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第三章 それぞれの素性

【回想2】届いた布石

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【~回想~】

これはロイ、スヲン、ランディの三人と会議室で忘れられない日を迎える前日、木曜日の話。
日本を離れて来週の火曜日でちょうど三週間。
当初の予定では、三週間でめでたく海外研修を終えて帰国できるはずだった。


「……え?」


業務終了後、突然の帰国却下を言い渡されて思考が停止する。
言い渡されたというより通達されたといったほうが正しいが、アヤは先ほど帰宅の準備をする同僚たちをよそに人事課から手渡された書類に目を通して放心していた。


「アヤ、どうかしたの?」


口々に軽快な足取りで人が減っていくなか、赤いボブショートの髪を揺らして歩いてきたのは、アメリカ本社でなにかと面倒をみてくれたセイラという五歳年下の女性。母親の親友カナコによる地獄の英語強化鬼特訓と駅前留学で最低限の会話力を身に付けさせられたとはいえ、本場にきて様々な単語を覚えることができたのは、甲斐甲斐しく面倒をみてくれたセイラの影響が大きい。
棒付きキャンディーの棒だけが唇から飛び出ている。
セイラは棒ではなく、位置が気になるのか、眉に突き刺さったピアスを触りながら近付いてきた。


「セイラぁぁっぁあ」


敬称をきらうセイラの名前を叫びながらアヤは駆け寄る。
友達も家族も知り合いもいない。三週間という期間だけを目標に、なんとか日々をこなしていたのに、これはあんまりだと。アヤの張り詰めた緊張の糸が切れた瞬間でもあった。


「クビになっちゃったぁぁあ」

「……は?」


涙腺を緩めて一枚のコピー用紙を握りしめるアヤに駆け寄られたセイラが引き気味に身体を後退させる。
帰宅間際の状態で廊下に飛び出てきた第一声が穏やかではない。
自分が泣かせたのではないと一瞬周囲を警戒して、セイラは何事かとうなだれるアヤの肩に手を置いて、その顔を覗き込んだ。


「どうしたの?」


誰かにいじめられたか?
何か嫌なことをされたか?
そういう意味を込めて聞いてみたが、先ほど「解雇」という単語を叫んでいたことを思い出して、セイラはアヤの手の中にある用紙を奪い取った。


「ああ、日本支社の経営陣一斉解雇のことか」


なんだ、と。セイラは口から棒付きキャンディーを引っ張り出して嘆息する。


「アヤがクビなんていうからビックリした」

「違うの?」

「アヤが解雇されるわけないじゃん。解雇されたのは日本支社にいる人たちだけよ」

「でも、でも。一斉解雇って、リストラって……私もそうってことじゃ」

「んー。よく読んだ?」


そう言ってセイラは奪った書類を返してくる。
アヤはその言葉に勇気を出して、もう一度書類に目を通すことにした。


「……なんて書いてあるの?」


涙目になったせいで視界がぼやけて読みにくい。それを文章が難しくて理解できないのだと認識したセイラがお節介を全開にして覗き込んでくる。
コーラ味のキャンディーなのか、独特の色をしたキャンディーを再度口でくわえながらセイラは「いい?」と空いた指先で文章を読んでくれる。


「日本支社における経営陣及び一部を解雇したため、日本支社は一時休業とする。引き続き雇用関係を継続する従業員には新たに契約書を取り交わすので、後日配布される書類に従い、期限までに手続きを済ませること。また、本社預かりとしている従業員は通達があるまで現状維持とする。ただし、事前に申請のあった者についてはこれの限りではない」

「事前の申請?」

「たぶん、アヤがこっちに配属される前に日本に帰国の申請を出していた人のことじゃないかな。優秀な人は何人かこっちで働いてたから立て直しのために呼び戻された人もいるだろうし」

