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第三章 確執
声(三)
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門を出たところで七平太が待っていた。
私の顔を見るなり
「御方さま…ご無事でなにより…」
と、言いかけて声を詰まらせる。
ご無事でもなにも、七平太は私が義父上に連れられて六条のお邸へ行くのを見ていたはずなのに。
何をそんなに心配していたのかしら。
どうもさっきから様子がおかしい。
正清さまは七平太が差し出した太刀を掴んで腰にさすと、
「行くぞ」
と言い置いて、さっさと歩き出してしまわれた。
さすがに往来に出るときに手は放して下さっている。
「ねえ」
なにがどうなっているのか事情を尋ねようと七平太の方を振り向くと、身振りだけで懸命に、
(いいから殿のお後についていって下さい)
と訴えかけてくる。
(頼むから今話しかけないでくれ)
といった雰囲気だ。
仕方なく私は首を捻りながら、足を早めて正清さまのあとを追った。
殿も七平太もみんなまとめて悪いところでも打ったのかしら。
そんなことを考えながら歩いていくと、道の向こうから通清義父上が歩いて来られるのが見えた。
(あら、仮病をやめてあちらのお邸に参上する気になられたのかしら)
私は立ち止まってお辞儀をした。
義父上は、にっと笑われた。
「お揃いで仲の良いことだ。その分ならどうやら斬った張ったの騒ぎにまでは至らなかったようだな」
数歩先を歩いておられた正清さまが戻って来られると、私を背の後ろに押しやるようにして義父上に向かい合われた。
そのままご挨拶を申し上げるでもなく、黙って向き合っておられる。
わけがわからないなりに不穏な空気を感じて、私はお背の陰から顔を出して、義父上に丁寧に一礼した。
「義父上。長いことお世話になりました。これで失礼致します。菊里さんにもどうぞよろしくお伝え下さいませ」
「ああ、分かった」
義父上は鷹揚に頷かれた。
正清さまはただ黙ってじっと義父上の面をご覧になられてから、
「行くぞ」
とだけ言って、義父上には何も仰らずにその脇を抜けて通っていこうとされる。
「まあ、でも……」
「いいから行くぞ」
たまに口諍いくらいはなされるとはいえ、基本的にとても義父上を敬っていらっしゃるいつもの正清さまのなさりようとはとても思えない。
「あの殿、本当にどうなさったのですか?」
「どうもせぬ」
「だって……」
「父が何を言おうと気にすることなどない。夫の俺が帰って来いというておるのだ!」
「い、痛いです。殿、ちょっと…」
言いかける私を引きずるようにして正清さまは歩いていかれる。
私は義父上にどうにか会釈だけ返すと、そのままおあとについて歩き出した。
まったく今日はよく分からないことばかり起こる日である。
しばらく行ったところで後ろから義父上のお声が追いかけてきた。
「主家の宴の最中に乱入してまで一刻も取り戻したかった可愛い恋しい妻なのであろう。これに懲りたら、少しは大事にしてやることだ」
正清さまは応えられない。
立ち止まることも振り返ることもされずに、さらに歩いていく速度を増されただけだった。
あとについて懸命に足を動かしながらそのお背中を見ているうちに。
今更ながら、胸のうちにじわじわと温かな気持ちが湧き上がってきた。
ずっと、ずっと、会いたかった正清さまがすぐそこにいらっしゃる。
何かに怒っていらっしゃるみたいで、その理由も私にはよく分からないけれど。
でも、大きなお背中も無骨でごつごつとしたお手も。
会うなり「この馬鹿!」と叱りつけられたお声も。
ろくにこちらの顔も見ないで、どんどんと歩いていかれるそのそっけない態度も。
どれも私の好きな正清さまで。
全部が懐かしくて、慕わしくて。
それに……。
やり方はどうあれ、正清さまはわざわざ六条堀河のお邸にまで迎えに来て下さったのだ。
槇野か誰かを通じてお使いを下されば、一人で勝手に帰ったのに。
いつも無骨で無愛想で。
何をお考えになっているのか、いまいちよく分からない……というかほとんど義朝さまの事なのだろうけれど。
私のことなど好いて下さっているのか、それほどでもないのか。
まさか嫌われているとまでは思わなかったけれど、そのあたりの調度品かそれこそ家に帰れば出てくる食べなれた夕餉の膳くらいにしか思われていないのではないかと思っていたのだけれど。
迎えに来て下さった。
その事実が、じわじわと水が沁み込むように入ってくるにつれ、私は切ないほどの慕わしさが胸の奥底から湧き上がってくるのを感じて、思わず立ち止まった。
正清さまが振り返られるよりも早く。
私はぎゅっとそのお袖にしがみついた。
「殿」
振り仰ぐと、戸惑ったようにこちらを見下ろすお目と目が合った。
私は一気に言った。
「お迎えに来て下さってありがとうございました」
「……」
「ずっと、ずっとお会いしとうございました。佳穂は嬉しゅうございます」
正清さまは虚をつかれたようにこちらをご覧になっておられる。
口元が何か仰ろうとするように、何度か開きかけ、また閉じられ。
眉が不機嫌そうにギュッと寄せられた。
(馬鹿、こんなところで何を言うておる!)
