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第五章 保元の乱
夜明け
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七月十一日、深更にはじまった戦は辰の刻ころにはすでに大勢が決したらしい。
帝方の大勝利であった。
新院をはじめ、前左大臣頼長さまなど、上皇方のおもだった人々は皆、行方知れずとなり、信西入道によってその追撃と捜索命令が出された。
三条坊門のお邸では、由良の方さまが一晩中まんじりともせずに戦の経過を知らせる使いを待っておられた。
もちろん、私たち女房も息をつめるようにして御前に控えていた。
巳の刻ごろ(午前10時前後)。ご実家の熱田大宮司家の配下の兵が、お味方大勝利の報をつげると、御方さまは日頃のつつしみ深いご様子にも似合わず、使者の言葉にかぶせるようにして、
「それで、我が殿の御身はご無事ですか? お怪我などは……?」
と、お尋ねになられた。
「はい。お怪我もなくご無事でいらっしゃいます。この度の勝利は義朝さまのお力あってのことと、主上がたいそうお喜びになり、正式に内の昇殿をゆるされたとのことにございます。追って、加階のお沙汰もあろうかと」
「まあ……」
由良の方さまは、感極まったように両手を胸の前で組み合わせて、目を閉じられた。
眦から涙がこぼれて、白い頬を伝い落ちる。
「北の方さま……おめでとうございます」
浅茅さまが涙声で声をかけると、御方さまは少女のようにその腕のなかに身をなげて、むせび泣かれた。
それを見たまわりの女房たちも、一晩中つづいた緊張から解き放たれて、いっせいに啜り泣きをはじめた。
私の胸のうちは複雑だった。
お味方の勝利で、義朝さまがかねてよりの悲願であられた内の昇殿をゆるされた。
それはおめでたいことに間違いないのだけれど。
こちらが勝利したということは、当たり前だけれど上皇さま方は敗れたということだ。
敗軍の将となられた為義さまはどうなってしまわれたのだろうか。そのお側にいたはずの義父上は……。
最後にお会いしたときの義父上のお声が胸によみがえる。
(佳穂。正清を頼む。──あれは不器用な男だ。つらい時につらい顔も出来ぬ、本当に欲しいものを欲しいとも言えぬ、しようのない男だ。わしと亡き妻があれをそのように育ててしまった)
(若君が一番に大事だと。自分のことはいつでも後回しだと。そのように教えて育ててしまった。だからあれがあのように、朴念仁のつまらぬ男になってしまったのは、わしのせいだ。恨むならわしを恨んでくれ)
(これからも正清を頼んだぞ。面白みのない男だが見捨てず側におってやってくれ。──あれを、一人にしないでやってくれ)
あの時、義父上はきっともう二度と会えないことを予感しておられた。
それなのに、私はただ聞いていることしか出来なかった。
今から思えば、申しあげたいことがたくさんあったのに。
御前での報告の声はまだ続いていた。
「新院は蔵人のひとりが馬にお乗せして洛中をお出になられたそうです。前左大臣さまは落ちられる途上、飛んできた矢にあたって討死なされたよし」
「まあ……!」
「前の左大臣さまが……」
ざわめきが広がる。
かりにも摂関家のご一族である御方が、地下侍か何かのように矢に射られて命を落とされるだなんて……。そんなことってあるんだろうか。
「六条判官為義さまとそのご子息がたは、退却の最後の防ぎ矢の役をかってでられ、新院はその間にお逃れになられたそうです。なかでも鎮西八郎さまのおはたらきはすさまじく、追撃を命じられた武士たちも誰も近寄ることすら出来なかったとか……」
それでは大殿や頼賢さま方はご無事でお逃れになられたのかしら。
義父上もご一緒に、今ごろ東国への道を駆け下っていられるのだろうか。
東国まで逃げおおせれば、それでもう大丈夫なんだろうか。
それとも、帝に逆らった罪というのはどこまでも追いかけられて、お咎めを受けずにはいられないものなのかしら。
