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第二章:彼女と別れるまでの十数日間
線香花火とともに散る
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ホームセンターに着くと、安物の花火のセットを二パックと、プラスチック製のバケツと、チャッカマンに蝋燭を購入した。
再び車を走らせると、川沿いの空き地を探して車を停める。ドアを開けて降りると、松虫の鳴く声が聞こえた。買い込んだ花火やバケツを手分けして持つと、堤防を下って砂利の多い川原まで並んで歩く。川面の上を蛍が数匹、光の尾を引きながら飛んでいた。二人はその光景に、感嘆の声を漏らした。
周辺に、家の灯りは数える程度しか見えない。暗い足元に気をつけるよう帆夏に促しながら川の側まで向かうと、バケツ一杯に水を汲んだ。流れる水の冷たさに、彼女がきゃあと悲鳴を上げた。近くの草むらからは、沢山の虫の声がわき上がり、川からはせせらぎの音が聞こえてきた。空は今日も澄み渡り、満天の星空だった。
視線を空に向けながら、そうか、瞬かない星空とはこんな光景なのだろうかと逢坂部は思った。
平らな石の上に蝋燭を立てると、チャッカマンで火を点ける。安物だが、ちゃんと自分の仕事を全うした。
花火のセットのうち一つを開封すると、当たり障りの無い手持ち花火から、消化していった。
シュワシュワと独特の音を奏でながら、色とりどりの火花が散った。はしゃぐように円を描いたり、二本同時に火を点けてみたり。手持ち花火を石の間に立てて、点火してみたり。まるで小学生が悪戯をするかの如く、花火を二人で楽しんだ。
手持ち花火がなくなると、筒状の噴き上げ花火に点火する。予想よりも火花は吹き上がらず、また、あっと言う間に燃え尽きた。二人で顔を見合わせて、なんとなく笑った。
絶え間なく立ち昇る煙が、やがて川原の周囲を埋め尽くしていった。
それも全部無くなると、最後に残されたのは地味な線香花火だった。たっぷりと膨らんだ線香花火の火の玉の光に、帆夏の横顔が、ぼうっと照らし出されている。
「どっちの花火が長く燃えていられるか、競争しましょうよ?」
彼女の提案に応えて、二人同時に線香花火に点火する。花火の玉は次第に大きく膨れながら、頼りなく光の線を飛ばした。
まるで自分が抱える鬱々とした感情や、失望や恐怖。その他のあらゆる負の感情を含んで、大きく膨らんでいるようだと、逢坂部は思った。やがて、彼の花火が先に地面に落ちる。輝きを一瞬で失った線香花火は、まるで命が燃え尽きるかのように、儚く散って消えた。
帆夏が、「私の勝ちだね」と、歓声を上げるが、彼は上手く笑うことが出来なかった。自分の花火が重さに耐えかねて落ちてしまうのは、必然だ。そんな気がしていた。
「どうしたんですか――?」
浮かない顔になってしまった逢坂部を気遣うように、彼女は声を掛けた。帆夏の目には、彼が泣いているように映ったのだ。
「笑わないで、聞いてくれるかい? 実を言うと俺は、美奈子との文通を一方的に打ち切った後も、未練がましく何度か手紙を書いていたんだ」
逢坂部の心は自分で想像していたよりも傷ついていた。高崎美奈子に旦那と家族が居たから、それも確かに一因だ。だがそれ以上に、自分が彼女に対して抱いていた想いが、中途半端な再会によって呼び起こされていたのだ。
なんとなく再会して、お互いに淋しかった日々の出来事を言外に伝え合う。そんな感じに楽観視してたのかもしれない。
何処か自惚れていた自分の醜さとか、明確な形となって現れた失恋に傷つく自分の弱さが、纏めて押し寄せてくるようで、胸が痛くてどうしようもなかった。
それから逢坂部は、高崎美奈子との思い出、転校した後に続けていた文通の話とその顛末を、順序立てて帆夏に説明していった。彼女は黙って、彼の言葉に耳を傾けた。
彼女との文通を自分から打ち切った後に、何通か書いていた手紙。誰に向けて書いたかというと、それはやはり美奈子に向けてだった。但しそれは二通で終わりを迎え、ポストに投函されることもなく、デスクの引き出しに仕舞い込まれていたのだが。
それら二通の手紙に綴られていたのは、転校して彼女と離れ離れになった後の、自分の真実の姿についてだ。
