『境界線の濁流』

かおるこ

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第9話「世界の浸食」

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第9話「世界の浸食」

夜のアパートは、やけに静かだった。

廊下の蛍光灯が一つだけ点いている。
白い光が、長く伸びた影を作っている。

蓮はドアを開けた。

**ギィ……**

冷たい空気が流れ込む。

廊下に出ると、コンクリートの匂いがした。
湿った壁の匂い。

遠くで誰かのテレビの音が聞こえる。

普通の夜だ。

「……大丈夫だ」

蓮は小さく呟いた。

薬は飲んだ。
今日は眠れる。

そう思った。

そのときだった。

足元で、

**ちゃぷ。**

「……?」

蓮は動きを止める。

もう一度。

**ちゃぷ。**

水の音。

廊下を見下ろす。

コンクリートの床が、

**濡れている。**

「……は?」

靴の先に水が触れる。

冷たい。

じわっと広がる。

蓮は顔をしかめた。

「なんだよ……誰か水こぼしたのか」

一歩踏み出す。

**ちゃぷ。**

水の音が響く。

その音が、

やけに大きい。

蓮は廊下の奥を見る。

そこまで、全部濡れている。

光が水面に反射している。

ゆらゆら揺れる。

「……おかしいだろ」

廊下はまっすぐだ。

排水もない。

それなのに、

水は増えている。

じわじわ。

蓮の靴の周りに広がる。

「……やめろ」

胸がざわつく。

この感覚を、知っている。

この匂い。

泥の匂い。

濁った水の匂い。

「……違う」

蓮は首を振る。

「ただの水だ」

でも、

次の瞬間。

**ゴォォォ……**

低い音が聞こえた。

蓮は顔を上げる。

廊下の奥。

暗い影の向こう。

そこから、

**水が流れてきている。**

「……は?」

茶色い水。

濁った流れ。

ごみや葉っぱが混じっている。

「……嘘だろ」

水は勢いを増す。

**ゴォォォォ!**

濁流が廊下を埋める。

蓮の膝にぶつかる。

冷たい。

強い。

押される。

「……川?」

蓮の喉が震える。

小学校の朝。

通学路。

あの景色。

「……またかよ」

笑いが漏れる。

乾いた笑い。

「また川かよ!」

水は腰まで上がる。

流れが強くなる。

足が取られる。

蓮は壁に手をついた。

コンクリートが冷たい。

「……渡らないと」

向こう側に、出口がある。

外。

普通の世界。

そこまで行けばいい。

蓮は水の中に踏み出す。

**ざぶっ**

流れが強い。

体が揺れる。

「くそ……」

手で水をかく。

泳ぐように進む。

水が顔にかかる。

泥の味。

ざらつく。

「……冷たい」

歯が鳴る。

それでも進む。

「大丈夫だ……渡れる」

流れの音が耳を塞ぐ。

**ゴォォォォ!**

廊下の壁が遠くなる。

世界が、水になる。

「……くそ!」

足が滑る。

体が倒れる。

蓮は四つん這いになる。

水をかく。

「進め……!」

手を前に出す。

水を掴む。

「くそ……くそ……!」

---

「おい!」

誰かの声。

遠くから聞こえる。

「おい、あんた!」

蓮は振り向く。

濁流の向こう。

誰かが立っている。

「そこ危ないぞ!」

声がぼやける。

何を言っているのか、わからない。

蓮は叫ぶ。

「助けろ!」

水が口に入る。

むせる。

「川なんだよ!」

向こうの人影が戸惑う。

「……は?」

「見えないのか!」

蓮は水をかきながら叫ぶ。

「流れてるだろ!」

---

外から見ると、

廊下には

**水などなかった。**

蓮は床に倒れていた。

四つん這いで、

コンクリートを掻いている。

爪が床をこする。

**ガリッ。ガリッ。**

「流れてる……!」

蓮は叫ぶ。

「川だ!」

住人の男が後ずさる。

「……やばいな」

別のドアが開く。

「どうしたの?」

「変な奴が暴れてる」

蓮は床を這う。

手を伸ばす。

「渡らないと……」

唾が飛ぶ。

息が荒い。

「流される……!」

男がスマホを取り出す。

「警察呼ぶか?」

蓮は必死に前へ進む。

床をかく。

爪が割れる。

「くそ……!」

目の前に、

影があった。

黒い影。

廊下の壁に張りついている。

蓮の視界では、

それは

**川の中に立っていた。**

巨大な影。

水の中で揺れている。

「……お前か」

蓮が呟く。

影は動かない。

でも、

わかる。

**笑っている。**

「楽しいか」

蓮の声が震える。

「俺が溺れるの」

影が揺れる。

まるで、

水の中で笑っているみたいに。

蓮は歯を食いしばる。

「……負けるかよ」

水をかく。

手を伸ばす。

「渡る……」

向こう岸。

普通の世界。

そこへ。

「絶対渡る!」

---

外から見ると、

蓮は

床を這い回りながら

意味不明な言葉を叫び続けていた。

髪は乱れ、

口から泡が飛ぶ。

目は見開かれている。

完全な狂気。

廊下の蛍光灯の下で、

その影だけが

異様に大きく伸びていた。

そしてその影は、

まるで本当に

**笑っているように見えた。**

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