夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第六章 慟哭

蜻蛉と蝶々

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正清さまの鞍の前に乗せていただいて一緒に帰った私を、槇野は半狂乱で出迎えた。

「姫さまっ! よくぞご無事で」
 正清さまに抱え下ろされた私に飛びつくようにして喜んだと思ったら、
「ああ、良かった。姫さまに万が一のことがあれば長田の大殿さま、北の方さまに顔向け出来ないところでした! 何よりそんなことになればこの槙野も生きてはいられませんわ」
 と号泣し、私の足の傷を見つけて
「誰か!! お湯と薬の用意を。早く!!」
と叫び散らしたかと思うと、薬が来るまでの間、私を縁側に座らせて
「まったく、姫さまときたら、いったいどれだけ槇野に心配をかけたらお気が済まれるのですか! 本当に姫さまは、いつも突然突拍子もないことをなさって……」
とくどくどとお説教を始めた。

心配をかけたのは申し訳なかったし気持ちは有難いとは思うけれど、正清さまのご心情を思うと正直今はそれどころではなかった。

「槇野、話はあとで聞くからちょっとごめんね」
 そう言って、奥へと入って行かれた正清さまのあとを追おうとする。

「傷のお手当はどうするのですか!?」
「だからそれもあとで。たいしたことないから」

「まあ! そんなことを言って痕が残られたらどうするのです!!」
 そう言って槙野が飛びついたので、立ち上がろうとしていた私は後ろから両脚を抱え込まれて前のめりに転んでしまった。

「ちょっと! 危うく顔を思いきり打つところだったじゃないの!」
 振り返って私は抗議した。
 鼻でも打ったらそっちの方がよっぽど痕が残るっていうの!
「あら。姫さまが急に立ち上がられるから」

「とにかく私は殿のお召替えのお手伝いをしてくるから。お湯も薬も居間の方へ運ばせてちょうだい。あと、ここは他の人にまかせて槙野も着替えくらいしてきたら? 思いっきり寝起きのままじゃないの」

そう言ってやると、そこで初めて槇野は夜着のまま、髪も乱れ放題、眉もかいていない自分の姿の壮絶さに気がついたらしく、
「それだけ姫さまをご心配申し上げていたのですよ!」
とブツブツ言いながら、自分の部屋の方へと戻っていった。

居間に行くと正清さまはすでに、血に塗れた直垂を脱いでおられた。
私は水屋に飛んで行って、楓が用意しかけてくれていたお湯を入れた盥と布、傷薬の軟膏を受け取って部屋に戻った。

お湯に浸した布で血を落とし、別の小袖と直垂を出してきてお背中の方にまわって着せかける。
正清さまはひどくお疲れの様子で、一言も口をきかれなかった。

昨晩いったい何があったのか。為義さまはどうなされたのか。
私は一切何も聞くまい。邸の者たちにも詮索はさせまいと心に誓った。

何がどうあれ正清さまは今ここにいらっしゃる。
それ以上望むことは私には何もなかった。

汚れたお湯の盥を下げるついでに水屋で簡単に自分の足の手当をした。
少し擦り傷が出来ている程度でたいしたことはなかった。

戻る途中で七平太に会った。
七平太も眠っていないらしく真っ赤な目をしていた。

正清さまは昨晩遅くに義朝さまのもとへ戻って報告をすませ、明け方邸に戻ったあと、槇野たちが騒ぐのを聞いてそのまま私を探しに飛び出して下さったらしい。

お疲れだったのに、さらに厄介をかけてしまって申し訳なくなる。

七平太によると、義朝さまからは懇ろにねぎらいのお言葉があり、今日はそのまま休むようにとのお言いつけだったという。

居間に戻ると正清さまはもう、脇息を枕にして横になっておられた。

「そのようなところではお風邪を召されますよ。今、床のご用意をいたしますから」
声をかけると、まだ眠ってはおられなかったらしく、素直に体を起こされた。

「お休み前に粥なりお汁なりお上りになられますか?」
「いや、今はいい。少し眠る」
「では格子を下ろして参ります。寒くはございませんか。もう少し厚い衾をお持ちしましょうか」
「いいからおまえも少し下がって休め。眠っておらぬのだろう」
「はい」
 
