夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第三章 確執

すれちがい(二)

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「なんだ?」
「殿は本当にお心当たりがございませんの? あんなことを仰せになっておきながら、まあ……!」

「だから何が言いたいのだ、さっきから。言いたいことがあるのならはっきり申せ!」

ふうっとわざとらしい溜息をついてから一呼吸して、槇野がおもむろに顔を上げた。
「『そなたさえ妻としてのつとめを果たしておれば俺がよそを出歩く必要など何もないのだ』」
「何…?」
「『それを棚に上げてよくもそう頑なな態度がとれたものだ』」
「なんだ、それは」
経文でも読み上げるような平坦な声で朗じるのを聞いて、正清は眉をしかめた。

「『なんだ、それは』ではございませぬ。先だっての喧嘩の折に、殿が姫さまに仰せになられたお言葉にございます。一言一句、過たず記憶しておりますゆえ間違いありませぬ」

(いったい、何をどこまで聞いておったのだ、おまえはっ……!!)

怒鳴りたい衝動を寸前で堪えたのは、その言葉から喚起されて、記憶の底から浮かび上がってきた光景があったからだった。

身をすくめ、耳を塞いでいた佳穂。
引き寄せると、体が小さく震えていた。

大声を出したのが怖かったのか、と尋ねると、涙をいっぱい溜めた瞳で首を横に振っていた。

最前まで仔犬のように啼き騒いでいたのが嘘のような豹変ぶりに戸惑いながらも抱き寄せると、抗わずに身を預けてきた。

そのまま、ひさしぶりに朝までともに過ごして。
その間じゅう、佳穂は素直に柔らかくこちらの動作に応えた。

体を離そうとすると、いつになく縋るように背に手をまわして抱き返してきた。
ひと眠りしたあとで、朝の光のなかでもう一度抱き寄せると、恥らうように胸に顔を埋めてきた。

髪を撫でてやると、腕のなかでこちらを見て潤んだままの瞳で微笑んだ。

それで、正清としてはすっかりこの騒ぎには片がついたとばかり思っていたのだったが……。

(そういえば、あれはあの時、何を急に怯えたように……)
あれ以来、気にもとめていなかったことが槇野の言葉で急に、気がかりとなって胸のうちで膨らんでくる。

(確かに佳穂は俺が大声を出したくらいで、あんな風に怯えるようなやつではないが……。だったら何故……)

そこまで考えて、顔を上げると「困ったものだ」とでも言いたげな表情の槇野と目があった。
その顔が癪にさわって、正清はわざとぞんざいに言った。

「俺が何を言うて、佳穂がそれをどう思うたにせよ、それはそれとしてもう話は済んでおる。あれももう納得しておるはずだ。そなたも盗み聞きをしておったのならよく存じておるであろう」
「盗み聞きではなく、偶然にも立ち聞きしてしまっただけでございます」
「どちらでもよい!」

「姫様もご納得、と仰せになられますのは、申し上げるも憚られることながら、あの後、思し召しに素直に従われてお褥をともになされたその事を仰っておられるのですか?」
言うも憚られると言うわりには、随分と明け透けな物言いをする。

いちいち、咎めだてるのも面倒になり正清は答えた。
「ああ、その通りだ。いちいち言葉でどうこう言わずとも夫婦の間ではもう片がついている話だ。他所からごちゃごちゃ言われる謂れはない!」

強めの口調で言って話を切り上げようとしたが。

「畏れながら」
まったくもって畏れ入ってなどいない様子で槇野が口を開いた。

「お褥をともにされたから、それで万事解決、というのは殿方の独りよがりでございます。女子というのはそのように単純には出来ておりませぬ」
「悪かったな、男は単純で」

むっとする正清に構わず、槇野は、
「いえ。左様な意味ではなく。されど、女子というのは、それはそれ。これはこれ。体を許したからといって心まで許したかというとそれはまた別のお話で。そもそも、女というのは、自分が他人にしたことは忘れても、他人から言われたひどい言葉というのは魂に刻んで決して忘れぬものでございます」