遂に三年間馴染むことのなかった高校生活。惰性で続けていた写真部。新しい友達が出来たと文面では偽ったものの、今になって思うと、彼らは本当に友達だったのかと首を傾げたくなるような希薄な人間関係。
希望が見いだせなくなった日々を、いかに虚構で塗り固めて文通を続けていたのかということ。そんな真実を延々と独白した。
そんな日々の中でも僅かに感じた希望。楽しかったこと。悲しかったこと。辛かったこと。秘めた感情の全てを手紙の最後に吐き出すようにして書き添えた、二通。
仮定の話ではあるが、この二通がポストに投函され彼女の元に届き、そして封を切ったとするならば、あまりにも変わってしまった彼の『真実の姿』に、彼女は失望するだろう。そんな内容の手紙だった。
「苦労を、してきたんですね」
逢坂部が話し終えて人心地ついた頃合に、帆夏は気遣うような口調で言った。簡潔な言葉ではあったが、同時に優しく包容力のある言葉だった。
「君は、優しい子なんだな」
「今ごろ、気付いたんですか?」と彼女は皮肉めいた口調で言った。「私は、ずっと逢坂部さんのことを気遣ってたつもりですよ」
「ああ、そうだな。ありがとう」
否定はできなかった。思い当たる節は、幾つも幾つもあった。
「ようやく俺は、この手紙の封を切る決心がついたよ」
そう言って逢坂部は、懐から一通の茶封筒を取り出した。それは、高崎美奈子から届いた、未開封のままの最後の手紙。
帆夏は、しゃがみ込んでいる逢坂部の背後に回りこむと、背中に身体を預けるようにして、抱きついてくる。
密着した彼女の身体から伝わる熱と、柔らかい感触に、彼は少し驚いたけれども、そのまま好きにさせておいた。
封を切って、便箋を取り出す。
*
拝啓 逢坂部賢梧様
あなたからの手紙が届かなくなってしまったことを、日々、不安に感じています。
住所が変わってしまったのでしょうか?
体調を崩して、入院などしていないでしょうか?
それとも、私が『好き』だと伝えてしまったことを、重荷に感じているのでしょうか? 迷惑に感じているのでしょうか?
もし、そうだとしたらごめんなさい。
けれども、私が賢梧君を好きだと想っていることは本当です。
自分の気持ちにこれ以上嘘がつけなくなってしまったので、あのような手紙を出しました。
本当にごめんなさい。
ごめんなさいのついでに、私にはもう一つ謝ることがあります。
私は、高校生活があまり上手くいっていない、と書きました。
これは嘘です。本当は――全然上手くいっていません。
私は今の高校でイジメに遭っています。
何故、彼女たちに嫌われているのか? これは明白ではありません。私が無口であること、抵抗しないことも一因だとは思いますが、極端に強いわけでも弱いわけでもない、中途半端な人間だからかもしれません。
イジメに遭うこと自体は初めてではないので、どうやって耐えるのか? どうやって乗り切るのか? そんな術を私は心得ています。
そういう打っても響かない感じが、余計に彼女らを苛立たせるのかもしれません。
襟首を掴まれて体育用具室に連れ込まれます。全員に殴る蹴るの暴行を受けた後、口をこじ開けられるとバケツの汚水を注がれます。何処から持ってきた水かはわかりませんが、予測は出来ます。その濁った水は、放課後の教室や廊下の掃除が終わった後に、持ち込まれた物だからです。
上履きを隠された回数は、既に数えるのを止めました。
以前隠されたものが見つかった場合は、それを。ストックがなくなれば新しい上履きを、常に鞄の中に忍ばせて登校しています。
廊下で彼女たちと擦れ違うときは苦痛です。目を合わせても逸らしても因縁をつけられるからです。
そしてまた、トイレの中に突き飛ばされます。トイレの中でのイジメは苦痛です。バケツの水よりも衛生度が悪いものを飲まされるからです。
それでも――私は耐えることが出来ました。あなたからの手紙が届くことを、何時も心待ちにしていたからです。
これが私からあなたへの、最後のお願いです。
もし、私に対して僅かでも好意を持ってくれているのならば、こんなどうしようもない私でも、会って話を聞いてみたいと思うのであれば、一度でも良いです。直接会って話をしませんか?
