夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第六章 慟哭

仔犬

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正清さまが為義さまをお斬りになる。その噂は瞬く間に家中に広まった。
 
それを私は正清さまご本人ではなく北の対に仕える女房の一人から知った。
事の真偽を確かめようと話しかけてきたその女房は、私が驚いているのを見て気まずそうな顔で離れていった。

邸内には重たい空気が流れた。
勝手なもので、義朝さまの恩賞がなくなることを心配して大騒ぎをしていた人ほど、大袈裟に眉をひそめて正清さまを非難した。

「まさか鎌田が自ら名乗り出てまで引き受けたとはな。父親の通清どのが最後の最後までお仕えしたご主君ではないか」

「それだけではない。あの者は義朝さまとは幼い頃から兄弟のように育ち、大殿にも我が子同然に可愛がっていただいていたはずだ。家中皆が反対しても最後まで大殿を庇って然るべきなのに恩知らずもいいところだ」

「不忠のうえに不孝。義朝さまのご機嫌とりもあそこまで行けば立派なものだな。とても真似は出来ぬが」

そんな声があちらこちらで囁かれた。
私の姿を見かけて慌てて口をつぐむ人や、反対にわざと聞えよがしに言ってくる人もいた。

そんなある日、邸内で波多野義通さまとすれ違った。
もともと、正清さまのことを嫌っていらした方のことなので、さぞや酷い厭味や罵声を浴びせてくるだろうと身構えたが、私をちらりと見ると何も言わずにすっと目を逸らし、行き過ぎていかれた。
私を見るのも嫌な気分だったのかもしれない。

由良の方さまや浅茅さまは、気を遣って下さっているけれど敢えてそのことに関しては何も仰らなかった。何といって声をかけていいのか分からなかったのだと思う。
私にしても何を言われても、どうお答えして良いのか分からない。

処刑の日は七月の三十日と決まった。
その前の夜。正清さまは普段よりも少し早く四条の邸にお帰りになった。

「おかえりなさいませ」
 いつものようにお出迎えすると、土間の上がり口のところで少し立ち止まってじっと私をご覧になった。

「殿?」
「……ああ。今、帰った」
 そう言われて、ぽんっと私の頭に手のひらを乗せてくしゃっと撫でられた。

 お召替えを手伝って夕餉の御膳を差し上げたが、正清さまはあまり召し上がらず、途中でお酒を所望された。
 明日のことを思えば無理もないとは思いながら、私はお酒と酒肴をのせた御膳を運んできた。

けれど、正清さまは酒肴にもほとんどお手をつけられず、飲みたいと言われたお酒もほんの少し口をつけただけだった。
盃がまったく空かないのでお酌をすることもなく、かと言ってこんな夜に何をお話すればいいのか分からずに黙っている私に、珍しく正清さまの方から色々とお話をして下さった。

それは正清さまと義朝さまがまだ幼い頃のお話だった。

「殿の御生母は、藤原忠清さまという白河院の近臣の娘御であられた。だから殿は生まれてから六つの年までこの京の都で生い育たれた」
「まあ。そうだったのですね」
噂では少し聞いたことがあるけれど、正清さまのお口から聞くのは初めてだった。

「殿が生まれてすぐに乳母にあがったのが俺の母だった。それ以来、片時も離れずにお側にお仕えしてきた。そして同じく六つの年に義朝さまのお供をして父の領国である相模へと下った」

「では殿も六つのお年まで京でお過ごしだったのですね」
「ほとんど何も覚えていない。だが、そんな中でもはっきりと覚えていることがある」
「何でしょう?」
 
「その頃、武者丸君と呼ばれていた殿は今とは違ってお体が弱くて、しょっちゅう風邪を召されたり、体調を崩されていた。母は、乳母だから当たり前だから若君につきっきりで、実の子ながら俺はずいぶんと放っておかれた。その頃は母の侍女だった菊里や、他の侍女たちに構われて大きくなったようなものだ」

 話しながら正清さまの目は、庭の暗がりの方をじっと見ておられた。
 私に話すというよりは、ご自分のなかの思い出をなぞっておられるようだった。私は出来るだけ、お邪魔にならないように控えめに相槌を打ちながら聞いていた。

「ある時、俺はどこかから子犬を拾ってきた。茶色で額のところに白い線の入った毛をしていて可愛いやつだった。俺は自分でそいつの世話をしながら夢中で可愛がった。橋田に手伝って貰って庭の隅に小屋も作ってやった。けれど、そいつが庭先で遊んでいた武者丸さまを噛んでしまった。