託宣を告げる巫女のような厳かな口調で言う。

「それはそなたの話であろう。佳穂は左様な女子ではない。どちらかいえば、覚えておかねばならぬことまで片端から忘れてゆくような、鶏のようなというか、抜けているというか。ともかく、そのような執念深い性質ではない!」

「畏れながら」
槇野がきっぱりと首を振る。

「姫さまはああ見えて、案外と根にもたれるところがございます。乳母としてご幼少の頃よりお育てした私が申すのですから間違いありませぬ。現に、幼い頃、姫さまが大切になさっていたひいな遊びの御殿を私が、ついうっかり尻餅をついて粉々に壊してしまったことを今でも、事あるごとに持ち出されるくらいで、本当に存外と執念深い……」

「それは誰でも怒りたくもなるであろう!それとこれとは話が別だ」

「同じことにございます!脆く繊細な女子の心に一度刻まれた傷は容易なことでは消えぬものなのです」

「成る程。そなたにひいなの御殿を壊されたのはあれにとって魂に刻まれるほどの癒しがたい、容易には消えぬ痛手だったのだな、可哀想に」
正清の皮肉に気づかぬふりをして、槇野は改めて居住まいを正した。

「ともあれ、姫さまがあの折の、殿の心無い非情で無情で思いやりのかけらもないお言葉に、ひどく傷つかれたのは確かですわ。その翌日から、義父上さまのお邸に行かれてお戻りどころか消息文の一つもないなど……何かあったに相違ありませぬ!」

「なっ……!」
正清はさすがに腹が立って声を荒げた。

「誰がいつ、心無い非情で無情で、思いやりのかけらもないことなど申した! 人聞きの悪い! 俺が何を言うたというのだ! さっきからもったいぶっておらずに申してみよ!」

槇野は少しも怯まず昂然を正清を睨み返した。
 
「ですから、先ほどから申し上げておるではありませぬか!『おまえが跡継ぎを生まぬから他所の女のところへ行かねばならぬのだ!子も生まぬ正室が浮気ぐらいでいちいちガタガタ言うな!』といわれて傷つかぬ女子はおりませぬ!」

「な……っ!」
 声をあげたのは正清でなく、傍らに控えた七平太であった。

「そ、そのような事を申し上げたのですか、御方さまに! あまりにございます!それがしは殿を見損ないました!!」

紅潮した頬をあげて睨みつけてくる。
二人から人でなしのように言われて、正清は戸惑いながらも、反論した。

「何を申しておる!俺はさようなことを言った覚えはひとつもないぞ!」
「言葉の言い回しは違えど、姫さまにはそのように伝わっていらっしゃいますよ、と申し上げているのです!」
槇野がまっすぐにこちらを見て言い切った。

「何を馬鹿な……」
言いかけた正清の脳裏にまた、佳穂の姿が過ぎる。

震える体を抱きしめた感触までもが腕に甦ってくるような気がして、正清は言葉を切った。
確かに。
あれは、自分が「妻としてのつとめがどうの」と口にした直後のことではなかったか……。

(いや、しかし…あれは……)
混乱した思案をまとめようと口を噤んだ正清を見て、槇野がふうっと溜息をついた。

「殿がそのような意味で仰られたのではないことは、今日直接お話を伺ってよう分かりました。殿が仰せになりたかったのは、口に出すのも恥ずかしくも憚られることながら、要するに『夫が寝たいと言うたときは、ごちゃごちゃ言わずに言う通りにせよ』ということだったのでございましょう」
実際には恥ずかしくもなんともない様子で槇野がすらすらと口にした。