由良の方さまが、ふとこちらをご覧になった。
「佳穂。悪いけれど、西北の対のかたに殿のご無事を知らせてきてちょうだい。あちらでもさぞや気を揉んでいらっしゃることでしょう」
少し落ち着かれるがはやいか、早速に常盤さまへのお気遣いを見せられるのはもういつもの御方さまだった。
「はい。かしこまりました」
私は、昨晩から不安がってずっと膝にすがりついていた悠を、千夏と小妙に託して西北の対へと向かった。
常盤さまは、お部屋のすみで御厨子におさめられた小さな観音像にむかって小さく御経をとなえておられた。
「常盤さま。佳穂にございます。失礼いたします」
ふりむかれた常盤さまは、おそらく一睡もしていらっしゃらないにも関わらず、あいかわらずハッとするようなお美しさだった。
義朝さまのご無事と、ご昇進のことをお話し申し上げると、瞳にたちまち涙をあふれさせて、
「良かった……。殿の御身にもしものことあらば、この常盤も生きてはおられぬところでした」
と仰って、私の手をとられた。
「佳穂さま。お知らせいただきありがとうございます。佳穂さまが、かように嬉しいしらせをもって来てくださったこの朝のことを、私は生涯忘れませんわ」
そう仰って、涙に濡れた瞳で私の顔をのぞきこまれるご様子は、まるで朝露に濡れて揺れる藤の花房のように可憐で、艶めかしくて、女の私でもどぎまぎと落ち着かない気持ちになってしまった。
「い、いえ。一刻もはやくお知らせするようにとの北の方さまからの仰せでしたので」
由良の方さまのお名前を出すと、部屋のすみにひかえておられた常盤さまの母君があからさまにお顔をこわばらせた。
義朝さまのご無事を知らせるかどうかということまで、ご正室のお指図で行われるのかとご不快になられたのかもしれない。
けれど、常盤さまはますます愛らしくお顔を輝かせて、
「まあ……北の方さまのご配慮でしたのね。このようなときに私のようなものにまでそのようなお心づかいを賜り、もったいのうございますわ」
と、にっこり笑いかけられた。
浅茅さまに言ったら叱られてしまうだろうけれど、私はやっぱり義朝さまがあれほど常盤さまを愛していらっしゃる理由がよく分かると思った。
帝方の大勝利であった。
新院をはじめ、前左大臣頼長さまなど、上皇方のおもだった人々は皆、行方知れずとなり、信西入道によってその追撃と捜索命令が出された。
三条坊門のお邸では、由良の方さまが一晩中まんじりともせずに戦の経過を知らせる使いを待っておられた。
もちろん、私たち女房も息をつめるようにして御前に控えていた。
巳の刻ごろ(午前10時前後)。ご実家の熱田大宮司家の配下の兵が、お味方大勝利の報をつげると、御方さまは日頃のつつしみ深いご様子にも似合わず、使者の言葉にかぶせるようにして、
「それで、我が殿の御身はご無事ですか? お怪我などは……?」
と、お尋ねになられた。
「はい。お怪我もなくご無事でいらっしゃいます。この度の勝利は義朝さまのお力あってのことと、主上がたいそうお喜びになり、正式に内の昇殿をゆるされたとのことにございます。追って、加階のお沙汰もあろうかと」
「まあ……」
由良の方さまは、感極まったように両手を胸の前で組み合わせて、目を閉じられた。
眦から涙がこぼれて、白い頬を伝い落ちる。
「北の方さま……おめでとうございます」
浅茅さまが涙声で声をかけると、御方さまは少女のようにその腕のなかに身をなげて、むせび泣かれた。
それを見たまわりの女房たちも、一晩中つづいた緊張から解き放たれて、いっせいに啜り泣きをはじめた。
私の胸のうちは複雑だった。
お味方の勝利で、義朝さまがかねてよりの悲願であられた内の昇殿をゆるされた。
それはおめでたいことに間違いないのだけれど。
こちらが勝利したということは、当たり前だけれど上皇さま方は敗れたということだ。
敗軍の将となられた為義さまはどうなってしまわれたのだろうか。そのお側にいたはずの義父上は……。
