にある。問わずとも、ずっと傍にいよう」
額にキスをしてくれる朱禅の微笑みに、ほっと息を吐き出してしまった。
「炉伯も?」
マグカップを置いて戻ってきた炉伯の青い瞳の中で、胡涅の顔は眠そうにあくびをする。
先ほど起きたばかり。眠くはなかったはずなのに、急激に眠気が襲ってくる。
チョコレートやココアを飲むと眠りやすい体質なのかもしれない。それでも炉伯の返事を聞くまでは気を抜けないと、胡涅はもう片方の手で炉伯の服を掴んだ。
「傍に、いる?」
「当たり前だろ。悪いが、いやがっても離してやれない」
「……うん」
「おやすみ、胡涅」
炉伯も朱禅と同じように、額にキスをしてくれる。
それが心地よくて微睡む意識が、また深く沈んでいく。
眠くないのに、起きたばかりなのに、意識はどんどん深くもぐって胡涅を夢の世界へ誘ってくる。
そうして完全に眠りについた胡涅を眺めて、朱禅と炉伯は同時に深い息を落とした。
「あ゛ー、まじで危なかった」
「胡涅は軽率に我らを誘惑してくる」
「御前を追い出すまで手出ししねぇって出来んのか?」
「……危ういな」
未だに掴まれたままの手を振りほどけず、二人揃って胡涅の横に雪崩れ込む。本人は不満そうにすやすやと眠っているが、キスをしていないせいでそんな顔をしているのであれば、喜び以外のなにものでもないと朱禅と炉伯の顔は物語っていた。
「次は何日眠りにつくか」
「俺たちの血で誤魔化せるのもあとわずか」
そうして見つめるのは、飲み干された空のマグカップ。胡涅はココアと信じているが、ただのココアではない。
夜叉の血が巡る身体は、人間向けの食品を受け付けない。けれど、母体を人間とした胡涅の身体は、人間用の食事でなければ栄養にできない。
「覚醒が近いからか、今までの量ではいずれバレる」
「何事も限界があるからな」
胡涅や周囲に悟らせないよう慎重に、配慮して用意された食事はすべて、彼らの手製。胡涅は自分のことを人間だと思っており、人間として生きていくことを疑ってもいない。
朱禅も炉伯も、胡涅が望むならそうして生きていけばいいと思っていた。
人間とは儚いものだと知っている。だから、自分たちが出来る限りの状態を保とうと誓った。
「六年か、瞬きの間だな」
朱禅が吐いた言葉は無情な空間に放たれる。
藤蜜姫が顕現したことでもわかる通り、胡涅の夜叉の血は成長と共に濃くなり、人間としての食事を摂取できなくなるまで成長している。
夜叉でない胡涅は、夜叉の食事だけでは栄養価に変えられない。
人間でもない胡涅は、人間の食事だけも受け付けない。
食事を得なければ死んでいくだけ。
夜叉としての食事を取りながら、人間としての栄養素を得るのは、これからもっと難しくなるだろう。
「無理矢理、こちら側にする手もあるが」
「御前が許さないだろうよ」
「あの方は人間贔屓だからな」
はぁと、また二人揃って息を吐き出す。
許されるなら胡涅を永遠に可愛がりたい。それでも藤蜜姫がいつまた胡涅の身体を借りて出てくるかわからない以上、変に手出しもできない。
面倒なことになったと、二人は胡涅の寝顔を眺めながら思案する。
「んだよ、こんなときに」
炉伯が舌打ちし、身体を起こすのと同じく、朱禅もベッドに眠る胡涅の身体に手をかざした。すると手形や歯形の残る肌は元通りの滑らかさを取り戻し、全裸だった身体に柔らかな絹のパジャマが着せられた状態へと一瞬にして変化する。
「おい、なぜ誰も出迎えに来んのだ!?」
