『境界線の濁流』

かおるこ

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第7話「医療か、祈祷か」

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第7話「医療か、祈祷か」

「とにかく一回、来てみなさいって」

車の中で叔母が言った。

ハンドルを握る手がやけに強い。
ワイパーがフロントガラスをこする。

**ギッ。ギッ。**

空はどんより曇っていた。

「霊能者とか……そういうの、俺は」

蓮は助手席で小さく言う。

「信じてない」

叔母はため息をついた。

「信じる信じないじゃないの」

信号で車が止まる。

「お医者さんも行ったでしょう?薬も飲んでるでしょう?」

「……」

「それでも治らないなら、別の方法も試してみなきゃ」

蓮は窓の外を見る。

灰色の街。

歩いている人は普通だ。

誰も川なんか見ていない。

誰も影なんか見ていない。

「……俺は病気だよ」

ぽつりと言う。

「医者がそう言った」

叔母は何も言わない。

ワイパーの音だけが続く。

**ギッ。ギッ。**

---

霊能者の家は、古い木造だった。

門の前で車が止まる。

「ここ?」

蓮は眉をひそめた。

普通の家だ。

看板もない。

ただ、玄関の前に小さな石灯籠がある。

苔の匂い。

湿った土の匂い。

「入ろう」

叔母が言う。

玄関の引き戸を開けると、線香の匂いがふわりと広がった。

「どうぞ」

中から声がした。

低い、年寄りの声。

畳の部屋だった。

障子から柔らかい光が差している。

部屋の奥に、老人が座っていた。

痩せている。

白髪。

細い目。

「……こんにちは」

叔母が頭を下げる。

「この子です」

老人の視線が、ゆっくり蓮に向く。

その瞬間、

背中が冷たくなった。

まるで服の中に氷を落とされたみたいに。

「……ほう」

老人が呟く。

蓮は座布団に座った。

畳が少し湿っている。

線香の煙が、細く揺れている。

老人は何も言わない。

ただ、じっと見ている。

「……何か見えるんですか」

蓮が先に口を開いた。

老人は少し首を傾げる。

「見えるというか……」

言葉を選ぶように間を置く。

「見えない」

「……え?」

蓮は眉を寄せた。

老人は蓮の背後をじっと見ている。

「普通はね」

ゆっくり言う。

「人の後ろには、気配がある」

線香の煙を指でなぞる。

「こんなふうに、流れがね」

「……流れ?」

「生きている人間の後ろには、何かがあるんだよ」

老人の目が細くなる。

「でも」

蓮の背中を指差した。

「君は、ない」

部屋が急に冷えた気がした。

「……ない?」

蓮の声が乾く。

老人は小さく頷いた。

「ぽっかり空いてる」

そして、ぽつりと呟く。

「穴みたいだ」

叔母が息を飲む。

「穴……?」

老人の声が低くなる。

「真っ黒な」

蓮の心臓が跳ねた。

「……それ、どういう意味ですか」

老人は蓮の背後を見たまま言った。

「普通、人の背中は温かい」

「……」

「でも君は違う」

ゆっくり、はっきり。

「**喰われてるよ**」

蓮の喉がひくりと動く。

「……誰に」

老人の目が、わずかに細くなる。

「何かに」

部屋が静まり返る。

線香の灰が落ちた。

**ぽと。**

「……冗談ですよね」

蓮は笑おうとした。

うまく笑えない。

老人は首を振った。

「長いことついてる」

「ついてる?」

「影だね」

その言葉で、胸がざわつく。

蓮は思わず言った。

「黒いやつですか」

老人の目が、ぴくりと動いた。

「見えるのか」

「……時々」

蓮は視線を落とす。

「部屋の隅とか」

「夜とか」

「……笑ってるんです」

老人は黙った。

しばらくして、小さく言う。

「怒りを食うものだ」

「……怒り?」

「孤独でもいい」

線香の煙が揺れる。

「そういうものを、餌にする」

叔母が震えた声で言う。

「じゃ、どうすれば……」

老人は蓮を見つめた。

「祓うしかない」

「……除霊?」

「そう」

蓮は畳を見た。

指先が冷たい。

本当にいるのか。

あの影は。

それとも。

「……病気かもしれない」

蓮は呟く。

「医者はそう言った」

老人は少し笑った。

「医者は医者の言葉で説明する」

「じゃあ、あなたは?」

老人は静かに答えた。

「見えるもので説明する」

「……どっちが正しいんですか」

その問いに、

老人はすぐ答えなかった。

ただ蓮の背後を見て、

小さく言った。

「君が決める」

---

帰り道。

病院の白い廊下。

消毒液の匂い。

蛍光灯の光が目に刺さる。

診察室の中で、医師がカルテを見ていた。

「最近どうですか」

「……金縛りが」

「幻覚は?」

蓮は少し迷って言う。

「見えます」

医師はペンを走らせる。

カリカリと紙を引っかく音。

「典型的ですね」

「……典型?」

医師は顔を上げた。

穏やかな目。

「幻覚症状です」

あっさり言う。

「統合失調症ではよくある」

「でも……」

蓮は言いかけて止まる。

霊能者の言葉。

**喰われてるよ**

医師は続ける。

「薬を増やしましょう」

「時間はかかりますが、治ります」

蓮は黙った。

診察室を出る。

白い廊下。

冷たい床。

窓の外は曇り空。

蓮はゆっくり歩く。

そして思う。

医者の言葉。

霊能者の言葉。

どちらも、

**同じくらい本当のように聞こえる。**

廊下の角を曲がる。

そのとき。

壁の影が、

わずかに揺れた。

蓮は立ち止まる。

心臓が鳴る。

影は、そこにあった。

細長く、

人の形で。

そして、

まるで聞いていたかのように、

**静かに笑った気がした。**

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