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十二月

1.急転直下

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 去年までの義兄と、外回り先で予想外の再会を果たした二日後。美幸は終業後に渋谷のカフェバーで、件の男と待ち合わせした。
 木製の重厚なドアを開けて店内に入ると、まだ時間も早い為照明も明るく、仕事帰りらしいサラリーマンやOLがチラホラと座ってカップを傾けており、美幸は若干警戒心を緩める。そして奥の壁に作り付けられた棚にズラリと並んだ酒瓶を一瞥する暇も無く、奥のテーブル席から声がかかった。

「悪いね~、美幸ちゃん。仕事帰りに時間を貰ったりして」
 軽く手を振ってきた相手に、美幸は小さく溜め息を吐いて歩み寄った。そして向かいの席に座りながら、淡々と告げる。

「約束は約束ですので。それに商談先でああいう騒ぎを起こすのは、一社会人としてどうかと思いますが、上坂さん」
 軽く皮肉を込めた美幸の物言いにも、上坂は気分を害した様子はなく、彼女に愛想を振り撒いた。

「美幸ちゃんは、相変わらず真面目だな。あ、わざわざ来て貰ったんだから、勿論ここは俺が払うから、好きな物を頼んで構わないから」
「はぁ、ご馳走になります」
 そう言われても大層な物を奢って貰うつもりなどサラサラなかった美幸は、カフェラテを注文してから上坂に向き直った。

「それで、上坂さん。どういった用向きのお話でしょうか」
「上坂さんなんて、他人行儀だな。遠慮しないで以前みたいに『お義兄さん』と呼んで貰って構わないよ?」
「……はぁ」
(だって、もうれっきとした赤の他人だし。遠慮なんか、しているわけ無いでしょうが!)
 顔が引き攣りそうになるのを何とか誤魔化しながら、美幸が中途半端な相槌を打つと、上坂は人の良さげな笑顔から一転して、真剣な顔つきで問いを発した。

「それで話って言うのは、美野の事なんだけど、あいつ再婚とかはしてないよね?」
「……ええ、まあ」
 幾分苦々しい思いで頷くと、上坂がさもありなんと言った感じで頷く。

「だろうなぁ……。あいつ地味だし、人付き合い悪いし。だから俺みたいな面倒見が良い男じゃないと、相手にされないんだよ。そこら辺を本人もお義兄さん達も、分かってなくてねぇ……」
(一度は結婚してた相手を、よくもそこまで貶せるわね……。しかも私は、その妹なのよ? 無神経過ぎない? 第一、美野姉さんがあまり外に出なくなったのは、元はと言えばあんたのせいでしょうが。したり顔で、馬鹿な事ほざいてんじゃないわよ!!)
 お世辞にも仲が良いとは言えない姉ではあったが、あからさまに身内を貶されて、美幸は内心怒りに震えた。しかし周囲の人達の手前、平静を装って話を続ける。

「……それでご用件は」
「だから、美野の面倒はこれからも俺が見てあげるから、美幸ちゃんには美野との仲立ちを頼みたくて」
「無理です、失礼します」
(散々言った挙げ句にそれ? ふざけんじゃないわよ。まだ延々恨み言聞かされた方がマシだわ!)
 自分勝手極まりないその発言に、流石に美幸も腹を立て、憤然として立ち上がった。

「とてもお力になれそうにありません。失礼しますっ!」
「美幸ちゃん、お願いだからちょっと待って!」
「失礼します。ご注文の品をお持ちしました」
 上坂が焦った様にテーブル越しに美幸の腕を掴むのとほぼ同時に、先程注文を聞きにやって来た三十代と見られるマスターが、カフェオレを持ってやって来た。そして険悪な雰囲気を醸し出す美幸を見て、軽く目を見張る。

「お客様、どうかされましたか?」
「ほら、せっかくカフェオレが来たから、取り敢えず飲んで。あまり騒がしくしてお店に迷惑かけたくないからさ」
「……取り敢えず、飲んでいる間だけお話を聞きます」
(誰のせいだと思っているのよ!? でも今日大阪に帰るって言ってたし、帰りの新幹線の時間を考えても、えいぜいここで一時間飲む位よね)
 そうして取り敢えず腰を下ろし、カフェオレを飲み始めた美幸だったが、案の定グダグダと浮気した当時の状況の弁明を始めた上坂に、密かに軽蔑の眼差しを送った。

