夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第三章 確執

声(二)

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名を、呼ばれたような気がした。
私は足を止めて振り向いた。

「いかがした?」
頼賢さまがお尋ねになる。
「いえ……なんでもございません」

私は首を振った。
その声は、ここにいる筈のない人のものだったから。
空耳だと思ったのだ。
それでも空耳で聞くほどに自分がその声で名を呼ばれることに焦がれているということに切なくなる。

(今日の宴が終ったらそのまま四条のお邸に帰ろう。また、色々と考えなければいけないことはあるだろうけど。とりあえず、今は帰りたい)

そんなことを思いながら、頼賢さまを促されるまま歩き始めようとしたその時。

「……穂。佳穂!」

もう一度。
今度は先ほどよりもはっきりと私の名を呼ぶ声がした。

「佳穂! おるなら返事をせよ!」
空耳ではない証拠に、頼賢さまも訝しげなお顔であたりを見回していらっしゃる。

そう思ったときには、足が動き出していた。
「お、おい。佳穂?」
私の肩に身を預けるようにされていた頼賢さまのお体が、ふいに支えを失って大きく傾いだけれどそれに構うゆとりもなかった。

声は寝殿の方角から近づいてくる。
私はほとんど小走りになってそちらへ向かった。

「佳穂!」
渡殿の端までくるとまた、今度はさきほどよりも近くでお声がした。
「佳穂! いったいどこをうろうろしておる。おるならさっさと出て来ぬか!」

もう間違いない。
正清さまのお声である。

「殿!」
私は嗜みも忘れて大きな声を出した。
「佳穂はここです。こちらにおります」

しばらくして、ドカドカという足音が近づいてきた。
寝殿の東面の角を曲がって、藍色の直垂をお召しになったそのお姿が現れる。
日にやけて精悍なお顔。
背の高い、逞しい堂々としたその体躯。
 
紛れもない、懐かしい正清さまのお姿がこちらを指して足早に近づいてこられる。

どうしてこちらのお邸にいらっしゃるのか。
そんな疑問よりもまず、久しぶりにお顔が見られたことが嬉しくて。

思わず涙ぐみながら、駆け寄りそうになり。
それでもどうにか堪えて、その場に膝をつき

「お久しゅうございます……」
とご挨拶を申し上げようとした私は、その刹那、痛いほどの力で手首をつかみ寄せられた。

「い、いた…っ」
骨が折れるんじゃないかと思うような力で引き寄せられて、ほとんど引きずられるように立ち上がった刹那、ふいに視界が遮られた。

(え…?)
背中にまわされた腕が、体を強く締めつける。
強く押し付けら過ぎて息が苦しい。

(な、何…?)
抱きしめられている。
と、気がつくまでに少し時間がかかった。

(え? ……えっ?)
気づいた途端に、頬が熱くなる。

驚いて身じろぎしようとするのを制するように腕にこめられた力が強くなる。
「……殿?」

お返事はなかった。
耳元に頬を寄せるようにしながら、さらに強く、強く抱きすくめられて息が止まりそうになる。
 
あまりに現実感のない事態に、殿に会いたさのあまりとうとう白昼夢でも見てしまったのかと危ぶみかけたその時。

「この馬鹿!!」
いきなり頭上から降ってきた懐かしいといえば懐かしい怒鳴り声に、私はびくっと首を縮めた。

「いつまでも家をほっぽりだして、何を浮かれ歩いておる! さっさと帰って来い!」
「え?」

戸惑う私に構わず、正清さまは私の腕をつかむと、そのまま引きずるようにして東の対の方に歩いていこうとされる。

「あの、殿……どちらへ?」
「あちらを通っては宴席の邪魔だ。そこから庭へ降りて東門から出る」

「東門からって…ではお帰りになられるのですか」
「帰らずしてどうするのだ」
「どうって…」
「帰りたくないのか?」
「いえ、そんな……でも、私、その北の方さまのお手伝いで……」
「うるさい」

言下に退けられて私は困惑した。
その間にも正清さまはどんどんと先に立って歩いていってしまわれる。

手を掴まえられている私は、ほとんど小走りになりながらあとについて歩きながら、それでも恐る恐る言ってみた。

「あの、せめておいとまのご挨拶を。このまま失礼するというのはあまりに……」
正清さまがふいに足を止めて振り向かれた。
 
「余計な気をまわさずとも良い。だいたい、おまえは馬鹿のくせに要らぬことを考えすぎるのだ。だからややこしいことになる!」

「馬鹿のくせにって……」
「つまらぬ御託をごちゃごちゃ並べておらずに良いからさっさと帰って来いというておるのだ! 夫の俺がそれで良いといっておるのだから、要らぬことを申すな!」
「要らぬこと……」
日頃、挨拶や礼儀にはことのほかうるさ…生真面目でいらっしゃる正清さまのお言葉とも思われない。

(まさか何かに頭でもぶつけられて、どこかおかしくなられたんじゃ…)
不安になりながらも、妙な迫力に気圧されてそれ以上の反論も出来ずにまた手を引かれるままに歩き出した私は、すぐそこにおられる頼賢さまのお姿に気がついた。

義朝さまの乳兄弟の正清さまのお姿をみて、さぞやご不快をあらわにされるかと思いきや、以外にも毒気を抜かれたような、どこか呆気にとられたようなお顔をなさっておられる。

その視線の先を辿って私は赤くなった。
手を正清さまにつかまれたままになっていることに気がついたのだ。

あちらからはきっと、私たちが子供同士がするように手を繋ぎあっているように見えているのに違いない。

当節、成人した殿方がいくら妻や恋人とはいえ公の場で女と手を繋いで歩くなどということはありえないことだった。
慌てて、その手を放そうとした私は、やはり頼賢さまの存在に気づかれたようなのに、相変わらず正清さまが手を放してくださらないことに当惑した。

いつもの正清さまならば、手を繋ぐどころか朋輩の方々がいらっしゃる公の場では私と二人で話しているのを見られることすら嫌がっておられたのに。

これはいよいよ、どこか変なところを打たれたのかもしれない。
頭を強く打った拍子に、それまでとは全然別の性格になってしまう人の話を槇野がよく読んでいる変な草子本で読んだことがあるもの。

あのお話のなかでは確かもう一度頭を強く打ったらその拍子に元通りになっていたけれど…。
試してみるべきかしら…。

そんなことを考えているうちに正清さまは、頼賢さまにすっと一礼されるとそのまま私の手を引いて大股に歩き出された。
主家の御曹司を前にしているというのに、膝をつきもせず、ご挨拶もなさらないそのお振る舞いにまた驚かされる。
けれど、頼賢さまも御酒をすごされたせいか、お咎めになるわけでもなく黙ってこちらをご覧になっておられる。

お加減が悪いと仰っていた頼賢さまをそのまま放り出してゆくのは申し訳なかったけれど、そんなことを申し上げられる雰囲気でもなければ暇もなかった。

ちょっとでも立ち止まろうとしようものなら、容赦なく引きずっていかれそうな妙な迫力が確かにあった。

私はほとんど小走りになって正清さまのお後に従いながら、かろうじて首だけで振り返って頼賢さまに会釈をした。
頼賢さまは、相変わらず呆気にとられたようなご様子でこちらを見送っておられた。

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