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第五章 保元の乱
敗走
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それは突然のことだった。
戦場を突っ切って飛んできた矢が、新院の一行から少し遅れて急いでいた馬上の頼長の首に突き刺さったのだ。
当人はもとより、頼長を鞍のまえにのせて手綱を握っていた、少納言成澄も一瞬何が起こったのか分からなかった。
矢に気づいた成澄は、動転してとっさに引き抜いた。
血が竹筒から押し出された水のように勢いよく噴きだし、薄青色の狩衣がみるみる真紅に染まった。
頼長は気を失い、ぐらりと鞍の前輪によりかかった。
成澄は何とか抱きとめようとしたが、力が抜けきっている頼長のからだが馬上から崩れおちていくのを支えることが出来ず、一緒に馬上からすべり落ちながらなおも懸命にあるじの体を抱きかかえていた。
「殿! 殿!!」
式部大夫成憲が、馬から飛び降りて駆けよってくる。
頼長の頭を膝に抱え上げて名を呼んだが、頼長は目は開いているものの返事もせず、ただ荒い呼吸を繰り返すばかりである。
先を駆けていた家弘はこれに気づき、さらに先にいた平忠正を呼び返した。
「左大臣さまが矢に当たり、落馬されたらしい」
「おいたわしいことだ。ともかく、この場を離れねば」
急ぎとって返して頼長を馬上に担ぎ上げようとするが、出血がひどく、意識もない様子で、
成澄、成憲ら側近たちが、
「このような状態で馬になど揺られたら、血が止まらずに亡くなってしまいます!」
と泣き声をたてるので、やむなく近くの家に担ぎこみ、応急の手当をすることにした。
傷口の血を拭きとってよく見てみると、矢傷は左の耳の付け根から喉のほうにさかさまに突き抜けていた。
戦に馴れた忠正、家弘ら武士の目から見ても只事ではない傷の様子である。
「ああ、よりにもよって何故、大臣の位にあられるような御方がこのような恐ろしい目に……」
袖で顔を覆って泣き騒ぐ成憲らをなだめて、とりあえず止血をする。
とはいっても腕や脚ならばともかく、傷口が首から喉を射通してているので、完全にはとまらない。
こうしている間にも、帝方の追手が踏み込んでくるのではないかと気が気ではなかったが、追手の方もまさか、院方の最重要人物の一人である頼長が、こんな小家にひそんでいるとは思わず、見過ごして駆け去っていったので、その隙に蔵人大夫経憲がひそかに牛車を引いてきたので、それに頼長を乗せて嵯峨の方へと向かった。
嵯峨には経憲の父の山荘があるのだった。
管理人として僧がひとり、住んでいるはずだったが訪ねてみると不在だった。日も落ちてきたので、仕方なく近くの小屋に頼長を下ろし、そこで一夜を明かすことにした。
一方、新院はわずかな供回りの者たちに付き添われて、なんとか如意山へと辿りついたところだった。
そこへ、
「左大臣頼長さまが、お討たれになったとのことです!」
との知らせが届いたので、供の者たちは皆愕然とした。
それまで、いくら戦に敗れたとはいえ公家である自分たちの命にまで危険が及ぶことはないだろうと思っていたのだ。
しかし、前左大臣である頼長が討たれたとあっては自分たちもこの先どのような目に遭うか分からない。
「恐ろしい世になってしまったものだ」
新院が悄然とつぶやかれた。
「とにかく三井寺へ」
という院のご希望に添うべく、一行は山を登り始めた。
夜が明け、日が高く昇ってきた。
義朝のもとに、新院、頼長らが混乱に乗じて白河北殿を脱出し、如意山の方向へ逃げたとの報告があがってきた。
すぐさま追手を向けたが、退却の殿をつとめる為義、為朝らの率いる兵たちの抵抗が激しく、手こずっているうちに両名とも逃してしまったとのことだった。
「老い武者の父上や、若輩の為朝相手に何たるざまだ!」
義朝は憤慨したがどうにもならない。
帝方のほかの将、平清盛や、源義康らと手分けをして追手を出す一方で、白河北殿を焼き払い、頼長の宿所、為義の円覚寺の宿所にも襲撃をかけてことごとく焼き払った。
次々と報告にやってくる郎党たちのなかに、義朝は正清の姿を探していたが見つからなかった。