最後にお会いしたときの義父上のお声が胸によみがえる。
(佳穂。正清を頼む。──あれは不器用な男だ。つらい時につらい顔も出来ぬ、本当に欲しいものを欲しいとも言えぬ、しようのない男だ。わしと亡き妻があれをそのように育ててしまった)
(若君が一番に大事だと。自分のことはいつでも後回しだと。そのように教えて育ててしまった。だからあれがあのように、朴念仁のつまらぬ男になってしまったのは、わしのせいだ。恨むならわしを恨んでくれ)
(これからも正清を頼んだぞ。面白みのない男だが見捨てず側におってやってくれ。──あれを、一人にしないでやってくれ)
あの時、義父上はきっともう二度と会えないことを予感しておられた。
それなのに、私はただ聞いていることしか出来なかった。
今から思えば、申しあげたいことがたくさんあったのに。
御前での報告の声はまだ続いていた。
「新院は蔵人のひとりが馬にお乗せして洛中をお出になられたそうです。前左大臣さまは落ちられる途上、飛んできた矢にあたって討死なされたよし」
「まあ……!」
「前の左大臣さまが……」
ざわめきが広がる。
かりにも摂関家のご一族である御方が、地下侍か何かのように矢に射られて命を落とされるだなんて……。そんなことってあるんだろうか。
「六条判官為義さまとそのご子息がたは、退却の最後の防ぎ矢の役をかってでられ、新院はその間にお逃れになられたそうです。なかでも鎮西八郎さまのおはたらきはすさまじく、追撃を命じられた武士たちも誰も近寄ることすら出来なかったとか……」
それでは大殿や頼賢さま方はご無事でお逃れになられたのかしら。
義父上もご一緒に、今ごろ東国への道を駆け下っていられるのだろうか。
東国まで逃げおおせれば、それでもう大丈夫なんだろうか。
それとも、帝に逆らった罪というのはどこまでも追いかけられて、お咎めを受けずにはいられないものなのかしら。
由良の方さまが、ふとこちらをご覧になった。
「佳穂。悪いけれど、西北の対のかたに殿のご無事を知らせてきてちょうだい。あちらでもさぞや気を揉んでいらっしゃることでしょう」
少し落ち着かれるがはやいか、早速に常盤さまへのお気遣いを見せられるのはもういつもの御方さまだった。
「はい。かしこまりました」
私は、昨晩から不安がってずっと膝にすがりついていた悠を、千夏と小妙に託して西北の対へと向かった。
常盤さまは、お部屋のすみで御厨子におさめられた小さな観音像にむかって小さく御経をとなえておられた。
「常盤さま。佳穂にございます。失礼いたします」
ふりむかれた常盤さまは、おそらく一睡もしていらっしゃらないにも関わらず、あいかわらずハッとするようなお美しさだった。
義朝さまのご無事と、ご昇進のことをお話し申し上げると、瞳にたちまち涙をあふれさせて、
「良かった……。殿の御身にもしものことあらば、この常盤も生きてはおられぬところでした」
と仰って、私の手をとられた。
「佳穂さま。お知らせいただきありがとうございます。佳穂さまが、かように嬉しいしらせをもって来てくださったこの朝のことを、私は生涯忘れませんわ」
そう仰って、涙に濡れた瞳で私の顔をのぞきこまれるご様子は、まるで朝露に濡れて揺れる藤の花房のように可憐で、艶めかしくて、女の私でもどぎまぎと落ち着かない気持ちになってしまった。
「い、いえ。一刻もはやくお知らせするようにとの北の方さまからの仰せでしたので」
由良の方さまのお名前を出すと、部屋のすみにひかえておられた常盤さまの母君があからさまにお顔をこわばらせた。
義朝さまのご無事を知らせるかどうかということまで、ご正室のお指図で行われるのかとご不快になられたのかもしれない。
けれど、常盤さまはますます愛らしくお顔を輝かせて、
「まあ……北の方さまのご配慮でしたのね。このようなときに私のようなものにまでそのようなお心づかいを賜り、もったいのうございますわ」
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