是非、お返事を下さい。
その時の為に、旅費を貯めておきます。
何時までも、待っています。
かしこ 高崎美奈子
*
逢坂部は愕然としていた。
手紙の中で虚構の姿を作り上げていたのは、自分だけではなかった。いやむしろ、美奈子の方がより辛い環境に置かれ、思い悩み、より深い嘘によって自身を覆い隠していたことを知った。
そんな彼女の最後の願いですらも、手紙を読むことなく踏みにじってしまった。自分はどうしようもなく嘘吐きで、卑怯で、冷たい人間だったと二十五歳にもなって初めて悟る。
彼女の視点で見るならば、自身が勇気を振り絞って行った告白も、その後の再会を願う懇願もシカトされ、おまけに返事すら出して貰えないというのはどんな心境だったのだろう? それら全てが真実でなく思い込みが混ざっている点を差し引いたとしても、とても許されない卑劣な行為だ。
自責の念で、胸が押しつぶされそうになる。
どうすれば償える? などと考えるのは傲慢だ。もう償うことは出来ない。それ程に罪は重く、かつ、時間が経ちすぎていた。
けれども美奈子は、既にそのダメージから立ち直り幸せな生活を手に入れている。一方で、彼女の好意を踏みにじった俺の方はというと……。
逢坂部は耐え切れなくなり、砂利の上に両手を付いて泣いた。嗚咽を上げて泣き続けた。彼の体勢が低くなったことで、帆夏も合わせるように膝を地面に着いた。
バカだなあ、と彼は思う。
こんな思いをしないために、誰とも深く関わらずに、誰をも深く愛さずに生きてきたはずだったのに。一時の感傷に気を許して手紙の封を切ってしまったばかりに、こんな悲しみを背負ってしまった。
真実を知らずにおけば、美しい思い出のままで、胸の内に仕舞っておけたのに。
「思いきり泣きましょう」
彼の目元を指で優しく拭いながら、帆夏は言った。
「しんどいときは、我慢しないで、声を出して泣きましょう。なにも恥ずかしいことでは、ないのですよ?」
「すまない、俺が情けない男であるばかりに、無関係な君まで巻き込んでしまって」
腫れた瞼を優しく撫でてくれる少女の指先に触れながら、暖かい手だと思った。指先から伝わってくる僅かな体温が、痛み続ける胸に染み込んでいくようだった。
「情けなくなんか、ありませんよ。逢坂部さんは、美奈子さんにしてしまった仕打ちを後悔し、涙を流してます。そして彼女も悲しみを乗り越えて、幸せを掴みました。良いじゃないですか、それで。思い出は美しいままです。その後の人生には少しばかりの影が差し込んだかもしれませんが、今はみんな、幸せに生きてます。十分じゃないですか?」
──幸せ、か。自嘲気味に、彼は笑った。
「君は、どうして――こんな俺に構うんだ?」
「どうして――なんでしょう? きっと私は、お節介焼きなんでしょうね。自分でも、自分のことがよくわかりませんが」
帆夏は惚けたような口調で言いながら、彼の首すじにそっと唇を触れる。逢坂部に気付かれないようにそっと。触れるか触れないかの、軽いタッチで。
──私が、居るよ……。帆夏は、そっと囁いた。
逢坂部さんが心中に抱えているものの正体も、どうしてそんなに思い悩んでいるのかも、私はちゃんと知っているから。
あなたの瞳に希望の光が見えていない事も、わかってる。手を差し伸べてあげたい。あなたの事、支えてあげたい。私が宮古市に滞在できる時間も少なくなってきてるんだから、頑張らなくちゃいけないのに……。
──ダメだな私。勇気、出ないな……。
彼は高崎美奈子の手紙を丁寧に折りたたんで紙飛行機にすると、街灯の光を反射して煌めいている川の対岸に向けて飛ばした。
紙飛行機は長い間中空を漂っていたが、やがて川面に落ちると、そのまま流されていった。
「良いんですか?」と帆夏は、隣の逢坂部に尋ねた。「構わない」と彼は答えた。
「君が言ったとおりだ。俺は自分の犯した罪を咀嚼し噛みしめた上で、前に進まなければならない。忘れてはいけない記憶だけれども、何度も読み返して感傷に浸るようなものでもない。だからもう、良いんだ」