車から降り、玄関前で叫ぶのは、滅多に顔を見せることのないこの屋敷の持ち主。胡涅の祖父というべきか、棋風院の当主というべきか。案の定、白衣を着た保倉もそこにいる。
「朱禅、炉伯、来い」
召喚にしては荒く、不躾な方法で、二人は家の外へと招かれた。
双璧。門番。その単語がよく似合うのは、門扉の前に突如として現れた長身の男たちの威圧感によるものだろう。
「胡涅は眠っている」
「騒ぐならば、お引き取り願おう」
扉という概念がないのか。
塀や壁をどうすり抜けてきたのか説明がつかないが、手品では説明のつかない現象が堂胡たちの前にあった。
「騒ぐなというなら、さっさと現れるべきではないか。わしの藤蜜は無事なんだろうな?」
朱禅と炉伯の睨みをもろともせず、二人の間を割り入るように堂胡は家の中へと侵入する。
「貴様よりかは安全を保証する」
「今度は何をしに来た?」
「ふん、わしが孫娘を心配して何が悪い」
「心配するのは孫娘かどうか」
「真に問うてみたいものだ」
クスクスと笑う夜叉の間を抜けるのは不気味だろう。実際、堂胡の護衛についていた名前も知らない四人は、引きつった顔で縮こまっていた。保倉だけは「下手なことをすれば愛しの姫君がどうなっても知らんぞ」と、睨み付けてきたが。
それでも彼らは歩みを止めない。
胡涅が眠る部屋まで侵入を試みる。朱禅と炉伯が止められないのは、保倉が対夜叉用に持ってきたとされる護符の作用によるもの。
それ以外に説明はない。
「忌々しい」
部屋にすら入れない。
朱禅も炉伯も彼らの行為を待つしかない。胡涅は事実、堂胡の孫娘であり、人間として生きている。
したがって、彼らが検査目的と大義名分を口にして、眠る胡涅の体から血を抜き取り、帰っていくのを黙って耐えるしかなかった。
「殺せば済むものを」
去っていく車を窓から睨み付けながら炉伯が口にすれば、「胡涅が悲しむ」と、胡涅の見映えを元に戻した朱禅も答える。
全裸に戻されても胡涅は目覚めない。
自分たちの痕は消さないくせに、注射針の痕跡は消してしまうあたり、朱禅のこだわりだろう。
「今は耐えるのみ」
「目覚めたならば必ず」
「ああ、そのときは我らの全力をもって屠(ほふ)るまで」
危害がない限りは胡涅を尊重しようと、朱禅も炉伯も苦虫を噛み潰した顔でうなずきあう。
言い聞かせなければ耐えられない。
夜叉の血が騒げば、恐らく胡涅以外のすべてを消し去りたくなるだろう。そうすればきっと胡涅は悲しむ。
まだ人間として、家族を大切に思っている。それを知っているからこそ、朱禅と炉伯は瞳の奥底で赤でも青でもない色を宿して、横たわる胡涅の肌に口づけた。
「……ゆ、め?」
なんだか酷い夢を見ていた気がする。
理想としていた自分が壊されて、知らなければ平穏でいられる境界線を越えたみたいに、朱禅と炉伯の存在だけを求める夢。
まるで悪夢といえる恐ろしさに、思い出そうとした身体が勝手に震えたが、額に当てようとした手首を見て、夢じゃない現実に悲鳴をのみこむ。
「…ッ…ぅ…」
飛び起きようとして、できなかった。
「…………貧弱すぎる」
自分の非力さに泣きたくなるが、二十五年もこの身体に付き合っていれば、さすがに持ち直しも早い。
「朱禅…っ…炉伯?」
いるはずの二人がいないことに早速不安を覚えたといえば、彼らは喜ぶだろうか。
「やっと起きたか」
「永遠に目覚めぬかと心配した」
現れたスーツ姿の二人にホッと胸を撫で下ろす。
この場合は二人の姿があったことではなく、全裸でなかったことに肩の荷が降りた。そう思いたい。
またあの惨劇が繰り返されるなら、目蓋を閉じてもう一度眠ってしまいたい。