私は格子を下ろして部屋を少し暗くした。
几帳を動かしてから、少し厚手の衾をとってくると正清さまはもう寝息をたてられていた。私はそっと上から衾をおかけして物音を立てないようにして次の間に下がった。

少しだけ横になるつもりが、結構眠ってしまったらしい。
目を覚ますともう日が高かった。
正清さまはまだお休みになっておられる。

私は起き出して水屋の方へ行った。
正清さまは昨日からほとんど何も召し上がっていらっしゃらない。お目覚めになった時にすぐにお出し出来るようにお粥を炊いて、汁物をつくることにした。

邸のうちはざわざわとして落ち着かなかった。
正清さまが主家の棟梁であった為義さまを討ったということは家中にも知れ渡っていて皆が少なからず動揺していた。

正清さまに従って出かけていた郎党たちには槇野がすでにお酒と食事を運ばせて、休む部屋も整えさせてくれていた。
何だかんだいっても槇野は頼りになる。

お汁に入れる菜っ葉を刻んでいると、入ってきた槇野がかまどの火を覗き込みながらぽつりと言った。
「つらいお役目だったようですね……」

郎党たちの話では、為義さまは東国へお逃げ下さいという正清さまの申し出を断って、自害して果てられたのだという。
私は黙ったまま、切り終えた菜っ葉を鍋に入れた。

申の刻を過ぎて少し日が傾き始めた頃。正清さまが目を覚まされた。

身支度のお手伝いをして、食事のお膳を運ぶ。
給仕を済ませたあとで、食後に瓜でも差し上げようかと思っているところに年若い侍女の千鳥がやってきて来客を告げた。

「波多野義通さまと仰るお方が殿にお目通りを願いたいと仰られています」
私は、はっとして正清さまを見た。

日頃から正清さまのことを、義朝さまの腰巾着だのご機嫌とりだの言って憚らない波多野殿さまが、今訪ねて来られたとなったらきっとろくでもない事を言いに来られたに決まっている。

「殿はお疲れです。私が参りましょう」
 そう言って立とうとしたが正清さまがそれを制された。

「良い。お通しせよ」
「でも、殿……」
「波多野どのも連日、殿の御用で忙しく動いておられる。疲れておるのは俺だけではない」

そういう事ではなくて、と思ったけれど波多野さまがいらした理由を一番分かっていらっしゃるのは正清さまだろう。
 
 ご当人の正清さまが会うと仰られているのを私が追い返すわけにもいかず、渋々、千鳥に客間にお通しするようにと命じたが内心では
(何もこんな時に押しかけて来なくても)
と腹立たしい気持ちでいっぱいだった。

水屋でぶつぶつ言いながら、お出しするお出しするお菓子の用意をしていると、私から波多野さまのことを聞いている槙野が、ご来訪の知らせを聞いてすっ飛んできた。

「では姫さま。あの方が以前仰られていた殿の敵だといういけ好かない人ですの?」
「しっ。声が大きいわよ」

「殿とは仲がお悪いのにわざわざお越しになるなんて……大殿のことで難癖をつけに来られたのでしょうか」
「……たぶんね」

「まあ。ご傷心でいらっしゃる殿になんて酷い。私が応対に出ていたら門のところで水をぶっかけて追い返してやりましたのに!」
「ほんとよ。もし今日また正清さまのことをおべっか使いだのなんだの言ったら私が箒で引っぱたいてやるわ」

「私も加勢いたしますわ!!」
そう言って槙野は水屋の隅の納戸に飛んで行って使用人の部屋で使う大きな火鉢を抱えてきた。
「これを頭に投げつけてやりますわ!」
「やめて。死んじゃうから。本当に引っぱたく気はないから。言葉の綾だから」
「あら。そうなんですか? そういう分からず屋の男にはこれくらいしてやってもいいと思いますけど」
「よけいに正清さまが困ったお立場になるから。その火鉢をとりあえずしまってきて」

