『無料介護の終焉 ―凪に沈む嘘と、合法の報復―』

無料介護の終焉 ―凪に沈む嘘と、合法の報復―

匂いのない家で
わたしは息をしていた

消毒液と老いの気配は
肌に貼りついて離れないのに
この部屋だけが
なぜか空っぽだった

あなたはそこに
軽やかな香りを持ち帰る

春のようで
どこにも属さない匂い

それは
わたしの知らない時間でできていて
わたしの触れられない場所から来ていた

「ただいま」と言うあなたの声が
少しだけ軽い理由を
わたしはそのとき理解しなかった

――ある夜までは

言葉は光る画面の中にあった

整えられた文字
軽い絵文字
やさしい嘘

その奥に
ひとつだけ、重いものが沈んでいた

「無料の介護要員」

それは
音もなくわたしの中に落ちて
静かに広がる

痛みではない
衝撃でもない

ただ
位置が変わる

妻から
道具へ

名前から
機能へ

その瞬間
何かが壊れたのではなく

わたしの中に
別の構造が立ち上がる

泣いた夜は
確かにあった

声にならない言葉と
途切れる呼吸

けれど朝になれば
涙はただの水になる

残るのは
乾いた輪郭だけ

わたしは数える

日付
時間
回数
温度

忘れられたものを
ひとつも取りこぼさないように

あなたが軽く扱った時間を
重さに戻すために

それは復讐ではない

奪うことでもない

ただの、回収

使われたものが
あるべき場所へ戻るだけ

あの人はきっと
正しいと思っている

選ばれる側で
間違っていない恋をしていると

だから崩れる

嘘ではなく
信じている形から

整っているものほど
音もなく崩れる

気づいたときには
もう戻れない

わたしは見ている

何も壊さずに
何も叫ばずに

ただ
順番を整える

人がいなくなり
役割が終わり

残るのは紙と数字

冷たくて
揺るがないもの

「払えない」とあなたは言う

そうでしょうね

だからこれは罰じゃない

許しでもない

ただの、確認

あなたが使った時間の
形を確かめるだけ

すべてが終わったあと

わたしは海へ行く

風はやわらかく
波は静かで

あの日とは違う

沈むのは
わたしではない

嘘のほうだと知っているから

凪は音を持たない

けれど確かに
すべてを鎮める

わたしは立っている

もう、何も背負っていない場所で

そして、歩き出す

名前を取り戻したまま

誰のためでもなく

わたしのためだけの
静かな航海へ

24h.ポイント 1,492pt
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