『境界線の濁流』

かおるこ

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第10話「濁流の行く末」

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第10話「濁流の行く末」

夜だった。

蓮の部屋は暗い。

カーテンの隙間から街灯の光が細く差し込んでいる。
床には割れた皿の破片がまだ残っていた。

焦げた味噌の匂い。
古いゴミの匂い。

そして、湿った泥の匂い。

「……またか」

蓮はベッドに腰を下ろしたまま呟いた。

そのとき。

**パキ。**

壁の奥で音がした。

乾いた音。

木が割れるような。

「……」

蓮は動かない。

また鳴る。

**パキ。
パキ。**

今度は別の壁。

台所。

次は天井。

**パキ、パキ、パキ。**

まるで部屋の中に、

無数の拳があるみたいに。

「……やめろよ」

蓮の声は静かだった。

壁がまた鳴る。

**ドン。**

今度は強い。

震えが床まで伝わる。

「うるさいって言ってるだろ」

蓮は立ち上がった。

足元で皿の破片が鳴る。

**ジャリ。**

その瞬間、

壁の影が揺れた。

蓮はゆっくり振り向く。

部屋の隅。

いつもの場所。

そこに、

影があった。

黒い。

濃い。

そして、

**大きい。**

天井まで伸びている。

壁いっぱいに広がっている。

「……お前か」

蓮は影を見つめる。

影は揺れる。

まるで呼吸しているみたいに。

「……来たな」

蓮の胸の奥で、

何かが静かに沈んでいく。

怒りではない。

恐怖でもない。

もっと重いもの。

影がゆっくり動く。

腕のような形が伸びる。

指のようなものが広がる。

まるで蓮を包もうとしている。

「……触るな」

蓮は言った。

影は止まらない。

壁から床へ。

床から天井へ。

部屋が黒く染まっていく。

**パキ。**

壁がまた鳴る。

「……違う」

蓮はぽつりと呟いた。

影を見ながら、

ゆっくり首を振る。

「違うだろ」

影が揺れる。

「お前」

蓮は一歩前に出た。

足音が部屋に響く。

「外から来たんじゃない」

影が一瞬止まる。

「……俺だろ」

言葉が、静かに落ちた。

胸の奥で何かがほどける。

怒り。

孤独。

恐怖。

絶望。

今まで蓮の中に溜まっていたもの。

それが、

形になっている。

「そうか」

蓮は笑った。

初めて、

自然に笑った。

「お前、俺か」

影は揺れる。

否定しない。

肯定もしない。

ただ、

そこにいる。

「……ずっと腹減ってたんだな」

蓮は呟く。

「怒りとか」

「孤独とか」

「そういうの」

影の形が膨らむ。

部屋の空気が重くなる。

そのとき、

世界が揺れた。

視界が歪む。

部屋が遠ざかる。

床が消える。

そして、

気づくと蓮は

**通学路に立っていた。**

朝の光。

冷たい空気。

遠くで子どもの声。

でも、

目の前には

**川がある。**

濁った川。

茶色い水。

ゴミが流れている。

渦を巻いている。

小学校の朝、

初めて見たあの川。

「……またか」

蓮は小さく呟いた。

でも、

今回は違う。

怖くない。

水の音が聞こえる。

**ゴォォォォ。**

冷たい風が頬を撫でる。

向こう岸を見る。

そこには、

普通の道路がある。

人が歩いている。

車が走っている。

普通の世界。

「……あっちか」

蓮は言う。

少し考える。

もし渡れたら、

普通になれるのか。

影は消えるのか。

病気は治るのか。

わからない。

でも、

一つだけわかる。

蓮は、ゆっくり息を吐いた。

「……いいや」

誰に言うでもなく言う。

「もういい」

川を見る。

濁った水。

冷たい流れ。

怖い世界。

でも、

ここは自分が見ている世界だ。

「逃げても」

蓮は呟く。

「消えないんだろ」

靴を一歩出す。

川に入る。

**ざぶ。**

冷たい。

骨まで染みる冷たさ。

でも、

足は止まらない。

「……お前も来るか」

蓮は後ろを振り向く。

そこには、

影が立っていた。

大きな黒い影。

蓮と同じ形。

影は答えない。

ただ、

静かに揺れている。

「そうか」

蓮は笑う。

そして、

もう一歩進む。

水は膝まで上がる。

流れは強い。

それでも、

歩く。

向こう岸ではなく、

**川の中を。**

濁流の中心へ。

「これが俺の世界なら」

蓮は小さく言う。

「ここで歩くしかない」

水が唸る。

冷たい風。

泥の匂い。

すべてが現実みたいに重い。

でも、

蓮は止まらない。

完治ではない。

救いでもない。

ただ一つ、

はっきりしていることがある。

蓮は静かに呟いた。

「……これも俺だ」

濁流の中で、

影と並んで。

蓮は、

ゆっくり歩き続けた。

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