『境界線の濁流』

かおるこ

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第8話「暴発」

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第8話「暴発」

「ちゃんと薬、飲んでるの?」

母の声は、台所から聞こえた。

鍋の蓋が鳴る。
**カタ、カタ。**

味噌の匂いが部屋に漂っている。

蓮はテーブルの前に座っていた。
湯のみの茶はもう冷めている。

「……飲んでる」

小さく答える。

母は振り向かない。

「ほんとに?」

その言い方が、胸に刺さる。

「……飲んでるって」

「でも先生は、まだ不安定だって言ってたでしょう」

蓮の指がテーブルを叩いた。

**トン。**

小さな音。

母は鍋をかき混ぜながら続ける。

「夜も眠れてないんでしょ?」

「……」

「この前だって、廊下で変な声出してたって叔母さんが——」

「うるさい」

言葉が、思ったより強く出た。

母が振り向く。

「……何?」

蓮の胸の奥で、何かがざらつく。

「……うるさいって言った」

「心配してるのよ」

「してないだろ」

蓮は笑った。

乾いた笑い。

「迷惑なんだろ?」

「そんな言い方——」

「だってそうだろ!」

声が急に大きくなる。

台所の空気が揺れた。

母が驚いた顔をする。

「蓮、落ち着いて」

その一言。

それが、

**火をつけた。**

「落ち着けってなんだよ!」

蓮は立ち上がった。

椅子が床をこする。

**ギィッ。**

「俺は普通だって言ってるだろ!」

「普通じゃないから病院に——」

「黙れ!」

テーブルの湯のみを掴む。

次の瞬間、

壁に叩きつけた。

**ガシャッ!**

陶器が砕ける。

茶色い染みが壁に広がる。

母が息を呑む。

「蓮……」

「うるさいんだよ!」

胸の奥で、何かが膨らむ。

熱い。

怒りが、止まらない。

「みんな同じことばっかり言いやがって!」

蓮はテーブルを蹴った。

**ドン!**

皿が揺れる。

一枚、落ちた。

**パリン。**

割れる音。

それが妙に気持ちいい。

「やめて!」

母が叫ぶ。

「やめなさい!」

その声が、

また蓮の神経を擦る。

「やめろってなんだよ!」

蓮は皿を掴んだ。

投げる。

**パリン!**

また割れる。

破片が床に散る。

味噌汁の匂いが濃くなる。

鍋が焦げ始めている。

「蓮、お願いだから——」

「うるさい!」

手が震えている。

でも止まらない。

怒りが体の中で暴れている。

まるで、

**誰かに押されているみたいに。**

そのとき。

背中が、ぞくっとした。

蓮はふと振り向く。

リビングの奥。

窓の前。

そこに、

影があった。

「……」

黒い。

濃い。

人の形。

でも、

今までより大きい。

天井に届きそうなくらい。

「……またお前か」

蓮の声がかすれる。

影は動かない。

ただ、

**揺れている。**

まるで笑っているみたいに。

「……見えるの?」

母が震えた声で聞く。

「何が」

「今……誰と話してるの」

蓮は答えない。

影は、ゆっくりと広がっていく。

壁を這う。

天井に伸びる。

「……楽しいか」

蓮が呟く。

影がわずかに震えた。

本当に、

**笑っている。**

蓮の胸の奥で、怒りがまた膨らむ。

「そうかよ」

歯を食いしばる。

「俺が怒ると楽しいのかよ」

影が揺れる。

まるで頷いたみたいに。

「ふざけんな」

テレビの前に歩く。

古いテレビ。

重たい。

両手で掴む。

母が叫ぶ。

「蓮!やめて!」

蓮は振り返らない。

「見てろよ」

影に向かって言う。

「そんなに好きなら——」

持ち上げる。

腕が震える。

でも、

そのまま床に叩きつけた。

**ドォン!!**

画面が割れる。

ガラスが飛び散る。

電子の焦げた匂い。

母が悲鳴を上げる。

「何してるの!」

蓮は荒い呼吸をしている。

胸が上下する。

汗が首を伝う。

影を見る。

それは、

大きく、

大きくなっていた。

壁いっぱいに広がっている。

そして、

はっきりわかった。

影の口。

裂けたような形。

そこが、

**大きく開いている。**

笑っている。

「……やっぱりか」

蓮の声は震えていた。

「俺の怒り、食ってるんだろ」

影は答えない。

でも、

さらに揺れる。

歓喜しているみたいに。

母が蓮の腕を掴んだ。

「蓮!もうやめて!」

その手を振り払う。

「触るな!」

母がよろける。

皿の破片を踏む。

**ジャリ。**

血の匂いがわずかに混じる。

部屋はめちゃくちゃだった。

割れた皿。

倒れたテーブル。

壊れたテレビ。

味噌の焦げた匂い。

そして、

黒い影。

蓮は息を整えながら呟く。

「……満足か」

影は、ゆっくり揺れた。

まるで、

**もっと寄こせ**と言っているみたいに。

蓮の胸の奥で、

怒りがまた、

小さく燃え始めていた。

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