そうは言っても十分な睡眠を得た脳は眠気を感じず、逆に今すぐ起きて何かを食べたいほどの空腹とのどの乾きを訴えている。
「……どれくらい、寝てた?」
「二日ほど」
手首に残した傷は気にかけてくれているらしい。朱禅が手を取ってそこにキスをくれる。
服の代わりにかけられた薄いシーツがもどかしい。遠慮しているのか、悪いと反省しているのか。唇に「おはよう」のキスをくれなかったことを少しだけ不満に思う。
「胡涅、何か食えそうか?」
「……うん、おなかすいた」
素直に答えられるほどの空腹感。
起きてすぐに空腹を感じるなどいつ以来だろう。小さい頃はずっとお腹がすいていた。口に含めば不味くて食べられず、それでも美味しそうだと手を伸ばして吐き出す。
手術を受けたあと、朱禅と炉伯と出会ってからは徐々に食べられるようになって、おいしいを知ることができた。
「朱禅、何か作って」
彼らが作るものはおいしい。
その実体験が口にさせるが、すでに部屋には何か美味しそうな匂いが漂っている。
「ココアじゃだめか?」
「……炉伯」
窓際の可愛いテーブルセットに銀のトレーを置いて、マグカップ片手に炉伯が近付いてくる。
ココア。
そういえば、毎朝飲んでいたなとどこか遠い昔みたいに思いながら、胡涅は両手を炉伯へと伸ばした。
「嬉しい。ありがとう」
「ん」
炉伯もおはようのキスの代わりに手首にキスを送ってくる。
てっきりマグカップを渡してくれると思っていたのに、まさかのキスだけ。行き場をなくした両手の間で炉伯の白い髪がふわふわと揺れている。
「……炉伯?」
胡涅はじっとそれを眺めていたが、あまりに普段とは距離を感じるその行為に、素直な不満を吐き出した。
「まだ、怒ってる?」
二人とも不機嫌ではなさそう。だと、信じたい。
「怒ってねぇよ」
よしよしと頭を撫でてくれた炉伯の目をじっと見つめてみたが、見つめ返してくれた色は何色ともいえない。
たしかに怒ってはいない。
でも、機嫌がいいともいえない。
「胡涅、こぼさずに飲めるか?」
「朱禅、子どもじゃないんだから大丈夫だよ」
炉伯にお礼を言って、両手でマグカップを受けとった胡涅の髪を朱禅も撫でてくる。心配するところはそこかと、胡涅は両手で掴んだそれに迷わず口をつけた。
「…………」
「んだよ」
「………別に」
美味しいけど、何か足りない。
その何かに思い当たるものはひとつだけある。
「やっぱりこぼしそう」
ぐいっとわざと、今度は朱禅にそれを押し付ける。
「手首痛いし、マグカップ重い」
顔も見ずにうつ向いたまま、胡涅は朱禅と炉伯の見守るなかで頬を膨らませた。
「まずかったか?」
炉伯の青い瞳が覗き込んでくる。
「……そうじゃなく、て」
キスしてほしい。
単語はノドまでやってきたのに、なぜか声に出てくれない。セックスする前のほうが、身体の関係がなかったときのほうが、もっと素直に「ほしい」と言えていたのに、たかが口移しひとつに躊躇してしまうのは、それだけ彼らを男として意識し始めた結果だろう。
「胡涅」
言わなければわからないと、マグカップを押し返してくる朱禅を胡涅は見上げる。
顔が熱い。
赤い瞳に写るからだと言い訳を繰り返して、胡涅は「やっ、やっぱり自分で飲む」とそれを奪い返した。
ごくごくとマグカップの中身を飲み干す。
今までどうやってキスしていたのかわからない。あまりに自然だったせいで、意識したことがなかったからかもしれない。
