『65歳、延長雇用を終えた日、妻に離婚届を渡された ― 未婚男性の死亡中央値67.2歳から始まる、僕の再就職人生 ―』

かおるこ

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第13話 六十五歳の受験生

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第13話 六十五歳の受験生

夜の部屋は、静かだった。

六畳のアパート。
机の上には、分厚いテキストが一冊置いてある。

表紙にはこう書いてあった。

**建築物環境衛生管理技術者**

恒一はその文字を指でなぞる。

「……長い名前だな」

湯のみのほうじ茶から、香ばしい匂いが立ちのぼる。
外では秋の風が窓を軽く叩いている。

パラリ、とページをめくる。

紙の匂い。
新品のインクの匂い。

恒一は呟く。

「ビル管理士……か」

昼間、管理会社の事務所で聞いた言葉だった。

---

「立石さん」

主任の田辺が言った。

「この資格、知ってます?」

恒一は首をかしげた。

「資格?」

田辺は机の引き出しからパンフレットを出す。

「ビル管理士」

恒一は読む。

**建築物環境衛生管理技術者**

「特定建築物の衛生管理を監督する国家資格です」

田辺は言う。

「延べ床面積三千平方メートル以上の建物だと、これ持ってる人が必要なんですよ」

恒一は驚く。

「そんな資格あるのか」

「あります」

田辺は笑う。

「ビルメン業界だと、必須級です」

「へえ」

恒一はパンフレットをめくる。

「難しいんですか」

田辺は即答した。

「難しいです」

「どのくらい」

「合格率二割」

恒一は思わず吹き出す。

「二割?」

「年一回」

「年一回?」

田辺は肩をすくめる。

「落ちると一年待ち」

恒一はパンフレットを閉じる。

「……若い人が受けるんだろ」

田辺は笑う。

「いや」

恒一を見る。

「この業界、むしろ年配多いですよ」

---

夜。

恒一はテキストを開く。

**空気環境の管理**

「……空気?」

次のページ。

**給排水設備**

「水か」

さらに。

**廃棄物処理**

恒一は少し笑う。

「……なんでもあるな」

ページをめくる音。

パラ、パラ。

外で電車が走る。

ゴトン。

ゴトン。

恒一はペンを持つ。

ノートに書く。

**空気環境**

「換気回数……」

少し考える。

「六回?」

テキストを見る。

「……違う」

消しゴムで消す。

こすれる音。

恒一は笑う。

「受験生かよ」

---

次の日。

マンションのエントランス。

掃除をしていると、晴斗がやってくる。

ランドセルが揺れている。

「おじさん」

「ん?」

「何してるの」

「勉強」

晴斗は目を丸くする。

「勉強?」

「そう」

「なんの?」

恒一は答える。

「資格」

晴斗は首をかしげる。

「おじさん、学生?」

恒一は笑う。

「六十五歳の学生」

晴斗は笑う。

「変なの」

恒一も笑う。

---

夕方。

真由が帰ってくる。

「こんばんは」

「こんばんは」

真由が聞く。

「最近、机に向かってますよね」

恒一は頷く。

「資格」

「え?」

「ビル管理士」

真由は少し驚く。

「難しいやつじゃないですか」

恒一は肩をすくめる。

「らしい」

真由は笑う。

「すごいですね」

恒一は首を振る。

「まだ何もしてない」

真由は言う。

「でも」

「ん?」

「楽しそう」

恒一は少し止まる。

自分でも気づいていなかった。

楽しい。

確かにそうだった。

恒一は言う。

「……学べる今が」

少し笑う。

「楽しい」

真由も笑う。

「いいですね」

---

夜。

机の上のスタンドライト。

黄色い光。

テキスト。

ノート。

恒一はページをめくる。

**空気環境**

**給排水**

**清掃管理**

文字は多い。

だが、不思議と苦ではない。

会社では、数字ばかりだった。

売上。

利益。

前年比。

だが今は違う。

空気の流れ。

水の配管。

建物の仕組み。

世界が少し広がる。

恒一は呟く。

「……面白い」

窓の外で風が鳴る。

夜の空気が少し冷たい。

恒一はノートに書く。

**合格率 二割**

その横に書く。

**でも受ける**

ペンを置く。

ほうじ茶をすする。

香ばしい匂い。

胸が少し温かい。

恒一は窓を見る。

夜空。

街の灯り。

そして小さく言う。

「……まだ終わってないな」

六十五歳。

だが今、初めて。

何かを**目指している自分**がいた。

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