「じゃ…じゃあ、私は!?」

「今まで通り、ここにいるってことよ」

「本当に、いきなりマンション追い出されたり、給料支払われなかったりしない?」

「アヤはうちの会社をなんだと思ってるの。日本支社が経営困難になったからって何も問題ないわよ。実際、今は社長が日本に行ってるし、直接日本支社を運営するんでしょ」

「……よかったぁ」


ほっと安堵の息が漏れる。
身寄りのない海外で路頭に迷う日が来たのかと、絶望さえ感じていた数分前の自分が救われたようだ。


「もう少しでカナコさんを呪い殺すところだった」

「カナコ?」


誰それ、とセイラが問いかけてくる。


「お母さんの友達で、私に英語を教えてくれた人でもあり、この会社を紹介してくれた人でもある」

「へぇ。カナコ……カナコ!?」


あまりに驚いた顔のセイラの口からさっきよりも少しだけ小さくなったコーラキャンディーが見えている。「カナコってカナコ・マエザト?」とフルネームにして問いかけてくるが、たしかにそんな名前だったような気がして、アヤは首を縦に振った。


「アヤが未来の社長夫人と知り合いだったなんて知らなかった」

「え?」

「カナコ・マエザトはうちの社長が愛してやまない運命の妻でね……いや、こんな恥ずかしい言い方をしたのはあたしじゃなくって社長がいつも言ってるんだけど。カナコと出会った日本は第二の祖国だとか言って日本進出決めたんだから。もう、ほんとすごいよ、社長のカナコ愛。あ、もしかしてこの経営操作も仕組んでたりして……さすがに、それはないか」

「もしかして、その人って金髪だったりする?」

「するする。キングに似てる」

「キング……あ、金髪碧眼の!!」


もしかしなくても、あのとき面接をしてくれた謎の外国人の正体が誰かわかってアヤは戦慄した。まさか、社長直々に面接をしてくれていたとは。本当によく雇用されたものだと、目から鱗が落ちそうになる。


「そう、だってそりゃ……あ、噂をすれば」

「え?」


セイラのいう通称フローラルバードを連れたロイが廊下に現れる。
フローラルバードは香水を身にまとった派手な女性陣で、その女性たちにまとわりつかれているロイはいつも無表情。「冷酷王子」だと言われるのもうなずける。そんなロイをアヤはいつも遠巻きに見つめ、ときどき目が合うものの、それ以上でも以下でもない距離でやり過ごしてきた。
きっと今日もそんなところだろう。
美形で仕事も出来る人種とは住む世界が違うのだから当然だ。
あの日、路頭で迷子になっていた日。優しく案内してくれたほうが珍しい。そして奇跡だ。
そう思っていたのに、実際は違った。


「アヤ、ここにいたんだ。書類はもう受け取った?」

「え、あ、はい。受け取り、ました」

「驚いたでしょ」

「はい、とても。ハートンさんにはお世話になりました」

「……ん?」

「せっかくお声をかけていただいたのに、すみません」

「どういうこと?」

「私、家に帰る準備があるので、これで失礼します」


周囲というより取り巻きの視線が怖くて、アヤは早々にその場を立ち去る。
突然ぺこりと丁寧にお辞儀をして廊下を走っていったアヤを追いかけてきたのは、ロイではなくセイラだった。


「アヤ、ちょっと待って、アヤ」

「…っ…セイラ、ごめん」

「いや、いいけど。突然走り出すからびっくりしちゃった」

「うん、私も話しかけられると思ってなくて、めちゃくちゃビックリした」


ちょっと走って廊下の角をまがっただけなのに、心臓が早鐘を打っている。
すぐに追いついたセイラに手首をつかまれて、立ち止まった廊下でアヤは盛大に息を吐いた。


「怖かったぁあぁあぁ」


いっきに力が抜けた。
そのおかげで、さっきまでの悲壮感すら吐き出してしまったみたいで、少しだけ心が軽くなった気がする。


「あれは絶対キング勘違いしたわよ」

「なにが?」

「今週末に黒髪の日本人が帰国するって噂で今日、ちょっとした騒動だったわけ。あたしもアヤじゃないかって会いに来たんだけど、あの様子じゃキングもしかりね。しかもアヤの言い方。可哀想に。けど、案外そう思ってる人多いんじゃない?」