まるで夫婦のように寄り添いながら、二匹の蛍が飛んでいた。冷たい、夜の風が吹いた。
再び車を走らせると、川沿いの空き地を探して車を停める。ドアを開けて降りると、松虫の鳴く声が聞こえた。買い込んだ花火やバケツを手分けして持つと、堤防を下って砂利の多い川原まで並んで歩く。川面の上を蛍が数匹、光の尾を引きながら飛んでいた。二人はその光景に、感嘆の声を漏らした。
周辺に、家の灯りは数える程度しか見えない。暗い足元に気をつけるよう帆夏に促しながら川の側まで向かうと、バケツ一杯に水を汲んだ。流れる水の冷たさに、彼女がきゃあと悲鳴を上げた。近くの草むらからは、沢山の虫の声がわき上がり、川からはせせらぎの音が聞こえてきた。空は今日も澄み渡り、満天の星空だった。
視線を空に向けながら、そうか、瞬かない星空とはこんな光景なのだろうかと逢坂部は思った。
平らな石の上に蝋燭を立てると、チャッカマンで火を点ける。安物だが、ちゃんと自分の仕事を全うした。
花火のセットのうち一つを開封すると、当たり障りの無い手持ち花火から、消化していった。
シュワシュワと独特の音を奏でながら、色とりどりの火花が散った。はしゃぐように円を描いたり、二本同時に火を点けてみたり。手持ち花火を石の間に立てて、点火してみたり。まるで小学生が悪戯をするかの如く、花火を二人で楽しんだ。
手持ち花火がなくなると、筒状の噴き上げ花火に点火する。予想よりも火花は吹き上がらず、また、あっと言う間に燃え尽きた。二人で顔を見合わせて、なんとなく笑った。
絶え間なく立ち昇る煙が、やがて川原の周囲を埋め尽くしていった。
それも全部無くなると、最後に残されたのは地味な線香花火だった。たっぷりと膨らんだ線香花火の火の玉の光に、帆夏の横顔が、ぼうっと照らし出されている。
「どっちの花火が長く燃えていられるか、競争しましょうよ?」
彼女の提案に応えて、二人同時に線香花火に点火する。花火の玉は次第に大きく膨れながら、頼りなく光の線を飛ばした。
まるで自分が抱える鬱々とした感情や、失望や恐怖。その他のあらゆる負の感情を含んで、大きく膨らんでいるようだと、逢坂部は思った。やがて、彼の花火が先に地面に落ちる。輝きを一瞬で失った線香花火は、まるで命が燃え尽きるかのように、儚く散って消えた。
帆夏が、「私の勝ちだね」と、歓声を上げるが、彼は上手く笑うことが出来なかった。自分の花火が重さに耐えかねて落ちてしまうのは、必然だ。そんな気がしていた。
「どうしたんですか――?」
浮かない顔になってしまった逢坂部を気遣うように、彼女は声を掛けた。帆夏の目には、彼が泣いているように映ったのだ。
「笑わないで、聞いてくれるかい? 実を言うと俺は、美奈子との文通を一方的に打ち切った後も、未練がましく何度か手紙を書いていたんだ」
逢坂部の心は自分で想像していたよりも傷ついていた。高崎美奈子に旦那と家族が居たから、それも確かに一因だ。だがそれ以上に、自分が彼女に対して抱いていた想いが、中途半端な再会によって呼び起こされていたのだ。
なんとなく再会して、お互いに淋しかった日々の出来事を言外に伝え合う。そんな感じに楽観視してたのかもしれない。
何処か自惚れていた自分の醜さとか、明確な形となって現れた失恋に傷つく自分の弱さが、纏めて押し寄せてくるようで、胸が痛くてどうしようもなかった。
それから逢坂部は、高崎美奈子との思い出、転校した後に続けていた文通の話とその顛末を、順序立てて帆夏に説明していった。彼女は黙って、彼の言葉に耳を傾けた。
彼女との文通を自分から打ち切った後に、何通か書いていた手紙。誰に向けて書いたかというと、それはやはり美奈子に向けてだった。但しそれは二通で終わりを迎え、ポストに投函されることもなく、デスクの引き出しに仕舞い込まれていたのだが。
それら二通の手紙に綴られていたのは、転校して彼女と離れ離れになった後の、自分の真実の姿についてだ。
遂に三年間馴染むことのなかった高校生活。惰性で続けていた写真部。新しい友達が出来たと文面では偽ったものの、今になって思うと、彼らは本当に友達だったのかと首を傾げたくなるような希薄な人間関係。