(一通り聞く位なら我慢するか……。聞くだけ聞いたら悉く反論してビシッと言ってやるわ。本当に、美野姉さんはこんなのと離婚して正解だったわよ……)
 そんな事をしみじみ考えながら、少し熱めのカップの中身を美幸はゆっくりと啜った。しかし取りとめのない話を聞いているうちに苛々した感じが薄れ、次第に眠気を覚えてくる。

(……ムカつく話ばっかり聞いてだから、眠くなってきたわ。どうしてくれようかしら? このチャラ男)
 そんな事を意識するかしないかのうちに、美幸はソファーの背もたれに体を預け、目を閉じて眠り込んでしまった。そんな美幸に、上坂が確認する様に小声で呼びかけてみる。

「……美幸ちゃん?」
「…………」
 何やら口の中で呟いた様だが、はっきりとした言葉になっていない美幸を見て、上坂は如何にも面白そうに笑った。

「あれあれ? 寝ちゃったかな? 仕事がなかなかハードみたいだねぇ」
 そのままくつくつと笑っていると先程のマスターがやって来て、伝票をテーブルに置きながら、他の客には聞こえない程度の声で上坂に囁く。

「白々しいぞお前。全く、大阪に追い払われたと思ったら、ちょくちょく戻る度に、うちに連れ込みやがって。これまでに何人食ったんだ?」
「お前が知ってる人数だけだが? こんな特殊なブレンドを飲ませてくれるのは、ここ位しか無いし?」
 コンコンとカップを軽く叩きながら嫌らしく笑った上坂に、相手も負けず劣らずのふてぶてしい笑顔で返す。

「毎度ご贔屓にどうも。そろそろ支払いして貰おうか」
「ああ。ついでにタクシーも頼む」
「ほいよ。来るまで席で待ってろ」
 上坂が差し出した万札を受け取り、マスターは悪びれない風情でレジに向かって歩いて行った。

 そして美幸が不本意な睡眠を貪り始めた頃、残業を終わらせた城崎が自社ビルを出て最寄駅へと向かおうとすると、どこからともなく現れた、見覚えがある女性に捕まってしまった。

「城崎さん、今晩は」
「お久しぶりです、藤宮さん。いつも思っていたんですが、どうして残業を終わらせてからも、タイミング良くあなたに出くわすんでしょうか?」
「あそこで城崎さんが出てくるのを待っていましたから」
「……ご苦労様です」
 大通りを挟んだビルの一階に入っているコーヒーショップを指差しながら何でもない事の様に言われた城崎は、(ストーカーかよ……)と内心眩暈がしたが、美幸の姉である女性に暴言を吐く事も出来ず、取り敢えず無難な笑顔を返した。

「三週間ぶり位ですけど、本当に久し振りの気がしますね」
「そうですね。それでは失礼します」
 素早く美野の横をすり抜けようとした城崎だったが、その腕をつい先程までの笑顔をかなぐり捨てて、真剣な表情になった美野が捕える。

「待って下さい。私、あなたにお話があるんです。何やら職場でトラブルがあって、城崎さんを煩わせるなと美幸に止められていましたが、姉達との会話でどうやらそれが片付いたらしいのが分かったので、出向きました」
「それはお気遣いどうも。それで? お話とはなんでしょうか?」
 僅かに苛立たしげに美野の手を振り払い、それでも一応話は聞こうかと美野と真正面から向き合った城崎に、美野は真剣極まりない口調で告げた。

「美幸に手を出すのは、止めて下さい」
「は?」
 思わず間抜けな声を上げて相手を凝視した城崎に対し、美野は何やら興奮しながら、一気に捲し立て始めた。

「あんなのは一度でたくさんです。他人の趣味嗜好をとやかく言うのは間違っているとは思いますが、世間様に顔向けできない類の趣味をお持ちの方が妹の側に居るのは、どうしても容認できないんです。例え人権侵害だと言われても、これは絶対に譲れません!」
「え? あの……、ちょっと待って下さい」
「分かっています。お義兄さんも美幸も、城崎さんが優秀な人だと断言しています。ですが、仕事ができるからと言って、その人の人格全てが容認して貰えると考えるのは、人間として何か激しく間違っているとは思いませんか!?」
 涙目で城崎のスーツを鷲掴みにして切々と訴えてくる美野に、普通であれば同情するなり同意を示すとは思ったが、言われている対象が自分であった城崎は、盛大に顔を強張らせながら感情を押し殺した声で確認を入れた。

