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第六章 慟哭
胸騒ぎ
しおりを挟むそして翌日。
その日は義朝さまのところへも行かれずお一人で部屋で過ごされた正清さまがお出かけのお支度を始めたのはもう日も傾きかけた夕刻頃だった。
今日はもう何も起こらないのではないか。
もしかしたら、死罪というの自体が取りやめになったのかも。
そんな淡い期待を抱いてその日一日を過ごした私は、
「そろそろ出かける」
というお声を聞いた途端、ふいに背中から突き飛ばされたような気がした。慌てて立ち上がって、もうあらかた身支度を終えられた正清さまに駆け寄る。
いつものように太刀を取って来ようとしたが正清さまがそれを制して、ご自分で太刀置きから取り上げると腰に佩かれた。
「遅くなる。先に休んでいよ」
「はい……」
正清さまのあとについて歩きながら私は(何か言わなければ)という思いに取りつかれて焦っていた。
何故だか分からないけれど何か申し上げなければいけない気がしていた。
そうしなければ取り返しがつかないことになるような気がして。でも焦れば焦るほど何を言えばいいのか思いつかなかった。
「では、行って参る」
いつもの場所で、こちらを振り返って言われる正清さまの直垂のお袖を私はとっさにつかんだ。
「佳穂?」
「殿、あの……私……」
「どうした?」
正清さまが私の顔を見た。目が合った瞬間、口から出て来たのは
「もう少しいらして下さい」
という自分でも思いがけない言葉だった。
正清さまが小さく笑われた。
「もう少し、とはどれくらいだ」
「あの、あと一刻ほど」
「それは無理だな。大殿をお待たせしている」
為義さまのお名が出た途端、胸をギュッとつかみ上げられたような気がした。
「その、では……半刻。無理なら四半刻……」
「おかしなやつだな。いったいどうしたのだ」
いつもなら即座に「この馬鹿、何を言っておる」と仰るはずの正清さまが少しもお怒りにならない。
それどころか何だかとても優しい、穏やかな目でこちらをご覧になっている。
そのことが私をますます不安にさせた。
「では、十数える間だけでも……!」
「十? その間だけ待てばそれでいいのか」
呆れたように笑って正清さまが私の肩を引き寄せて抱きしめた。
「一、二、三……」
隠れん坊の鬼のように正清さまが数を数え始める。
「六、七、八……」
数が進むにつれて抱きしめる腕の力が強くなってきて息が止まりそうになる。
「九……」までいったところで私は手を伸ばして正清さまのお口を両手のひらでおさえた。
「おい、何だ」
くぐもった声で正清さまが言われる。
「行かないで」
お口を押えたまま子どものようにぶんぶんと首を振る。
今度こそ叱られると思ったのに、今度も正清さまは呆れたように笑っただけだった。
「しようのないやつだな、まったく」
そう言って、そっと私の手を外させるとぽんぽんと頭を撫でられる。
そのまま、「じゃあ行ってくる」と出ていかれようとする正清さまの今度は腕に私はしがみついた。
「いつもみたいに仰って下さい」
「何がだ」
「いつもみたいに、『すぐに戻る。いい子で待っておれ』と仰って下さい」
「それを言うとおまえはいつも、子ども扱いするなと怒るではないか」
「怒りませんから。だから仰って下さい」
「いい加減にせぬと怒るぞ」
そう言いながらも正清さまのお声は穏やかなままだった。私をご覧になるお顔もとてもお優しい。
けれど、私の頬を撫でた正清さまが仰ったのは私がねだった言葉ではなかった。
「帰りは遅くなる。待たずともよい」
私ははっと顔を上げた。
「長田の父上が野間へ帰るようにと言われたのを断ったそうだな。今からでも久しぶりに戻ってきたらどうだ。父上も母上もさぞやお喜びになるだろう」
長田の実家の者たちは正清さまがお戻りになられてすぐに、空々しい無事を喜ぶ言葉を残してさっさと帰郷してしまっていた。
「七平太に送らせてもいい。悠を連れていくのが差し障るのならそのまま悠は相模の、菊里のところへやっても構わぬ」
「嫌です!!」
私は大声で言った。少し離れた場所で控えていた七平太が顔を上げて気遣わしげにこちらを見た。
「嫌です。私はどこへも参りません。悠もどこへもやりません。ここで、殿のお帰りをお待ちしています」
「佳穂」
正清さまが私の頬に触れたままで言った。
「父や橋田がよう言っておった通りだ。おまえは三国一の妻だ。俺にはもったいない」
「何を、仰せられます……」
「いや。結婚して以来、ろくに夫らしいこともしてやれぬままだったなと思ってな。そなたにはすまぬことをした」
「そんなこと。どうしてそんな……まるで」
(遺言みたい)
という言葉を私は急いで頭のなかで打ち消した。縁起でもない。
「行ってくる」
正清さまの手が離れた。
私はきっと縋るような、今にも泣きだしそうな顔をしていたのではないだろうか。
正清さまは困ったように笑って、指でこつんと私の額を小突いた。
「なんだ、その顔は」
額を押さえる私の髪をもう一度、くしゃくしゃと乱暴に撫でてそのまま踵をかえして出ていかれた。
七平太が私の方に、ぺこっと頭を下げてからあとについていく。
正清さまは一度も振り返らなかった。
私はその場にへたりと座り込んで、いつまでも正清さまが出て行った門の方をみつめていた。
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