 大騒ぎになった。母は怒って俺がそんな犬を拾ってきたからだと叱りつけた。下男に命じて打たせようとするのを必死にかばった。
 小隼丸……ああ、俺がつけた犬の名だ。小隼丸は悪くない。ただ急に若君が尻尾をつかまれたから驚いたんだ。いつもは絶対に噛んだりしない。そういって食ってかかった。
 母は怒って俺を叩いた。『若君とそんな犬とどっちが大切なの。おまえはそれでも若君の乳兄弟なの』と。
 橋田が一緒に口添えをしてくれて、なんとか下男に打たせるのは許して貰ったが、そのかわりどこか遠くへ捨てて来いと言われた。

 俺は、泣きながら自分で捨ててくると言った。
 下男たちにまかせたら途中で叩いたり川に捨てたり、ひどいことをするかもしれないと思ったからだ。

 それで邸を出て、いつも小隼丸と遊んでいた野原へ行った。そこでいつものように棒を投げてやって、小隼丸がとりに走っている間に自分も走って逃げてきた。
 けれど小隼丸はそれに気づくと全力で走ってついてきた。何度やってもついてくる。けど、邸へ連れて戻ったら今度こそ打ち殺されてしまうかもしれない。

 そう思った俺は、小隼丸の首に紐を結んで、そのあたりの木に括りつけてから走って帰ってきた。後ろでキャンキャン鳴く声がどこまでも追いかけてきた。俺は耳を塞ぎながら走った。途中で何度も転んで、耳を塞いでいたせいで顔を擦りむいて、痛いのか悲しいのか分からずに泣きながら帰った。

 その夜は夕餉もとらずに小隼丸の小屋の近くに蹲っていた。誰にも何も言われたくなかった。

 小隼丸はあの後どうなっただろう。いい人が見つけて拾ってくれたならいい。
 けれど、もし誰かに苛められていたら。
 それよりも烏や野犬にみつかって襲われたら?
 紐でくくってきてしまったから小隼丸は逃げることも出来ない。そう思うとたまらなかった。

 そのうちに父が帰って来たのが分かった。俺を呼ぶ声がしたけど出ていかなかった。
そのうちに泣きながら眠ってしまったんだな。
しばらくして『小鷹。起きよ、小鷹』と肩を揺すぶられて目を覚ますと目の前に大殿が立っていて、手に小隼丸を抱いておられた」

「為義さまが?」
「ああ。小隼丸は俺を見ると尻尾を振って嬉しそうに飛びついてきた。夢でも見ているのかとぼんやりしていると、大殿が俺の頭を撫でてくれた。
『すまなかったな、小鷹。そなたの言う通り、小隼丸は何も悪くないぞ。これからも可愛がってやれ』と、そう仰せられた。母から話を聞かれた大殿は逆に母を叱りつけられ、御自ら小隼丸を探しに行って下さったのだそうだ」

「まあ……」

「『そなたたちが武者丸を大切にしてくれるのは有難い。だがその為に小鷹が可愛がっている、何の罪もない子犬を打てだの、捨てよだの。そんなことをされた小鷹が今後、何のわだかまりもなく武者丸に仕えられると思うのか』と。『わしは通清を実の兄弟同然に思うておる。その通清の子は我が甥も同じだ。今後、二度とこのようなことをするな』とそう仰せられたと。だいぶ大きくなってから父から聞かされた。その時、俺は思った。
 俺の主君は武者丸さまだが、大殿の御恩を生涯忘れまい。この方の為ならば命もいらぬと。身命を賭してお仕えし、いつの日か必ず御恩を返そうと。そう心に誓った」

(その為義さまを、正清さまは明日自らお斬りになる……)

私は言葉もなく膝の上の手をぎゅっと握りしめた。

(そんなことが、本当にお出来になるの?)

胸騒ぎがした。

その後も夜更けまで正清さまのお話は続いた。

どれも昔のお話で、少年の頃の正清さまに為義さまがどんなにお優しくして下さったか。
どこかへお出かけになったお土産を持って帰られる時などは、必ず義朝さまと同じものを買ってきて下さり、母君が義朝さまにかかりきりで寂しい思いをしている時にふいにやってきて突然肩車をしたり、お馬の鞍の前に一緒に乗せたりして下さった。

そんなお話をする正清さまのお顔はとても静かで。お声も昔を懐かしむように穏やかで楽しそうですらあって……。
そんな様子を見ればみるほど、私の胸の中にはどんどん不安が広がっていった。

その夜、褥に入ってからも私は少しも眠れなかった。
正清さまは、横になってからは一言もお話にならなかったけれど、眠っておられないのは分かっていた。
そっとお手に触れると、痛いほど握り返された。
そのまま、私たちは長い夜を、寄り添ったまま無言で過ごした。眠りはとうとう明け方まで訪れなかった。
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