発作が起きれば、衝動に任せて彼らを襲い、病気のせいにして好きなだけ彼らに触れられる。だけど、そういうときほど、発作は起こらない。
「ごちそうさまでした」
唇についたココアを舐めて、マグカップを炉伯に返す。
「ん」
唇を親指の腹でぬぐってくれた炉伯は、そのまま自分の指をべろりと舐めた。
「………っ」
間近で見る美形は心臓に悪い。軽率に間接キスするくらいなら、直接してくれればいいのに、青い瞳はすぐにはなれて窓際のテーブルにマグカップを置きにいった。
「朱禅」
「なんだ?」
背中に枕を積んで、ラクにもたれかかれるようにしてくれた朱禅の手に身体を預けながら胡涅は身体を横たえる。
「……傍にいてくれる?」
朱禅が着ているスーツを掴んで問いかけてみれば、少し驚いた顔がすぐに綻ぶ。
「あまり愛らしいことをいうな。襲いたくなる」
「……答えになってない」
「我は胡涅と共にある。問わずとも、ずっと傍にいよう」
額にキスをしてくれる朱禅の微笑みに、ほっと息を吐き出してしまった。
「炉伯も?」
マグカップを置いて戻ってきた炉伯の青い瞳の中で、胡涅の顔は眠そうにあくびをする。
先ほど起きたばかり。眠くはなかったはずなのに、急激に眠気が襲ってくる。
チョコレートやココアを飲むと眠りやすい体質なのかもしれない。それでも炉伯の返事を聞くまでは気を抜けないと、胡涅はもう片方の手で炉伯の服を掴んだ。
「傍に、いる?」
「当たり前だろ。悪いが、いやがっても離してやれない」
「……うん」
「おやすみ、胡涅」
炉伯も朱禅と同じように、額にキスをしてくれる。
それが心地よくて微睡む意識が、また深く沈んでいく。
眠くないのに、起きたばかりなのに、意識はどんどん深くもぐって胡涅を夢の世界へ誘ってくる。
そうして完全に眠りについた胡涅を眺めて、朱禅と炉伯は同時に深い息を落とした。
「あ゛ー、まじで危なかった」
「胡涅は軽率に我らを誘惑してくる」
「御前を追い出すまで手出ししねぇって出来んのか?」
「……危ういな」
未だに掴まれたままの手を振りほどけず、二人揃って胡涅の横に雪崩れ込む。本人は不満そうにすやすやと眠っているが、キスをしていないせいでそんな顔をしているのであれば、喜び以外のなにものでもないと朱禅と炉伯の顔は物語っていた。
「次は何日眠りにつくか」
「俺たちの血で誤魔化せるのもあとわずか」
そうして見つめるのは、飲み干された空のマグカップ。胡涅はココアと信じているが、ただのココアではない。
夜叉の血が巡る身体は、人間向けの食品を受け付けない。けれど、母体を人間とした胡涅の身体は、人間用の食事でなければ栄養にできない。
「覚醒が近いからか、今までの量ではいずれバレる」
「何事も限界があるからな」
胡涅や周囲に悟らせないよう慎重に、配慮して用意された食事はすべて、彼らの手製。胡涅は自分のことを人間だと思っており、人間として生きていくことを疑ってもいない。
朱禅も炉伯も、胡涅が望むならそうして生きていけばいいと思っていた。
人間とは儚いものだと知っている。だから、自分たちが出来る限りの状態を保とうと誓った。
「六年か、瞬きの間だな」
朱禅が吐いた言葉は無情な空間に放たれる。
藤蜜姫が顕現したことでもわかる通り、胡涅の夜叉の血は成長と共に濃くなり、人間としての食事を摂取できなくなるまで成長している。
夜叉でない胡涅は、夜叉の食事だけでは栄養価に変えられない。
人間でもない胡涅は、人間の食事だけも受け付けない。
食事を得なければ死んでいくだけ。
夜叉としての食事を取りながら、人間としての栄養素を得るのは、これからもっと難しくなるだろう。
