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番外編
温かなもの
しおりを挟む――卵を焼いている匂いがする。
忍の意識を浮上させたのは、そんなどこかほっとするような匂いだった。
「……」
ゆっくりと持ち上げた瞼の向こうにあったのは、見慣れた自宅の白い天井だった。
場所はリビングで、どうやら忍はそこのソファで横になっていたらしい。
緩慢な動作で顔を横に向けると、ソファの前のローテーブルには、しおりを挟んだ本が置かれている。
おそらく、その本を読んでいるうちにうとうとしてしまったのだろう。
そんなことを考えつつ忍が上半身を起こすと、膝の上にパサリと何かが落ちた。
「……?」
それは、ふんわりと柔らかいブランケットだった。
オフホワイトの生地に小花が散りばめられ、赤い糸のステッチが周囲をぐるりと囲っている。
ただし、忍はそのブランケットに見覚えがなかった。
そもそも、三十を過ぎた男の一人暮らしには、いささか可愛らし過ぎる代物だ。
寝起きでいまいち頭がはっきりしないまま、忍はブランケットをそっと撫でた。
見覚えがない物のはずなのに、その柔らかさと温かさはよく知っているような気がした。
と、先ほど彼の目覚めを促した卵焼きの匂いが、またも漂ってきた。
いや、卵焼きだけではない。
ご飯が炊ける匂いに、だしの香り、そして醤油と砂糖を煮詰めた匂い。
様々な食べ物の匂いがリビングを満たしていて、忍の口の中には自然と唾液が溢れた。
顔を上げ、リビングの中を見回す。
そんな彼に、ふと声がかかった。
「忍ちゃん、起きたんですか?」
それは、聞き覚えのある声だった。
数ヶ月前に恋人同士となった相手――里谷綾子の声だ。
そういえば今日は土曜日で、いつものように彼女を家に呼んでいたのだった、と忍は思い出した。
それなのに、自分一人眠りこけていただなんて。
申し訳ないことをしてしまったと後悔しつつ、忍は一言謝っておこうと相手の姿を探した。
綾子は、カウンターの向こうのキッチンにいた。
忍と目が合うと、彼女はにっこりと微笑みを浮かべて言った。
「お昼ご飯、できてます。起き抜けでも、食べられますか?」
「え……?」
忍は目を丸くした。
綾子といえば、一人暮らしのくせに料理の方はからっきしで、基本食べるのが専門。
包丁を持つ手は危なっかしく、玉ねぎを刻んではぼろぼろと泣きじゃくる。
卵を割って混ぜただけで大仕事をやり遂げたような顔をする、男が料理を担う猪野家にはぴったりの娘だ。
忍自身は料理をするのは苦にならないし、自分が作ったものをおいしそうに食べる綾子を見るのが好きなので、彼女に料理をさせる必要性は感じていなかった。
それなのに、料理音痴を絵に描いたような綾子が、昼ご飯を用意したと言うのだ。
ということは、先ほどから忍の唾液を溢れさせる美味しそうな匂いの元は、彼女の手料理だというのか。
忍は信じられない思いでふらふらと立ち上がると、綾子がいるキッチンの方へと歩いていった。
そして、カウンター越しに向かい合うと、彼女はにこにこして口を開いた。
「座ってください。お茶は、熱いのにしますか?」
「え? あ、うん……」
「ご飯、すぐによそいますね」
「……ありがとう……」
忍はそのままカウンターの前の椅子に座らされ、前にはすぐに熱いお茶の入った湯呑みが置かれた。
その周りには、いくつもの皿や鉢が並んでいる。
まず最初に、自己主張してきた卵焼き。
続いて醤油と砂糖を煮詰めた匂いをさせていたのは、照りよく色付いたブリ大根だったようだ。
ブリはアラではなく、切り身を使っているので見た目もとても整っている。
あとは、胡瓜とワカメの酢の物と、ほうれん草のおひたしがそれぞれ入った小鉢。
昼食としては、随分と豪華なメニューである。
それらを呆然と眺めている忍の前に、さらに差し出されたのはみそ汁のお椀。
だしと味噌の芳しい香りが湯気とともに立ち上るその椀に、豆腐と一緒に泳いでいるのは大根の葉のようだ。
