『65歳、延長雇用を終えた日、妻に離婚届を渡された ― 未婚男性の死亡中央値67.2歳から始まる、僕の再就職人生 ―』

かおるこ

文字の大きさ
17 / 22

第16話 67.2歳の手前で

しおりを挟む
第16話 67.2歳の手前で

病院の待合室は、白くて静かだった。

蛍光灯の光。
壁の時計が、カチ、カチと音を刻んでいる。

恒一は椅子に座り、両手を膝の上で握っていた。

指先が少し震えている。

「……落ち着け」

小さく呟く。

ポケットから診察券を出す。
プラスチックの角が冷たい。

受付の番号が電光掲示板に出る。

**「再検査 内科」**

恒一は天井を見る。

白い天井。
換気口の音。

ウィーン。

胸の奥がざわつく。

医師の言葉が頭の中で何度も繰り返される。

**「小さな異常があります」**

**「念のため検査を」**

**「場合によっては手術も」**

恒一は手を見つめる。

指が少し震えている。

「……やっぱり」

喉の奥が乾く。

「俺は67.2で終わるのか」

その数字は、ずっと頭の中にいた。

**未婚男性の死亡中央値 67.2歳**

あと二年。

いや、もっと早いかもしれない。

恒一は目を閉じる。

胸の鼓動が速い。

ドクン。

ドクン。

そのとき、ふと別の声が思い出される。

---

「おじさん!」

晴斗の声。

夕方の廊下。

ランドセルが揺れていた。

「これ」

晴斗が紙を差し出す。

「なに?」

「手紙」

恒一は笑う。

「なんで」

晴斗は照れくさそうに言う。

「宿題」

紙を開く。

子どもの字。

少し曲がっている。

**「おじさん 百歳まで生きて」**

恒一は吹き出した。

「無茶言うな」

晴斗は言う。

「だって」

「なんだ」

「卵焼き作れる人、いなくなると困る」

恒一は大笑いした。

---

待合室。

恒一は小さく笑う。

「百歳か」

隣の老人が不思議そうに見る。

恒一は咳払いする。

「……いや」

目を閉じる。

統計。

数字。

グラフ。

それと。

小学生の字。

どちらが本当だろう。

恒一は小さく呟く。

「……今は」

少し笑う。

「こっち信じたいな」

---

夜。

アパートの机。

スタンドライトの黄色い光。

ノートが開いている。

だが、そこにはもう数字は書かれていない。

**784日**

**783日**

そのページは閉じた。

代わりに新しいページ。

恒一はペンを持つ。

「……遺書」

小さく言う。

首を振る。

「違う」

ペンを走らせる。

**やりたいこと**

少し笑う。

「ガキみたいだな」

一つ書く。

**御宿の海を見る**

恒一は思い出す。

ハーレー。
海風。
波の音。

「もう一回行くか」

次。

**うまい鰻を食う**

恒一は笑う。

「高いけどな」

次。

**晴斗に卵焼きを教える**

ペンが止まる。

「それは」

少し笑う。

「簡単だな」

さらに書く。

**志保にもう一回謝る**

ペンが少し止まる。

「……これは難しい」

ノートを閉じる。

ほうじ茶をすする。

温かい。

香ばしい匂い。

恒一は窓を開ける。

夜風が入る。

遠くで電車が走る。

ゴトン。

ゴトン。

恒一は夜空を見る。

黒い空。

星は少ない。

だが、街の灯りが揺れている。

恒一は小さく言う。

「……俺」

胸に手を当てる。

鼓動がある。

ドクン。

ドクン。

恒一は続ける。

「まだ終わりたくないな」

その言葉は、初めてだった。

怖い。

でも。

生きたい。

それは、静かな執着だった。

恒一はノートをもう一度開く。

最後に書く。

**百歳まで生きる**

少し笑う。

「無茶だな」

でも。

その無茶が、少し嬉しかった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたが愛人を作るのなら

あんど もあ
ファンタジー
結婚して八年の夫が、愛人を作った。それも私の推しの女優を! 「君と違って彼女には才能がある」と言う。ならば、私も才能のある愛人を持つ事にいたしましょう。愛人の才能を花開かせる事が出来るのはどちら?

三年分の涙を飲み込んで離婚を決めた私に、今さら愛してると言わないでください

まさき
恋愛
「別れてください」 笑顔で、声を震わせずに、澄花はそう言った。 三年間、夫の隣に立ち続けた。残業続きの夫を待ち、不満を飲み込み、完璧な妻を演じた。幼なじみの麗奈が現れるまでは、それが愛だと信じていた。 嫉妬も、怒りも、とうに泣き尽くしていた。残ったのは、静かな決意だけだった。 離婚届を差し出した翌朝、夫・誠は初めて泣いた。 ――遅すぎる。三年分、遅すぎる。 幼なじみに夫を奪われかけた妻が、すべてを手放す覚悟をしたとき、夫はようやく目を覚ます。泣き終わった女の強さと、取り戻せないものの重さを描く、夫婦の崩壊と再生の物語。

あなたへの愛を捨てた日

柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。 しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。 レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。 「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」 エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。

愚か者たちの婚約破棄

あんど もあ
ファンタジー
ライラは、父と後妻と妹だけが家族のような侯爵家で居候のように生きてきた。そして、卒業パーティーでライラの婚約者までライラでは無く妹と婚約すると宣言する。侯爵家の本当の姿に気づいているのがライラだけだと知らずに……。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

旦那様は、幼馴染との真実の愛に目覚めたらしいです。

睡蓮
恋愛
ルーグ第一王子はナータリアとの婚約関係を築き、二人の関係は貴族会から非常に好印象であった。しかしある日、ルーグは自身の幼馴染であるリーフォとの真実の愛に目覚めたと言い始め、ナータリアの事を婚約破棄してしまう。ルーグとリーフォは互いに新たな婚約者としての関係を築こうとしか考えていなかったものの、次第にその関係は険しいものとなっていく。それは、ナータリアの事を婚約破棄したことにあるきっかけがあったからなのだが…。

勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。 いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。 ただし、後のことはどうなっても知りませんよ? * 他サイトでも投稿 * ショートショートです。あっさり終わります

報われない恋の行方〜いつかあなたは私だけを見てくれますか〜

矢野りと
恋愛
『少しだけ私に時間をくれないだろうか……』 彼はいつだって誠実な婚約者だった。 嘘はつかず私に自分の気持ちを打ち明け、学園にいる間だけ想い人のこともその目に映したいと告げた。 『想いを告げることはしない。ただ見ていたいんだ。どうか、許して欲しい』 『……分かりました、ロイド様』 私は彼に恋をしていた。だから、嫌われたくなくて……それを許した。 結婚後、彼は約束通りその瞳に私だけを映してくれ嬉しかった。彼は誠実な夫となり、私は幸せな妻になれた。 なのに、ある日――彼の瞳に映るのはまた二人になっていた……。 ※この作品の設定は架空のものです。 ※お話の内容があわないは時はそっと閉じてくださいませ。

処理中です...