「無理矢理、こちら側にする手もあるが」
「御前が許さないだろうよ」
「あの方は人間贔屓だからな」
はぁと、また二人揃って息を吐き出す。
許されるなら胡涅を永遠に可愛がりたい。それでも藤蜜姫がいつまた胡涅の身体を借りて出てくるかわからない以上、変に手出しもできない。
面倒なことになったと、二人は胡涅の寝顔を眺めながら思案する。
「んだよ、こんなときに」
炉伯が舌打ちし、身体を起こすのと同じく、朱禅もベッドに眠る胡涅の身体に手をかざした。すると手形や歯形の残る肌は元通りの滑らかさを取り戻し、全裸だった身体に柔らかな絹のパジャマが着せられた状態へと一瞬にして変化する。
「おい、なぜ誰も出迎えに来んのだ!?」
車から降り、玄関前で叫ぶのは、滅多に顔を見せることのないこの屋敷の持ち主。胡涅の祖父というべきか、棋風院の当主というべきか。案の定、白衣を着た保倉もそこにいる。
「朱禅、炉伯、来い」
召喚にしては荒く、不躾な方法で、二人は家の外へと招かれた。
双璧。門番。その単語がよく似合うのは、門扉の前に突如として現れた長身の男たちの威圧感によるものだろう。
「胡涅は眠っている」
「騒ぐならば、お引き取り願おう」
扉という概念がないのか。
塀や壁をどうすり抜けてきたのか説明がつかないが、手品では説明のつかない現象が堂胡たちの前にあった。
「騒ぐなというなら、さっさと現れるべきではないか。わしの藤蜜は無事なんだろうな?」
朱禅と炉伯の睨みをもろともせず、二人の間を割り入るように堂胡は家の中へと侵入する。
「貴様よりかは安全を保証する」
「今度は何をしに来た?」
「ふん、わしが孫娘を心配して何が悪い」
「心配するのは孫娘かどうか」
「真に問うてみたいものだ」
クスクスと笑う夜叉の間を抜けるのは不気味だろう。実際、堂胡の護衛についていた名前も知らない四人は、引きつった顔で縮こまっていた。保倉だけは「下手なことをすれば愛しの姫君がどうなっても知らんぞ」と、睨み付けてきたが。
それでも彼らは歩みを止めない。
胡涅が眠る部屋まで侵入を試みる。朱禅と炉伯が止められないのは、保倉が対夜叉用に持ってきたとされる護符の作用によるもの。
それ以外に説明はない。
「忌々しい」
部屋にすら入れない。
朱禅も炉伯も彼らの行為を待つしかない。胡涅は事実、堂胡の孫娘であり、人間として生きている。
したがって、彼らが検査目的と大義名分を口にして、眠る胡涅の体から血を抜き取り、帰っていくのを黙って耐えるしかなかった。
「殺せば済むものを」
去っていく車を窓から睨み付けながら炉伯が口にすれば、「胡涅が悲しむ」と、胡涅の見映えを元に戻した朱禅も答える。
全裸に戻されても胡涅は目覚めない。
自分たちの痕は消さないくせに、注射針の痕跡は消してしまうあたり、朱禅のこだわりだろう。
「今は耐えるのみ」
「目覚めたならば必ず」
「ああ、そのときは我らの全力をもって屠(ほふ)るまで」
危害がない限りは胡涅を尊重しようと、朱禅も炉伯も苦虫を噛み潰した顔でうなずきあう。
言い聞かせなければ耐えられない。
夜叉の血が騒げば、恐らく胡涅以外のすべてを消し去りたくなるだろう。そうすればきっと胡涅は悲しむ。
まだ人間として、家族を大切に思っている。それを知っているからこそ、朱禅と炉伯は瞳の奥底で赤でも青でもない色を宿して、横たわる胡涅の肌に口づけた。
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