とでも怒鳴られるのかと思った矢先。
ふっ、と頬にお手が触れた。
指先が目のふちをなぞるように動き、その時はじめて私は自分が涙ぐんでいたことと、零れた雫が頬を伝って落ちていたことに気がついた。
子供をあやすように、壊れ物に触れるように優しかった指の動きは、私がじっと見つめているのに気がつくと急に無愛想なものに変わった。
ごしごしっと乱暴に涙をふき取ると、そっけなくお手は離れていった。
そのまま、くるりと踵が返される。
結局、お言葉はなにもなかった。
けれど、私の胸のうちいっぱいに広がったあたたかな幸せな気持ちは消えなかった。
離せと言われないのをいいことに、藍色の直垂のそのお袖を握ったまま、私は正清さまのあとについて歩き出した。
四条の邸はもうすぐそこだった。
私の顔を見るなり
「御方さま…ご無事でなにより…」
と、言いかけて声を詰まらせる。
ご無事でもなにも、七平太は私が義父上に連れられて六条のお邸へ行くのを見ていたはずなのに。
何をそんなに心配していたのかしら。
どうもさっきから様子がおかしい。
正清さまは七平太が差し出した太刀を掴んで腰にさすと、
「行くぞ」
と言い置いて、さっさと歩き出してしまわれた。
さすがに往来に出るときに手は放して下さっている。
「ねえ」
なにがどうなっているのか事情を尋ねようと七平太の方を振り向くと、身振りだけで懸命に、
(いいから殿のお後についていって下さい)
と訴えかけてくる。
(頼むから今話しかけないでくれ)
といった雰囲気だ。
仕方なく私は首を捻りながら、足を早めて正清さまのあとを追った。
殿も七平太もみんなまとめて悪いところでも打ったのかしら。
そんなことを考えながら歩いていくと、道の向こうから通清義父上が歩いて来られるのが見えた。
(あら、仮病をやめてあちらのお邸に参上する気になられたのかしら)
私は立ち止まってお辞儀をした。
義父上は、にっと笑われた。
「お揃いで仲の良いことだ。その分ならどうやら斬った張ったの騒ぎにまでは至らなかったようだな」
数歩先を歩いておられた正清さまが戻って来られると、私を背の後ろに押しやるようにして義父上に向かい合われた。
そのままご挨拶を申し上げるでもなく、黙って向き合っておられる。
わけがわからないなりに不穏な空気を感じて、私はお背の陰から顔を出して、義父上に丁寧に一礼した。
「義父上。長いことお世話になりました。これで失礼致します。菊里さんにもどうぞよろしくお伝え下さいませ」
「ああ、分かった」
義父上は鷹揚に頷かれた。
正清さまはただ黙ってじっと義父上の面をご覧になられてから、
「行くぞ」
とだけ言って、義父上には何も仰らずにその脇を抜けて通っていこうとされる。
「まあ、でも……」
「いいから行くぞ」
たまに口諍いくらいはなされるとはいえ、基本的にとても義父上を敬っていらっしゃるいつもの正清さまのなさりようとはとても思えない。
「あの殿、本当にどうなさったのですか?」
「どうもせぬ」
「だって……」
「父が何を言おうと気にすることなどない。夫の俺が帰って来いというておるのだ!」
「い、痛いです。殿、ちょっと…」
言いかける私を引きずるようにして正清さまは歩いていかれる。
私は義父上にどうにか会釈だけ返すと、そのままおあとについて歩き出した。