それぞれの陣営の手勢がごったがえている混雑のなかで、見当たらないのも当然だと思う一方で、正清が、無事でいながら自分のもとへすぐに戻ってこないはずがないという思いが、勝利のあとの高揚した気持ちに影を落としていた。
葦毛の馬や、紺糸縅の鎧の武者を見る度にハッとして振り返り、人違いだと気づいては、
「何をこんなところでウロウロしている! あたりに残党でも潜んでおらぬか見回って来ぬか!!」
と八つ当たり気味に鞭を振り上げる。
その時、従者のひとりが息せききって駆けてきた。
「殿! ただいま戻りました!!」
「おお、金王丸か。いかがした?」
今回、はじめて胴丸を着て戦について出た十二、三ばかりのその少年は、なかなか気ばたらきが良く、機敏なので以前から目をかけている者だった。
「怪我を負ったものたちを、ひとまず近くの寺の庫裏の方に集めているときいてそちらを見て参りました。敵味方、いり混じって多くの兵が運びこまれたおりましたがそこに……」
「正清がおったか!?」
義朝の語勢に金王丸は気圧されたように息を呑んだ。
「い、いえ。正清どののお姿は見えませんでした」
「──そうか」
義朝は落胆した。
負傷者のいる場所を探してきた金王丸を「よう気が利く」と褒めてやるゆとりもなかった。
しかし、いつまでも乳母子ひとりに気をとられているわけにはいかない。
戦は終わったとはいえ、敵方の首魁である新院も頼長も行方知れず。肝心なのはむしろこれからなのである。
沈もうとする気持ちを無理に引き立てて、馬首をめぐらそうとした義朝は、金王丸がなおも何か言いたげにその場にたたずんでいるのに気がついた。
「いかがした?」
「はい……。正清どのはおられせんでしたが……。その……」
「どうした。さっさと言え」
「は……」
金王丸は、なおも少し言いよどむ様子を見せたあとで思いきったように口を開いた。
見ればその目には涙がたまっている。
「戦死者たちを安置してあった御堂のなかに、鎌田権守──通清どののお姿がありました。……新院方の殿を最後までつとめられた末での、お討ち死にだったそうです」
「通清が──」
義朝は茫然と呟いた。
手にした鞭が、無意識に指からすべり落ちた。
戦場を突っ切って飛んできた矢が、新院の一行から少し遅れて急いでいた馬上の頼長の首に突き刺さったのだ。
当人はもとより、頼長を鞍のまえにのせて手綱を握っていた、少納言成澄も一瞬何が起こったのか分からなかった。
矢に気づいた成澄は、動転してとっさに引き抜いた。
血が竹筒から押し出された水のように勢いよく噴きだし、薄青色の狩衣がみるみる真紅に染まった。
頼長は気を失い、ぐらりと鞍の前輪によりかかった。
成澄は何とか抱きとめようとしたが、力が抜けきっている頼長のからだが馬上から崩れおちていくのを支えることが出来ず、一緒に馬上からすべり落ちながらなおも懸命にあるじの体を抱きかかえていた。
「殿! 殿!!」
式部大夫成憲が、馬から飛び降りて駆けよってくる。
頼長の頭を膝に抱え上げて名を呼んだが、頼長は目は開いているものの返事もせず、ただ荒い呼吸を繰り返すばかりである。
先を駆けていた家弘はこれに気づき、さらに先にいた平忠正を呼び返した。
「左大臣さまが矢に当たり、落馬されたらしい」
「おいたわしいことだ。ともかく、この場を離れねば」
急ぎとって返して頼長を馬上に担ぎ上げようとするが、出血がひどく、意識もない様子で、
成澄、成憲ら側近たちが、
「このような状態で馬になど揺られたら、血が止まらずに亡くなってしまいます!」
と泣き声をたてるので、やむなく近くの家に担ぎこみ、応急の手当をすることにした。
傷口の血を拭きとってよく見てみると、矢傷は左の耳の付け根から喉のほうにさかさまに突き抜けていた。
戦に馴れた忠正、家弘ら武士の目から見ても只事ではない傷の様子である。
「ああ、よりにもよって何故、大臣の位にあられるような御方がこのような恐ろしい目に……」
袖で顔を覆って泣き騒ぐ成憲らをなだめて、とりあえず止血をする。
とはいっても腕や脚ならばともかく、傷口が首から喉を射通してているので、完全にはとまらない。
