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第六章 慟哭
東の空
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東の空が白々と明けてきても正清さまはお帰りにならなかった。
槇野や楓が心配するので、部屋に引き取って横になったものの一睡も出来なかった私はまだ薄暗いうちに寝床を抜け出し、皆を起こさないように外へ出た。
七月も末の京の朝はもうだいぶ肌寒く、庭に下りて草履を履くと地面からひんやりとした感触が伝わってきた。私は小袖の上から羽織った単衣を掻き合わせた。この夏は手入れを怠ってしまっていた庭の下草から虫の音が聞こえる。
前にもこんなことがあった。
夜明け前に目を覚まして水屋に水を飲みに行った。そこで馬の嘶きが聞こえて。
厩に行ったら、正清さまがいた。
私たちが初めて出逢った夜のことだ。
私は馬を盗みにきた夜盗だと勘違いして大騒ぎをして。
そうしているところに兄さまたちと、義父上がいらして。
(なんと勇ましい姫じゃ!我が鎌田家の嫁に相応しい勇猛ぶりではないか!のう、正清?)
(さすが長田殿。娘御を立派にお育てになられた。良き嫁を得て我が家は末長く安泰じゃ)
父上の豪快な笑い声とよく響くお声が、昨日のことのようにまざまざと耳に甦った。
けれどその義父上はもういない。
そして正清さまも戻って来ない。
私は木戸を開けて表へ出た。
一昨日の夜、正清さまは幼い頃の為義さまとの思い出を話して下さった。
正清さまが可愛がっていた仔犬を、自ら探しに行って連れ戻って下さった為義さま。
まるで我が子のように、義朝さまと分け隔てなく愛情を注いで下さった為義さま。
──そして、義父上が最後の最後まで命を賭けてお守りしようとした為義さま。
そんな為義さまをあの人が殺せるはずがない。
私は、人気のない道を足早に歩きだした。
東山っていうのはここからだとどっちへ行けばいいんだろう。
京に上ってもう六年も経つのに、四条の邸と三条坊門のお邸と六条堀河のお邸と……そのあたりを行き来するくらいだった私は、いまだに都の周辺の地理も分かっていなかった。
東山というからには東──とりあえず鴨川の方を目指せばいいんだろうとそちらへ向かって歩き出す。
(俺の主君は武者丸さまだが、大殿の御恩を生涯忘れまい。この方の為ならば命もいらぬと。身命を賭してお仕えし、いつの日か必ず御恩を返そうと。そう心に誓った)
そう仰った正清さまのお声はありありと思い出せるのに、その時、正清さまがどんなお顔をしていたのか、どうしても思い出せない。
正清さまに為義さまは殺せない。
だとしたら?
為義さまを斬らなければ、義朝さまは勅命に背いたとして罰せられないまでも恩賞を取り上げられる。そうなったら乱の折に義朝さまに従った人たちの信頼をも失ってしまうかもしれない。
正清さまにはそれも出来ない。
為義さまを殺さずに、義朝さまのお立場も守る方法は?
そんなの私には思いつかないけど、一つだけ確かなことがある。
正清さまは大切な方たちを守るためなら、迷うことなくご自分の命を捨てることを選ばれる。義父上が、橋田殿がそうされたように──。
正清さまは、きっと最初からご自分が死ぬつもりでこのお役目を引き受けられた。
命にかえても為義さまをお逃しするか、それが出来なければともに死ぬおつもりで。
お出かけになる正清さまをお見送りする時に私にはたぶん、薄々それが分かっていた。だからあんなに胸騒ぎがしたんだ。
だけど止められなかった。分かっていたのに行かせてしまった。
いてもたってもいられなくなって私は走り出した。
はっきりした場所も分からないのに辿りつけるか分らない。
たとえたどり着けたとしても私には正清さまのなさることを止められない。
けれど、そうしないではいられなかった。
義朝さまは正清さまがしようとしていることをご存じないはずだ。
知っていたら行かせるはずがない。
正清さまは、為義さまと義朝さまご自身を守るために、おそらく初めて義朝さまに嘘をついた。
真面目で、何より義朝さまに忠実なあの方にとってそれはどんなにかおつらく心苦しいことだっただろう。
そんな気持ちのまま、あの方をお一人にしておくことなんか出来ない。
(あれは不器用な男だ。つらい時につらい顔も出来ぬ、本当に欲しいものを欲しいとも言えぬ、しようのない男だ。わしと亡き妻があれをそのように育ててしまった)
最後にお会いした時。義父上は悲しそうに笑ってそう言われた。
(正清を頼む)
(あれを、一人にしないでやってくれ)
あの時、私は義父上が何を仰っているのかよく分からなかった。
だから、きちんとしたお返事も出来なくて……。
でも今なら痛いほど分かる。
義父上の仰られた通り、正清さまは義朝さまの御為ならご自分のことはいつも後回しだ。義朝さまのためなら何もかもを投げ打って顧みられない。