「食欲、なかったですか?」
目の前に並んだ料理の数々と、それを綾子が作ったのだという事実がすぐには結びつかず、忍はしばらく何にも手を伸ばすことができなかった。
すると、カウンター越しに茶碗を差し出しつつ、綾子が不安そうに問うた。
「いや、ごめん。少し寝ぼけていただけだよ。――いただきます」
忍は慌ててそう答えると、両手を伸ばして茶碗を受け取った。
茶碗に盛られた白米は、ツヤツヤとして眩しいほどだ。
忍は続けて差し出された箸を受け取ると、まずはみそ汁のお椀を持ち上げて中身を啜った。
「……うまい」
「ほんとう?」
丁寧に取っただしの旨味と、いい塩梅に溶け込んだ味噌の風味。
豆腐は柔らかく、大根の葉はほのかな歯ごたえと苦味が絶妙だ。
続いて忍が箸をつけたのは、あの卵焼き。
層を重ねて丁寧に焼かれたそれは、黄色い色とほどよい焦げ色が食欲をそそる。
ほんのりとした甘味と醤油の香りがして、忍には馴染み深い味わいだった。
その後食べたブリ大根も酢の物も、どこか懐かしい味がした。
それは、忍が自分で作ったものというより実家の――猪野家の場合、お袋の味と言うより親父と祖父の味に近かったからだ。
いつの間にか、綾子は父や祖父から料理を学んだのだろうか。
そんなことを考えながら箸を進めていたが、ふとカウンターの向こうの綾子と目が合った。
「綾子もおいで。一緒に食べよう」
そう声をかけると、綾子は自分の分のご飯とみそ汁をよそいカウンターを回ってきた。
忍は傍らに置かれていた箸立てから、可愛らしいウサギの模様がついた赤い箸を取り出した。
綾子を自宅に招くようになって、まず初めに買ってやった、彼女のための箸だ。
「よいしょ」
そんな若者らしくないかけ声とともに、綾子が隣の椅子に腰掛けた。
忍は箸を手渡そうとして、彼女の方に顔を向ける。
とたんに、彼はこれでもかというほど両目を見開くことになった。
「綾子っ……それ……!?」
「え?」
「お、おなかが……!?」
「忍ちゃん?」
隣に座った綾子は、顔も手足もほっそりとしたままなのに、下腹だけぽっこりと大きく膨れ上がっていたのだ。
見覚えのあるエプロンはゆったりとしていたはずなのに、今は何だか窮屈そう。
驚き過ぎて言葉もままならず、最早ぱくぱくと口を開け閉めするだけの忍に、綾子はきょとんとした様子で首を傾げている。
しかし、やがて彼女はにっこりと微笑んで言った。
「食べましょう、忍ちゃん。赤ちゃんも、お腹すいたって言ってます」
――赤ちゃん……!?
忍の頭の中の冷静な部分が、ようし分かった、これは夢だな、と頷いている。
しかし、それが叶わない夢ではないと知っている別の部分が、えも言われぬ感動を彼に与えた。
忍の視界が徐々に滲んでいく。
「どうしたの?」
綾子の声が、幸福と微睡みに溢れる彼の頭の中に優しく響く。
「忍ちゃん?」
今は夢の中の光景だが、きっとこれから訪れる未来に違いないと、忍は思った。
そういえば、料理上手でお腹が大きい綾子は、忍の知っている彼女よりも少しだけ大人びて見えた。
現段階ですで二十歳を越えている綾子に“大人びた”なんて言葉を使うのはおかしいが、忍の中ではまだ彼女は少女のように初心な存在だった。
そんな綾子がいつか自分の側で花開き、母親になるのだと思うと、忍の胸は踊った。
――卵を焼いている匂いがする。
忍の意識を浮上させたのは、またも卵焼きの匂いであった。
「忍ちゃん」
しかし、今度はすぐ近くから綾子の声も聞こえる。
ゆっくりと持ち上げた瞼の向こうにあったのは、やはり見慣れた自宅の白い天井だった。
場所はリビングで、忍は先ほどの夢同様そこのソファで横になっていたらしい。
ソファの前のローテーブルに、しおりを挟んだ本が置かれているところまで同じだった。
忍が上半身を起こすと、膝の上にパサリと何かが落ちた。
夢の中で見たのと同じ、あの小花柄のブランケットだ。
「これ……」
「昨日の仕事終わり、咲和子さんと買い物に行って一目惚れしたんです。可愛いし、あったかいでしょ?」