「……藤宮さん? あなたのお話を伺っていると、俺が何か世間に顔向けできない趣味嗜好の持ち主だと、仰っている様に聞こえますが?」
「自覚が無いんですか? やっぱり秀明お義兄さんが言った通り……」
 目から涙が零れ落ちそうになっている美野から、心底憐れむ様な視線を向けられた城崎は、それでも精一杯の自制心を発揮して再度美野に尋ねた。

「あの腐れ外道が、何を言ったんですか?」
 その問いかけに、美野が微塵も疑っていない口調で告げる。

「お義兄さんが沈痛な表情で『城崎は頭が切れる分、自分が異常だと認識できない気の毒な奴だ。在学中に同じ同好会の先輩やOBの俺達が、あいつの経歴に傷が付かない様に色々フォローしてやった』と言っていました。そして『美幸ちゃんはあいつの好みど真ん中なんだ。でも入社して早々毒牙にかける真似はしないと思うし、社会人生活をしているうちに性格が矯正されてるとは思うが』と考え込まれていたので、取り敢えず接点を持って直に城崎さんの人となりを調べてみようと、父に頼んでお見合い話を持ち掛けて貰っても断られるし」
「だから! 俺がどんな趣味の持ち主だと言うんですか!」
「ロリコン紛いの年下好みで、制服フェチが高じた女装趣味があって、生脚フェチで盗撮マニアでスワッピング愛好者なんですよね?」
 とんでもない内容をすこぶる真顔で言われてしまった城崎は、一瞬言われた内容が理解できず、遅れて理解した途端目の前の相手を怒りに任せて怒鳴りつけた。

「……だっ、誰がそんな趣味持ってるっつうんだ!! いくら女でも殴り倒すぞ!?」
「だってあの真面目なお義兄さんが、深刻な顔で言ってたんですよ!?」
「あんな性根が腐った野郎の話を真に受けんな、このどアホ!! そんなあっさり騙されるから、ろくでもない男と結婚する羽目になるんだろうがっ!」
「そっ、それはそうですがっ……。うっ、ふぅぅっ……」
「大体だな、あんた……」
 鬼の形相で怒鳴った城崎に怯むことなく美野も叫び返したが、容赦のない反撃を食らって絶句し、両手で顔を覆って泣き出してしまった。それを慰める気などサラサラない城崎が、普段の礼儀などかなぐり捨てて更に叱り付けようとすると、二人の間に見慣れた人間が割って入った。

「美野さん、大丈夫ですか? ……係長、腹が立つのは分かりますが、ちょっと言い過ぎですよ?」
 美野に声をかけてハンカチを差し出してから、自分に向き直って反省を促してきた高須に、城崎は渋面になって尋ねた。

「高須……、お前どこから湧いて出た?」
「どこからって……、社屋ビルの近くで騒いでいて人垣ができていれば、帰りがけにちょっと覗いてみようかって気になりませんか? 因みに係長の趣味云々の辺りから、お二人のやり取りは丸聞こえでした。明日には社内中で、ある事ない事噂になりそうです。課長の電撃入籍といい係長の危ない趣味といい、二課は新規契約高に加えて、噂の震源地No1の座を、当面保持しそうですね」
「…………」
 自分達の周囲を何メートルか離れて、ぐるっと取り囲んでいる仕事帰りの会社員の中に、顔を見知った柏木産業の社員の姿を何人も認めて、城崎は精神的によろめいた。そんな城崎に気の毒そうな視線を向けてから、高須は美野に向かって溜め息を吐いて声をかける。

「だけど、漸く分かりましたよ。係長に、と言うか係長の周囲の人間に、美野さんが職場の様子や係長の話を聞いていた訳が。そんな勘違いをしていたから、藤宮が心配で色々探っていたんですね?」
 それを聞いた美野は顔からハンカチを離し、怪訝な顔で高須を見上げた。

「……勘違い? 城崎さんが職場では、体裁を取り繕っている訳では無くてですか?」
「そういう趣味の噂って、本人が隠しても何故か広がるものですよ。それに係長は社内の女性と何人も付き合っていましたが、本当にそんな趣味の持ち主だったら、その彼女達が振られた腹いせに暴露したりしませんか?」
「それは、そうかもしれませんが……」
 呆れ気味に肩を竦めながら城崎を弁護し始めた高須に、美野がまだ幾分納得しかねる表情で応じる。そして一応騒ぎが治まったとみて人垣が崩れて歩道の流れが元に戻りかけた時、城崎の携帯の呼び出し音が鳴った。
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