だから、あの人のことを想うのなら、あの人のお側にいたいのなら、自分から追いかけていかなくちゃ駄目なのだ。
婚礼を挙げたばかりの夜。正清さまは私にこう言われた。
「殿のこと一途で、その他の事は構いつけもせぬ、そんな夫でそなたは良いのか?」
私はこう答えた。
「はい。殿が義朝さまのことのみを思ってお過ごしなら、その間、私は殿のことのみを思うて過ごします」
と。そうお約束したのだ。
いつも、いつも、義朝さまや為義さま。
主家のことばかり考えて他のことは構わない、そんな正清さまのことを他の人のぶんまで私は思って過ごすと。約束したのだ。
だから行かなくちゃ。止められなくても何も出来なくても。ただお側に。
滅多に走ったりはしないのですぐに息が切れて、草履を履いた足が痛くなってくる。
東の空に朝日が昇り、あたりが次第に明るくなってきた。
ここから東山まではあとどれくらいあるのだろう。私は一度立ち止まって、道端に腰を下ろした。
せめて外歩き用のつくりのしっかりした草履を履いてくれば良かったのに、庭先に出る時の使い古しのものをつっかけてきてしまったので、鼻緒がこすれて指の間が擦りむけて痛む。
しかもその鼻緒の方も馴れない走り方をしたせいか緩んで今にも外れそうになっている。何か布のようなものをあてて直さないととても歩けそうにない。
懐から手布を取り出して、細く裂こうとしたがうまくいかない。
裁縫用の鋏か小刀でもあれば良かったのだけれど、明け方起き出してからそのまま出てきてしまったので生憎、何も持ち合わせていない。
仕方がないので歯で噛んで裂こうとしたのだけれど、なかなかうまくいかない。悪戦苦闘していると、蹄の音が聞こえた。
今来た方角から高らかにこちらに向かって駆けてくる。
蹴り飛ばされたら大変とさらに道の端に寄ろうとした瞬間、
「佳穂!!」
聞きなれた声がして私ははっと顔を上げた。
「殿……」
道の向こうに正清さまの葦毛の馬が見えたと思ったら、またたく間に近づいてくる。
勢いあまって少し行き過ぎてから手綱を引いて止まると、正清さまは軽やかに鞍から飛び降りた。
「探したぞ。こんなところで何をしている」
息を弾ませて歩み寄って来た正清さまは座っている私の前に膝をつかれた。
「明け方、邸に戻ったらおまえがいなくなったと槇野たちが大騒ぎしておった。
誰にも言わずに一人で邸を出るやつがあるか。何かあったらどうする」
私は、黙ったまま手を伸ばして正清さまのお顔に触れた。
頬はひんやりと冷たかったけれど、少し伸びかけたお髭が手のひらに触れてチクチクして、この正清さまは、幻ではなく確かに現実にここにいらっしゃるということが分かった。
正清さまは、確かめるように頬を撫でる私の手をそのままにさせておいて下さった。
けれど、私が藍色の直垂の袖口が黒く染まっているのに気づいてそちらに手を伸ばすと、すっと身を引かれた。
見れば袖口から胸元のあたりにかけて、飛沫を浴びたようにその染みは広がっていた。私は正清さまに抱きついた。
「離れろ。おまえの衣にも血がつく」
両肩をつかんで離そうとするのに抗って、私は正清さまの胸に顔を埋めるようにして縋りついた。
錆びたような、生臭い匂いが鼻をつく。
三条坊門のお邸で、怪我人の手当をしていた時にあたり一帯に立ち込めていた匂い。まだ新しい血の匂い。
「俺を追ってきたのか」
離されまいと抱きつく手に力をこめる私の背を撫でながら正清さまが言われた。
私は小さく頷いた。
「馬鹿だな。会えるかどうかも分からぬのに。ここで俺に行き合わなかったらどうするつもりだ」
「申し訳ございません」
私は正清さまの胸に頬を寄せたまま言った。
「いま、追いかけていかないと二度と殿にお会い出来ない気がして……」
「そうか」
正清さまの腕が私を強く抱きしめた。
「おかえりなさいませ……」
「ああ」
白々と明けていく秋の朝の光のなかで、私たちはそうしてしばらく黙ったまま抱き合っていた。
槇野や楓が心配するので、部屋に引き取って横になったものの一睡も出来なかった私はまだ薄暗いうちに寝床を抜け出し、皆を起こさないように外へ出た。
七月も末の京の朝はもうだいぶ肌寒く、庭に下りて草履を履くと地面からひんやりとした感触が伝わってきた。私は小袖の上から羽織った単衣を掻き合わせた。この夏は手入れを怠ってしまっていた庭の下草から虫の音が聞こえる。
前にもこんなことがあった。
夜明け前に目を覚まして水屋に水を飲みに行った。そこで馬の嘶きが聞こえて。
厩に行ったら、正清さまがいた。
私たちが初めて出逢った夜のことだ。
私は馬を盗みにきた夜盗だと勘違いして大騒ぎをして。
そうしているところに兄さまたちと、義父上がいらして。
(なんと勇ましい姫じゃ!我が鎌田家の嫁に相応しい勇猛ぶりではないか!のう、正清?)