希望が見いだせなくなった日々を、いかに虚構で塗り固めて文通を続けていたのかということ。そんな真実を延々と独白した。
そんな日々の中でも僅かに感じた希望。楽しかったこと。悲しかったこと。辛かったこと。秘めた感情の全てを手紙の最後に吐き出すようにして書き添えた、二通。
仮定の話ではあるが、この二通がポストに投函され彼女の元に届き、そして封を切ったとするならば、あまりにも変わってしまった彼の『真実の姿』に、彼女は失望するだろう。そんな内容の手紙だった。
「苦労を、してきたんですね」
逢坂部が話し終えて人心地ついた頃合に、帆夏は気遣うような口調で言った。簡潔な言葉ではあったが、同時に優しく包容力のある言葉だった。
「君は、優しい子なんだな」
「今ごろ、気付いたんですか?」と彼女は皮肉めいた口調で言った。「私は、ずっと逢坂部さんのことを気遣ってたつもりですよ」
「ああ、そうだな。ありがとう」
否定はできなかった。思い当たる節は、幾つも幾つもあった。
「ようやく俺は、この手紙の封を切る決心がついたよ」
そう言って逢坂部は、懐から一通の茶封筒を取り出した。それは、高崎美奈子から届いた、未開封のままの最後の手紙。
帆夏は、しゃがみ込んでいる逢坂部の背後に回りこむと、背中に身体を預けるようにして、抱きついてくる。
密着した彼女の身体から伝わる熱と、柔らかい感触に、彼は少し驚いたけれども、そのまま好きにさせておいた。
封を切って、便箋を取り出す。
*
拝啓 逢坂部賢梧様
あなたからの手紙が届かなくなってしまったことを、日々、不安に感じています。
住所が変わってしまったのでしょうか?
体調を崩して、入院などしていないでしょうか?
それとも、私が『好き』だと伝えてしまったことを、重荷に感じているのでしょうか? 迷惑に感じているのでしょうか?
もし、そうだとしたらごめんなさい。
けれども、私が賢梧君を好きだと想っていることは本当です。
自分の気持ちにこれ以上嘘がつけなくなってしまったので、あのような手紙を出しました。
本当にごめんなさい。
ごめんなさいのついでに、私にはもう一つ謝ることがあります。
私は、高校生活があまり上手くいっていない、と書きました。
これは嘘です。本当は――全然上手くいっていません。
私は今の高校でイジメに遭っています。
何故、彼女たちに嫌われているのか? これは明白ではありません。私が無口であること、抵抗しないことも一因だとは思いますが、極端に強いわけでも弱いわけでもない、中途半端な人間だからかもしれません。
イジメに遭うこと自体は初めてではないので、どうやって耐えるのか? どうやって乗り切るのか? そんな術を私は心得ています。
そういう打っても響かない感じが、余計に彼女らを苛立たせるのかもしれません。
襟首を掴まれて体育用具室に連れ込まれます。全員に殴る蹴るの暴行を受けた後、口をこじ開けられるとバケツの汚水を注がれます。何処から持ってきた水かはわかりませんが、予測は出来ます。その濁った水は、放課後の教室や廊下の掃除が終わった後に、持ち込まれた物だからです。
上履きを隠された回数は、既に数えるのを止めました。
以前隠されたものが見つかった場合は、それを。ストックがなくなれば新しい上履きを、常に鞄の中に忍ばせて登校しています。
廊下で彼女たちと擦れ違うときは苦痛です。目を合わせても逸らしても因縁をつけられるからです。
そしてまた、トイレの中に突き飛ばされます。トイレの中でのイジメは苦痛です。バケツの水よりも衛生度が悪いものを飲まされるからです。
それでも――私は耐えることが出来ました。あなたからの手紙が届くことを、何時も心待ちにしていたからです。
これが私からあなたへの、最後のお願いです。
もし、私に対して僅かでも好意を持ってくれているのならば、こんなどうしようもない私でも、会って話を聞いてみたいと思うのであれば、一度でも良いです。直接会って話をしませんか?