頷くわけにもいかず。
だが、実のところはそのとおりでもあったので、反論の言葉もなく正清は黙り込んだ。

それを見て、槇野がまた口を開いた。
「姫さまはここ数年来。ご自分が御子に恵まれないことをずっと気に病んでいらっしゃいました」

正清が顔をあげると槇野は静かに言った。
先ほどまでとは、うってかわった寂しげな口調だった。

「もちろん、表向きには何も仰せになられたことはございませぬ。殿もご存知の通り、あのように朗らかに屈託ない様子で日々をお過ごしでいらっしゃいました。なれど……結婚して四年もの月日がたつのにいまだ跡継ぎの男子どころか一人の御子にも恵まれぬことを。姫さまはずっと、殿や義父上さまに申し訳なく情けなくお思いになり、ご自分を責めていらっしゃるように、この槇野はお見受けして参りました」

「………」
正清は声もなく槇野の言葉を聞いていた。

佳穂に子が出来ぬのは、正清とて多少は気にかかっていた。
 
しかし。

(あれはまだ若い。焦らずともそのうちに出来る折もあるであろう)
そのように思って、あまり深く考えたことがなかった。

十三歳で嫁いできた、十以上も年下の佳穂は正清にとって、いつまでたっても、無邪気で他愛のない、少女のような妻であった。

結婚したばかりの頃の、あどけないばかりの面差しの印象が、今でもどこかに残っていて。
佳穂に子が出来ぬといっても、子供が孕めぬのと同じことでどこか「無理のないこと」と思ってしまっていたような節がある。

けれど、言われてみれば佳穂ももう十七になるのだ。
 
胸の奥からまた別の記憶が頭をもたげてくる。

(申し訳ありません……)

あの夜。
正清の体に縋りながら、佳穂は何度かうわごとのようにそう繰り返していた。

その時は、自分が嫉妬で取り乱したことを詫びているのだとばかり思っていたが。

(もうよい。そなたは悪くない。もう謝るな)
そう言って抱きしめると、佳穂は頑なに首を振り。

(いえ……私が悪いのです……私が…)
そう言って声を詰まらせると、しゃくりあげるような声をあげながらますます強く抱きついてきた。
その時は甘えているのだと思い、そんな佳穂をいじらしくこそ思え、それ以外にはなんとも思っていなかったのだが…。

槇野の言葉を聞いた今。
その声がまったく別の意味をもって耳の奥に甦ってきた。

「あの馬鹿……!」
正清が舌打ちするのを見て、槇野がちょっと首を竦めた。

「ようやく思い当たることがおありになられたようですわね」
それに答えず立ち上がる。

「六条へ?」
「知ったことではない」
言い捨てて踵を返した背中に声が追いかけてくる。

「それがよろしゅうございましょう。義父上はことの外、姫さまをお気に入りのご様子。跡継ぎが出来ぬのなら、ご自分がご子息のかわりにお種を授けるお役目を引き受けてやろうなどと、若やいだお気持ちになられておられぬとも限りませぬゆえ」

ぴたりと足が止まる。

「姫さまも普段ならば、悪いご冗談と取り合われぬに決まっておりますが。このような折も折ゆえ、それがご婚家と夫君のお家の御為などと思われて、仰せにしたがうのが武家の『妻としてのつとめ』と思い詰められたりなさらぬとも限りませぬしねえ」

振り向いて睨みつけてやっても槇野は平然としていた。

「まあ、そうは言っても、いくらなんでも姫さまの御腹に殿の年の離れた異母弟君がお生まれになる、などというような事はよもやございませんでしょうが。……もし、そうなられれば、その時は我が姫さまにとって殿は御継子の君ということになられるわけで。元の夫婦が、その明くる年には御親子の仲になられるなど。
 世にも珍しいことではございまするが、よくよくお二人は前世の縁がお深かったということでございましょうねえ。その時はその時で、また改めてよろしくお願い申し上げまする」

馬鹿丁寧に言って深々と頭を下げる槇野に、すぐ側の屏風でも投げつけてやりたい衝動をなんとか堪えて。

正清はそのまま、妻戸を蹴り飛ばすような勢いで開けると足音も荒く厩へと向かった。
七平太が慌てたようについてきた。

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