まったく今日はよく分からないことばかり起こる日である。
しばらく行ったところで後ろから義父上のお声が追いかけてきた。
「主家の宴の最中に乱入してまで一刻も取り戻したかった可愛い恋しい妻なのであろう。これに懲りたら、少しは大事にしてやることだ」
正清さまは応えられない。
立ち止まることも振り返ることもされずに、さらに歩いていく速度を増されただけだった。
あとについて懸命に足を動かしながらそのお背中を見ているうちに。
今更ながら、胸のうちにじわじわと温かな気持ちが湧き上がってきた。
ずっと、ずっと、会いたかった正清さまがすぐそこにいらっしゃる。
何かに怒っていらっしゃるみたいで、その理由も私にはよく分からないけれど。
でも、大きなお背中も無骨でごつごつとしたお手も。
会うなり「この馬鹿!」と叱りつけられたお声も。
ろくにこちらの顔も見ないで、どんどんと歩いていかれるそのそっけない態度も。
どれも私の好きな正清さまで。
全部が懐かしくて、慕わしくて。
それに……。
やり方はどうあれ、正清さまはわざわざ六条堀河のお邸にまで迎えに来て下さったのだ。
槇野か誰かを通じてお使いを下されば、一人で勝手に帰ったのに。
いつも無骨で無愛想で。
何をお考えになっているのか、いまいちよく分からない……というかほとんど義朝さまの事なのだろうけれど。
私のことなど好いて下さっているのか、それほどでもないのか。
まさか嫌われているとまでは思わなかったけれど、そのあたりの調度品かそれこそ家に帰れば出てくる食べなれた夕餉の膳くらいにしか思われていないのではないかと思っていたのだけれど。
迎えに来て下さった。
その事実が、じわじわと水が沁み込むように入ってくるにつれ、私は切ないほどの慕わしさが胸の奥底から湧き上がってくるのを感じて、思わず立ち止まった。
正清さまが振り返られるよりも早く。
私はぎゅっとそのお袖にしがみついた。
「殿」
振り仰ぐと、戸惑ったようにこちらを見下ろすお目と目が合った。
私は一気に言った。
「お迎えに来て下さってありがとうございました」
「……」
「ずっと、ずっとお会いしとうございました。佳穂は嬉しゅうございます」
正清さまは虚をつかれたようにこちらをご覧になっておられる。
口元が何か仰ろうとするように、何度か開きかけ、また閉じられ。
眉が不機嫌そうにギュッと寄せられた。
(馬鹿、こんなところで何を言うておる!)
とでも怒鳴られるのかと思った矢先。
ふっ、と頬にお手が触れた。
指先が目のふちをなぞるように動き、その時はじめて私は自分が涙ぐんでいたことと、零れた雫が頬を伝って落ちていたことに気がついた。
子供をあやすように、壊れ物に触れるように優しかった指の動きは、私がじっと見つめているのに気がつくと急に無愛想なものに変わった。
ごしごしっと乱暴に涙をふき取ると、そっけなくお手は離れていった。
そのまま、くるりと踵が返される。
結局、お言葉はなにもなかった。
けれど、私の胸のうちいっぱいに広がったあたたかな幸せな気持ちは消えなかった。
離せと言われないのをいいことに、藍色の直垂のそのお袖を握ったまま、私は正清さまのあとについて歩き出した。
四条の邸はもうすぐそこだった。
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