「うん……あったかいね……」
忍がそっとブランケットを撫でると、その手触りは夢で感じたのと寸分違わなかった。
その柔らかさと温かさは、まさに綾子そのもののようだった。
肝心の綾子は、忍が横になっていたソファの側に腰を落とし、じっと彼の顔を見つめていた。
しかし、目が合うと、とたんに申し訳なさそうに顔を伏せて言った。
「あの、ごめんなさい。忍ちゃんが疲れているのも考えないで、当たり前のように押し掛けてしまって……」
「いや、俺の方こそごめん。綾子といるとほっとして気が抜けるんだろうな」
忍は慌てて謝り返すと、俯いてしまった綾子の顎に手をかけて顔を上げさせた。
もう一度「ごめんね」と告げると、綾子はようやくほっとしたような顔をして「いいえ」と首を振った。
「今、何時かな?」
「もうすぐお昼の十二時です。一応、ご飯だけ炊いておきました」
綾子の言葉に忍はおやと片眉を上げると、すんと鼻を動かしながらソファから立ち上がった。
「ご飯だけ? 卵焼きの、すごくいい匂いがするんだけど?」
忍はそう言ってリビングの中を移動し、カウンター越しにキッチンを覗き込む。
そこには、今焼き上がったばかりなのか、ほかほかと湯気を立てる卵焼きが皿に載せて置かれている。
その皿を忍がカウンターの上へと移動させると、彼の背中に顔を埋めて綾子が小さな声で言った。
「あ、あの……勝手に、ごめんなさい。忍ちゃんが目覚めた時にお腹が空いてたら、と思って作ってみたんですが……」
「うん、うん。すごく嬉しいよ」
「そ、それが、今の私には精一杯で……」
「ああ、もう一刻も早く食べたい。綾子、ご飯よそってくれるかな」
忍がそう言ってカウンターの前の椅子に座ると、綾子は慌てて「はいっ」と頷き、キッチンの方へと回った。
そんな彼女は、先ほど忍が見た夢の中と同じエプロンをつけている。
それは、二人が付き合い始めた記念にと、忍の双子の兄である梓が寄越したものだ。
現実の綾子の腹はまだぺったんこで、今のところそれが大きく膨らむ兆しはない。
だが――
「お茶は、熱いのにしますか?」
夢の中と同じ声が同じ質問をし、頷いた忍の前には同じ湯呑みが置かれた。
だから忍は、白米をよそった茶碗を差し出した綾子に、夢の中と同じ台詞を告げた。
「綾子もおいで。一緒に食べよう」
「はい」
自分の分のご飯をよそい、綾子がカウンターを回ってきた。
忍は傍らに置かれていた箸立てから、やはりあのウサギ模様の赤い箸を取り出す。
夢の中とは違い、すっとスマートに椅子に腰掛けた綾子に微笑み、忍は箸を手渡した。
「いただきます」
「い、いただきます」
ご飯と卵焼きだけの簡素な昼食。
しかし、炊きたてのご飯は夢の中と同じようにツヤツヤしているし、なんと言っても卵焼きは綾子作。
忍にとって、これほど喜ばしい昼食はあろうか。
「おいしい」
「うそです」
「おいしいよ?」
「だって、ちょっと焦げちゃったし……」
確かに夢の中のものに比べると、綾子の卵焼きは少しばかり不格好だった。
彼女が口を尖らせて言うとおり、少々焼き過ぎて香ばしくなっている部分もある。
しかし、慣れないながらも一生懸命作ったと分かるそれは、夢の中と同じ位、いやそれ以上に忍の胸を温かくした。
パクパクと口に放り込む忍を見て、綾子もようやく自分の焼いた卵焼きに箸を伸ばした。
彼女は料理は苦手なくせに、料理上手の姉と母を持ったがため、舌だけは肥えているのだ。
綾子は卵焼きを箸で摘まみ上げると、その端っこをおそるおそる齧った。
ひとが作った料理を食べる時とは随分違う彼女の様子に、忍は苦笑する。
どう? と問いかけると、そのまま一切れを食べ終えた綾子が、ほっと息を吐いて答えた。
「思っていたよりは……ましでした」
忍がまた作ってくれるかと問うと、綾子は少しの間逡巡したのち、ほんのりと頬を染めて「はい」と小さく頷いた。
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