『65歳、延長雇用を終えた日、妻に離婚届を渡された ― 未婚男性の死亡中央値67.2歳から始まる、僕の再就職人生 ―』

かおるこ

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第12話 飯を炊ける男

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第12話 飯を炊ける男

朝の台所は、まだ冷たい。

流し台の金属が、指先にひんやりと触れる。
窓の外は曇り空。
遠くでトラックのエンジン音が唸っている。

恒一はボウルに米を入れ、水を注いだ。

白い粒が水の中で揺れる。

「……最初は、こんなのも知らなかったんだよな」

手を入れて、米を研ぐ。

しゃり、しゃり。

指の腹に小さな粒が当たる感触。
水はすぐ白く濁る。

恒一はそれを流す。

ジャーッ。

冷たい水が流れ、手の甲を滑る。

二回、三回。

「こんなもんか」

炊飯器に入れる。
ボタンを押す。

**ピッ**

それだけで、米が炊ける。

昔は、その音すら聞いたことがなかった。

志保がいつもやっていたからだ。

恒一はふと苦笑する。

「便利な世の中だな」

炊飯器が静かに働き始める。

コト……コト……。

---

味噌汁も作る。

鍋に水を入れ、昆布を入れる。

火をつける。

ガスの匂い。
小さな青い炎。

「出汁って、こんな匂いだったんだな」

昆布を取り出し、鰹節を入れる。

ふわりと、だしの香りが広がる。

柔らかくて、温かい匂い。

恒一は目を細める。

「……いい匂いだ」

味噌を溶く。

スプーンでゆっくり混ぜる。

味見。

「……うん」

少ししょっぱい。

だが、最初の頃よりずっとまともだ。

最初は鍋を焦がした。

味噌を入れすぎて、飲めないほど塩辛くなったこともある。

それでも、少しずつ覚えた。

米を炊くこと。

味噌汁を作ること。

生活すること。

---

その日の夕方。

アパートの廊下で、ドン、と音がした。

恒一はドアを開ける。

隣の部屋の前。

小学生の男の子が、工具箱を抱えて困っていた。

「どうした」

男の子が振り向く。

「あ、おじさん」

汗ばんだ額。
ランドセルが床に置いてある。

「棚が壊れた」

「棚?」

部屋の中を見る。

安い木の棚が、ぐらぐらしている。

「お母さん?」

「仕事」

恒一はしゃがむ。

棚を押してみる。

ネジが外れている。

「……ドライバーあるか」

男の子が差し出す。

「これ」

恒一は工具を受け取る。

ネジを締める。

ギギッ。

木の軋む音。

少し力を入れる。

カチッ。

棚がまっすぐになる。

恒一は立ち上がる。

「直った」

男の子が目を輝かせる。

「すごい!」

恒一は笑う。

「大したことない」

男の子は言う。

「おじさん、なんでも屋さんみたい」

恒一は首を振る。

「なんでもはできないよ」

男の子は少し考える。

それから言う。

「でも」

「ん?」

「前より笑うようになった」

恒一は、そこで止まる。

「……そうか?」

男の子は頷く。

「うん」

廊下の窓から夕方の光が差し込む。

橙色の光。

恒一は何も言えない。

自分が最近、少し息をしていることに気づいた。

---

数日後。

夜。

恒一が帰ると、隣の部屋のドアが開いていた。

男の子——晴斗が立っている。

「おじさん」

「どうした」

「お母さん、熱」

恒一は驚く。

部屋の中。

真由が布団に横になっている。

顔が赤い。

「すみません……」

かすれた声。

「大丈夫です」

恒一は言う。

「何か食べた?」

真由は首を振る。

晴斗が小さく言う。

「お腹すいた」

恒一は少し考える。

それから言う。

「うち来い」

---

六畳の台所。

フライパンが火にかかる。

ジュッ。

油の匂い。

卵を割る。

カラン、と殻が落ちる。

恒一は慌てて拾う。

「……失敗」

晴斗が椅子に座って見ている。

「おじさん料理できるの?」

「最近な」

卵を混ぜる。

ネギを少し入れる。

フライパンに流す。

ジュッ。

いい匂い。

だが、少し焦げる。

黒い線が出る。

「……悪いな」

皿に乗せる。

米と味噌汁。

晴斗が箸を持つ。

一口食べる。

もぐもぐ。

恒一は少し緊張する。

晴斗が言う。

「おいしい」

その二文字で、胸が熱くなる。

湯気が目にしみる。

恒一は言う。

「……ほんとか」

晴斗は頷く。

「うん」

米をもう一口食べる。

「お母さんの味と違うけど」

「違うけど?」

「おいしい」

恒一は笑う。

その笑いは、どこか照れていた。

人生で初めてだった。

誰かのために作った飯が、感謝される。

恒一は味噌汁をすする。

だしの匂い。

温かい湯気。

胸の奥がじんわり熱い。

恒一は小さく言う。

「……飯を炊ける男になったな」

晴斗が笑う。

「うん」

その声が、部屋の中で静かに響いた。

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