 私は槇野をなだめて、お菓子を乗せた高坏を持って客間へと向かった。

「失礼いたします」
 部屋に入ると、正清さまは上座を波多野さまに譲られて向き合って座っておられるところだった。
 波多野さまは傲然と腕を組んで正清さまを見下ろしている。
 私は内心の不快感を隠して、しとやかに波多野さまの前に白湯の椀と菓子の高坏をすすめた。
「どうぞ。なんのお構いも出来ませんが」

波多野さまは私の方は見もしないで、まっすぐに正清さまを見て言った。

「大殿をお送りしてきたそうだな」
「はい」
 正清さまは波多野さまを正面から見返して頷かれた。
「ご最期を見届け、御首を殿のもとへお送りして参りました」

分かっていたことだけれど「御首」という言葉に鼓動が跳ねる。
波多野さまが声を荒げて正清さまを罵られるのでは、もしそうなら火鉢は駄目でも転んだふりしてそこの屏風を頭の上に倒してやるから……と身構えている私の前で、波多野さまは、静かに頷かれた。

「そうか。……ご苦労だったな」
正清さまも意外であられたのか、ほんの少し眉を上げて訝しげなお顔をされた。

「某も今日は殿のご命令でな……朝から船岡山へ行ってきた」
「船岡山へ……」

「ああ。御曹司がたをお見送りして参った」
「……」
 
 私は息を呑んだ。
 義朝さまの異母弟ぎみたち──八郎為朝さまを除く五人の方がすでに捕らわれて北山に留め置かれていることは聞き及んでいた。
 その方々も為義さまと同じ、斬首に処すようにとの命令が下っていることも。

どなたも皆、六条堀河のお邸に伺った折にお目にかかったことのある方々だった。
とりわけ、お側近くで言葉を交わしたことのある四郎頼賢さまのお顔が頭に浮かんだ。

怪我したお手を手当てして差し上げたり、六条の鎌田の家まで荷物を持って送っていただいたこともある。

(そなたは優しい女子だな)
 と言って下さった頼賢さま。

(俺の妻であれば扇より重たいものなど持たせぬ)
と言って揶揄われた、悪戯っ子のようなお顔が思い出される。

 父君を思い、敬う気持ちは兄弟のうちの誰にも負けぬと言っておられた頼賢さま。

 お優しい父君をこの手で守りたいと。父君のお志が中途で砕けたり、穢されたりすることのないよう支えてゆきたいと……そう仰っておられた。

 その頼賢さまがもうこの世におられない。
 その下の頼仲さま、為宗さま、為成さま、為仲さま。
 頼賢さまは確か私より三つばかりお年上なだけで、九郎為仲さまはまだ元服を終えたばかりで十三、四というお若さだったのではないだろうか。

 胸の前で両手を握りあわせて懸命に震えを堪えている私を見て、正清さまが
「佳穂。呼ぶまで下がっていよ」
 と言われた。

が、波多野さまがそれを制された。
「いや。奥方にもお聞き願いたい」

「何故です。妻は関係ないでしょう」
 はじめて正清さまが波多野さまに尖ったお声を出された。

 波多野さまは怒る様子もなく、すっと懐に手を入れて何かを取り出された。

「──これを」
 こちらに向かって差し出された手のひらには、布でつくった小さな飾りのようなものが乗っていた。

「私にですか?」
「ああ。御曹司がたからの預かりものだ。本日、船岡山でお預かりしてきた」

 私は波多野さまから受け取ったその小さな飾りを両手のひらに乗せてみつめた。
 布でつくった小さな飾り。一つはとんぼ、一つは蝶々をかたどったもので、どちらにも見覚えがあった。

 心臓がどくんっと大きな音をたてた。
 数年前。義父上に連れられて参上した六条堀河のお邸で、五月の節句の薬玉の飾りにと私が作ったものに間違いなかった。

 とんぼは鶴若さま。蝶々は天王さまに差し上げたものだった。

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