「今週末…明日…それ、私じゃなくて生産管理課の子がビザが切れるか何かで帰国するって話じゃなくて?」

「どうしてそんなことアヤが知ってるの?」

「デイビットが言ってた」

「あいつか」


噂の出所に納得したセイラは一緒になって歩き出す。
途中まで一緒に帰ろうという流れになるのは明白で、アヤはカバンと気持ちを持ち直してそれに続いた。


「アヤは彼氏いないの?」

「え!?」


突然何を言い出すのかと、アヤはセイラに顔を向ける。


「いや、日本に彼氏とかいるんだったら、帰国延期は寂しいんじゃないかと思って」


バートという彼氏がいるのを思い出したのかセイラは携帯を取り出してメッセージを確認している。それを微笑ましく眺めながらアヤは首を横に振った。


「彼氏はいないよ。こっちには研修で来たし、付き合うとか、誰かを好きとか、そういうのよくわからなくて」

「え、もしかしてバージン?」

「それも、違うけど」

「なんだ。じゃあ、連絡するのは家族と友達だけ?」

「家族だけでいいかな」


言ってて悲しくなってくる。
友達と呼べる存在はいると思いたいが、帰国して早々に連絡してまで会いたい友人がいるかと聞かれるとそれも違う。女の27歳は、ずっと同じ関係でいるのは難しい。
結婚して疎遠になった子もいれば、仕事で出世して生活時間が合わない子もいる。あとは料理教室やヨガなど趣味に没頭して、そちらの友人との仲が深まって連絡自体を取らなくなった子もたくさんいた。アヤ自身も前の職場であれば仲良くしていた子はいたが、退職して以来、連絡は一度もとっていない。


「っていうか、お母さんたちに何で連絡すればいいのか」

「そういえば、アヤは携帯持ってないんだっけ?」

「うん。研修は急に決まったし、鬼特訓もあったし、準備もまともに出来ないうちに全部面倒くさくなっちゃって……三週間くらいなくても平気かなって」

「まじで有り得ない。今どき、携帯無くて平気な生活とかある?」

「意外となんとかなった」


思いのほか、環境に馴染むために体力も気力も消費していたからか、携帯で何かをしたいと思う余力がなかった。専門用語を電子辞書で勉強しながらの研修は、ただでさえ転職したばかりで基礎知識のなかったアヤには過酷で、気軽に逃げ出せる場所があればとっくに辞めていたかもしれない。
そうならなかったのは、周囲に恵まれたおかげだと今では思う。


「古典的だけど手紙か葉書で送って知らせるのもありかなって。郵便局に行けばエアメールは送れるのかな?」

「ここから一番近い郵便局は、走れば間に合うけど。まずは送る物自体を用意しないと」

「レターセットみたいなのってこの辺で売ってる?」

「アヤが好きそうな店なら一件知ってる。まだ開いてるみたいだし、いってみる?」

「いいの?」


セイラは見かけによらず親切で世話好き。
一人では入れない周辺のお店を知れたり、公共交通機関の使い方もひとりで出来るように教えてくれる。


「セイラがいてくれてよかった」


素直にありがとうと言葉に出して伝えられるようになったのもセイラのおかげ。
同じ会社でも別の国に住む者同士、いつかは帰国していく相手に自分であればそこまで親切に出来るかの保証は出来ない。だからこそセイラの存在は、アヤにはとても心強かった。

この日の出来事が、ロイたちと会議室で初めてセックスするきっかけになるとは微塵も思わなかった。
あれからもう二ヶ月ほどが過ぎるのだと思うと懐かしい気持ちにもなる。


「台風も通り過ぎたみたいだし、明日は久しぶりに日本支社に出勤だね」


今は七月の終わり、夏の思い出は三人の彼氏と日本の支社から。
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