是非、お返事を下さい。
その時の為に、旅費を貯めておきます。
何時までも、待っています。
かしこ 高崎美奈子
*
逢坂部は愕然としていた。
手紙の中で虚構の姿を作り上げていたのは、自分だけではなかった。いやむしろ、美奈子の方がより辛い環境に置かれ、思い悩み、より深い嘘によって自身を覆い隠していたことを知った。
そんな彼女の最後の願いですらも、手紙を読むことなく踏みにじってしまった。自分はどうしようもなく嘘吐きで、卑怯で、冷たい人間だったと二十五歳にもなって初めて悟る。
彼女の視点で見るならば、自身が勇気を振り絞って行った告白も、その後の再会を願う懇願もシカトされ、おまけに返事すら出して貰えないというのはどんな心境だったのだろう? それら全てが真実でなく思い込みが混ざっている点を差し引いたとしても、とても許されない卑劣な行為だ。
自責の念で、胸が押しつぶされそうになる。
どうすれば償える? などと考えるのは傲慢だ。もう償うことは出来ない。それ程に罪は重く、かつ、時間が経ちすぎていた。
けれども美奈子は、既にそのダメージから立ち直り幸せな生活を手に入れている。一方で、彼女の好意を踏みにじった俺の方はというと……。
逢坂部は耐え切れなくなり、砂利の上に両手を付いて泣いた。嗚咽を上げて泣き続けた。彼の体勢が低くなったことで、帆夏も合わせるように膝を地面に着いた。
バカだなあ、と彼は思う。
こんな思いをしないために、誰とも深く関わらずに、誰をも深く愛さずに生きてきたはずだったのに。一時の感傷に気を許して手紙の封を切ってしまったばかりに、こんな悲しみを背負ってしまった。
真実を知らずにおけば、美しい思い出のままで、胸の内に仕舞っておけたのに。
「思いきり泣きましょう」
彼の目元を指で優しく拭いながら、帆夏は言った。
「しんどいときは、我慢しないで、声を出して泣きましょう。なにも恥ずかしいことでは、ないのですよ?」
「すまない、俺が情けない男であるばかりに、無関係な君まで巻き込んでしまって」
腫れた瞼を優しく撫でてくれる少女の指先に触れながら、暖かい手だと思った。指先から伝わってくる僅かな体温が、痛み続ける胸に染み込んでいくようだった。
「情けなくなんか、ありませんよ。逢坂部さんは、美奈子さんにしてしまった仕打ちを後悔し、涙を流してます。そして彼女も悲しみを乗り越えて、幸せを掴みました。良いじゃないですか、それで。思い出は美しいままです。その後の人生には少しばかりの影が差し込んだかもしれませんが、今はみんな、幸せに生きてます。十分じゃないですか?」
──幸せ、か。自嘲気味に、彼は笑った。
「君は、どうして――こんな俺に構うんだ?」
「どうして――なんでしょう? きっと私は、お節介焼きなんでしょうね。自分でも、自分のことがよくわかりませんが」
帆夏は惚けたような口調で言いながら、彼の首すじにそっと唇を触れる。逢坂部に気付かれないようにそっと。触れるか触れないかの、軽いタッチで。
──私が、居るよ……。帆夏は、そっと囁いた。
逢坂部さんが心中に抱えているものの正体も、どうしてそんなに思い悩んでいるのかも、私はちゃんと知っているから。
あなたの瞳に希望の光が見えていない事も、わかってる。手を差し伸べてあげたい。あなたの事、支えてあげたい。私が宮古市に滞在できる時間も少なくなってきてるんだから、頑張らなくちゃいけないのに……。
──ダメだな私。勇気、出ないな……。
彼は高崎美奈子の手紙を丁寧に折りたたんで紙飛行機にすると、街灯の光を反射して煌めいている川の対岸に向けて飛ばした。
紙飛行機は長い間中空を漂っていたが、やがて川面に落ちると、そのまま流されていった。
「良いんですか?」と帆夏は、隣の逢坂部に尋ねた。「構わない」と彼は答えた。
「君が言ったとおりだ。俺は自分の犯した罪を咀嚼し噛みしめた上で、前に進まなければならない。忘れてはいけない記憶だけれども、何度も読み返して感傷に浸るようなものでもない。だからもう、良いんだ」
まるで夫婦のように寄り添いながら、二匹の蛍が飛んでいた。冷たい、夜の風が吹いた。
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