(さすが長田殿。娘御を立派にお育てになられた。良き嫁を得て我が家は末長く安泰じゃ)
父上の豪快な笑い声とよく響くお声が、昨日のことのようにまざまざと耳に甦った。
けれどその義父上はもういない。
そして正清さまも戻って来ない。
私は木戸を開けて表へ出た。
一昨日の夜、正清さまは幼い頃の為義さまとの思い出を話して下さった。
正清さまが可愛がっていた仔犬を、自ら探しに行って連れ戻って下さった為義さま。
まるで我が子のように、義朝さまと分け隔てなく愛情を注いで下さった為義さま。
──そして、義父上が最後の最後まで命を賭けてお守りしようとした為義さま。
そんな為義さまをあの人が殺せるはずがない。
私は、人気のない道を足早に歩きだした。
東山っていうのはここからだとどっちへ行けばいいんだろう。
京に上ってもう六年も経つのに、四条の邸と三条坊門のお邸と六条堀河のお邸と……そのあたりを行き来するくらいだった私は、いまだに都の周辺の地理も分かっていなかった。
東山というからには東──とりあえず鴨川の方を目指せばいいんだろうとそちらへ向かって歩き出す。
(俺の主君は武者丸さまだが、大殿の御恩を生涯忘れまい。この方の為ならば命もいらぬと。身命を賭してお仕えし、いつの日か必ず御恩を返そうと。そう心に誓った)
そう仰った正清さまのお声はありありと思い出せるのに、その時、正清さまがどんなお顔をしていたのか、どうしても思い出せない。
正清さまに為義さまは殺せない。
だとしたら?
為義さまを斬らなければ、義朝さまは勅命に背いたとして罰せられないまでも恩賞を取り上げられる。そうなったら乱の折に義朝さまに従った人たちの信頼をも失ってしまうかもしれない。
正清さまにはそれも出来ない。
為義さまを殺さずに、義朝さまのお立場も守る方法は?
そんなの私には思いつかないけど、一つだけ確かなことがある。
正清さまは大切な方たちを守るためなら、迷うことなくご自分の命を捨てることを選ばれる。義父上が、橋田殿がそうされたように──。
正清さまは、きっと最初からご自分が死ぬつもりでこのお役目を引き受けられた。
命にかえても為義さまをお逃しするか、それが出来なければともに死ぬおつもりで。
お出かけになる正清さまをお見送りする時に私にはたぶん、薄々それが分かっていた。だからあんなに胸騒ぎがしたんだ。
だけど止められなかった。分かっていたのに行かせてしまった。
いてもたってもいられなくなって私は走り出した。
はっきりした場所も分からないのに辿りつけるか分らない。
たとえたどり着けたとしても私には正清さまのなさることを止められない。
けれど、そうしないではいられなかった。
義朝さまは正清さまがしようとしていることをご存じないはずだ。
知っていたら行かせるはずがない。
正清さまは、為義さまと義朝さまご自身を守るために、おそらく初めて義朝さまに嘘をついた。
真面目で、何より義朝さまに忠実なあの方にとってそれはどんなにかおつらく心苦しいことだっただろう。
そんな気持ちのまま、あの方をお一人にしておくことなんか出来ない。
(あれは不器用な男だ。つらい時につらい顔も出来ぬ、本当に欲しいものを欲しいとも言えぬ、しようのない男だ。わしと亡き妻があれをそのように育ててしまった)
最後にお会いした時。義父上は悲しそうに笑ってそう言われた。
(正清を頼む)
(あれを、一人にしないでやってくれ)
あの時、私は義父上が何を仰っているのかよく分からなかった。
だから、きちんとしたお返事も出来なくて……。
でも今なら痛いほど分かる。
義父上の仰られた通り、正清さまは義朝さまの御為ならご自分のことはいつも後回しだ。義朝さまのためなら何もかもを投げ打って顧みられない。
だから、あの人のことを想うのなら、あの人のお側にいたいのなら、自分から追いかけていかなくちゃ駄目なのだ。