こうしている間にも、帝方の追手が踏み込んでくるのではないかと気が気ではなかったが、追手の方もまさか、院方の最重要人物の一人である頼長が、こんな小家にひそんでいるとは思わず、見過ごして駆け去っていったので、その隙に蔵人大夫経憲がひそかに牛車を引いてきたので、それに頼長を乗せて嵯峨の方へと向かった。
嵯峨には経憲の父の山荘があるのだった。
管理人として僧がひとり、住んでいるはずだったが訪ねてみると不在だった。日も落ちてきたので、仕方なく近くの小屋に頼長を下ろし、そこで一夜を明かすことにした。
一方、新院はわずかな供回りの者たちに付き添われて、なんとか如意山へと辿りついたところだった。
そこへ、
「左大臣頼長さまが、お討たれになったとのことです!」
との知らせが届いたので、供の者たちは皆愕然とした。
それまで、いくら戦に敗れたとはいえ公家である自分たちの命にまで危険が及ぶことはないだろうと思っていたのだ。
しかし、前左大臣である頼長が討たれたとあっては自分たちもこの先どのような目に遭うか分からない。
「恐ろしい世になってしまったものだ」
新院が悄然とつぶやかれた。
「とにかく三井寺へ」
という院のご希望に添うべく、一行は山を登り始めた。
夜が明け、日が高く昇ってきた。
義朝のもとに、新院、頼長らが混乱に乗じて白河北殿を脱出し、如意山の方向へ逃げたとの報告があがってきた。
すぐさま追手を向けたが、退却の殿をつとめる為義、為朝らの率いる兵たちの抵抗が激しく、手こずっているうちに両名とも逃してしまったとのことだった。
「老い武者の父上や、若輩の為朝相手に何たるざまだ!」
義朝は憤慨したがどうにもならない。
帝方のほかの将、平清盛や、源義康らと手分けをして追手を出す一方で、白河北殿を焼き払い、頼長の宿所、為義の円覚寺の宿所にも襲撃をかけてことごとく焼き払った。
次々と報告にやってくる郎党たちのなかに、義朝は正清の姿を探していたが見つからなかった。
それぞれの陣営の手勢がごったがえている混雑のなかで、見当たらないのも当然だと思う一方で、正清が、無事でいながら自分のもとへすぐに戻ってこないはずがないという思いが、勝利のあとの高揚した気持ちに影を落としていた。
葦毛の馬や、紺糸縅の鎧の武者を見る度にハッとして振り返り、人違いだと気づいては、
「何をこんなところでウロウロしている! あたりに残党でも潜んでおらぬか見回って来ぬか!!」
と八つ当たり気味に鞭を振り上げる。
その時、従者のひとりが息せききって駆けてきた。
「殿! ただいま戻りました!!」
「おお、金王丸か。いかがした?」
今回、はじめて胴丸を着て戦について出た十二、三ばかりのその少年は、なかなか気ばたらきが良く、機敏なので以前から目をかけている者だった。
「怪我を負ったものたちを、ひとまず近くの寺の庫裏の方に集めているときいてそちらを見て参りました。敵味方、いり混じって多くの兵が運びこまれたおりましたがそこに……」
「正清がおったか!?」
義朝の語勢に金王丸は気圧されたように息を呑んだ。
「い、いえ。正清どののお姿は見えませんでした」
「──そうか」
義朝は落胆した。
負傷者のいる場所を探してきた金王丸を「よう気が利く」と褒めてやるゆとりもなかった。
しかし、いつまでも乳母子ひとりに気をとられているわけにはいかない。
戦は終わったとはいえ、敵方の首魁である新院も頼長も行方知れず。肝心なのはむしろこれからなのである。
沈もうとする気持ちを無理に引き立てて、馬首をめぐらそうとした義朝は、金王丸がなおも何か言いたげにその場にたたずんでいるのに気がついた。
「いかがした?」
「はい……。正清どのはおられせんでしたが……。その……」
「どうした。さっさと言え」
「は……」
金王丸は、なおも少し言いよどむ様子を見せたあとで思いきったように口を開いた。
見ればその目には涙がたまっている。
「戦死者たちを安置してあった御堂のなかに、鎌田権守──通清どののお姿がありました。……新院方の殿を最後までつとめられた末での、お討ち死にだったそうです」
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