婚礼を挙げたばかりの夜。正清さまは私にこう言われた。
「殿のこと一途で、その他の事は構いつけもせぬ、そんな夫でそなたは良いのか?」
私はこう答えた。
「はい。殿が義朝さまのことのみを思ってお過ごしなら、その間、私は殿のことのみを思うて過ごします」
と。そうお約束したのだ。
いつも、いつも、義朝さまや為義さま。
主家のことばかり考えて他のことは構わない、そんな正清さまのことを他の人のぶんまで私は思って過ごすと。約束したのだ。
だから行かなくちゃ。止められなくても何も出来なくても。ただお側に。
滅多に走ったりはしないのですぐに息が切れて、草履を履いた足が痛くなってくる。
東の空に朝日が昇り、あたりが次第に明るくなってきた。
ここから東山まではあとどれくらいあるのだろう。私は一度立ち止まって、道端に腰を下ろした。
せめて外歩き用のつくりのしっかりした草履を履いてくれば良かったのに、庭先に出る時の使い古しのものをつっかけてきてしまったので、鼻緒がこすれて指の間が擦りむけて痛む。
しかもその鼻緒の方も馴れない走り方をしたせいか緩んで今にも外れそうになっている。何か布のようなものをあてて直さないととても歩けそうにない。
懐から手布を取り出して、細く裂こうとしたがうまくいかない。
裁縫用の鋏か小刀でもあれば良かったのだけれど、明け方起き出してからそのまま出てきてしまったので生憎、何も持ち合わせていない。
仕方がないので歯で噛んで裂こうとしたのだけれど、なかなかうまくいかない。悪戦苦闘していると、蹄の音が聞こえた。
今来た方角から高らかにこちらに向かって駆けてくる。
蹴り飛ばされたら大変とさらに道の端に寄ろうとした瞬間、
「佳穂!!」
聞きなれた声がして私ははっと顔を上げた。
「殿……」
道の向こうに正清さまの葦毛の馬が見えたと思ったら、またたく間に近づいてくる。
勢いあまって少し行き過ぎてから手綱を引いて止まると、正清さまは軽やかに鞍から飛び降りた。
「探したぞ。こんなところで何をしている」
息を弾ませて歩み寄って来た正清さまは座っている私の前に膝をつかれた。
「明け方、邸に戻ったらおまえがいなくなったと槇野たちが大騒ぎしておった。
誰にも言わずに一人で邸を出るやつがあるか。何かあったらどうする」
私は、黙ったまま手を伸ばして正清さまのお顔に触れた。
頬はひんやりと冷たかったけれど、少し伸びかけたお髭が手のひらに触れてチクチクして、この正清さまは、幻ではなく確かに現実にここにいらっしゃるということが分かった。
正清さまは、確かめるように頬を撫でる私の手をそのままにさせておいて下さった。
けれど、私が藍色の直垂の袖口が黒く染まっているのに気づいてそちらに手を伸ばすと、すっと身を引かれた。
見れば袖口から胸元のあたりにかけて、飛沫を浴びたようにその染みは広がっていた。私は正清さまに抱きついた。
「離れろ。おまえの衣にも血がつく」
両肩をつかんで離そうとするのに抗って、私は正清さまの胸に顔を埋めるようにして縋りついた。
錆びたような、生臭い匂いが鼻をつく。
三条坊門のお邸で、怪我人の手当をしていた時にあたり一帯に立ち込めていた匂い。まだ新しい血の匂い。
「俺を追ってきたのか」
離されまいと抱きつく手に力をこめる私の背を撫でながら正清さまが言われた。
私は小さく頷いた。
「馬鹿だな。会えるかどうかも分からぬのに。ここで俺に行き合わなかったらどうするつもりだ」
「申し訳ございません」
私は正清さまの胸に頬を寄せたまま言った。
「いま、追いかけていかないと二度と殿にお会い出来ない気がして……」
「そうか」
正清さまの腕が私を強く抱きしめた。
「おかえりなさいませ……」
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