ブリアール公爵家の第二夫人

大城いぬこ

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 エコーが庭へ繋がるガラス扉を開け、合図を送るように手を振っている。優しい風が頬を撫で髪を揺らし、部屋のなかへ入り込む。 

 シャンティ様とフランシス様の恋に胸を高鳴らせ、ディオルド様の言葉に説明のつかない感情が沸き上がり、高ぶる感情のままに口付けてしまった。 

 仕事が残っているディオルド様に申し訳なさと恥ずかしさが沸いて、テーブルに突っ伏してしまう。 

「ロシェル様」 

「…エコー」 

「あれは旦那様がいけません」 

「…でも…」 

 確かにディオルド様から触れてきたし、口づけもくれたわ。でもそれだけじゃ足りないと思って動いてしまったのは私よ。 

「若い二人の甘い雰囲気につられたの…ドキドキしてしまって…そこにディオルド様が来てくれて…嬉しくて…浮かれたのよ…駄目ね…いろいろ経験不足で…人の恋路にハラハラドキドキして…」 

 自分で言って恥ずかしさが増すばかりだわ…なんだか…落ち込むわ…ディオルド様…安全に戻ってきてください… 

「次は止めましょうか?」 

「ふふ、エコー…どうやって?」 

「お止めくださいと」 

「…邪魔をするなと文句を言うディオルド様が目に浮かぶわ」 

「ふ…はい」 

 私はこの瞬間、恥ずかしさも情けなさも忘れて顔を上げていた。近くに立つエコーを見てもいつもの無表情だった。 

「…今…笑ったの…?」 

「いいえ」 

 エコーの穏やかな返事に、なぜか答えは反対だと確信して頬が緩んだ。 

「ふふ、淑女として振る舞うよう心掛けるわ。明るいうちはディオルド様を惑わすようなことはしない」 

「そうしましょう」 

「エコー」 

「はい」 

「ファミナ…は…」 

 きっとエコーは詳しいことを知っている。そういうことにした…駆け落ちではなくディオルド様が動いた。ファミナは私を害するために動いたことは確かなのね。 

「…嫌われていたわ…憎まれていたわ…私も彼女を好きじゃなかった…き…嫌いだったわ」 

 毛布を被って、声を殺して泣いた夜は数えきれないほどあったわ。 

「でも…ファミナから憎しみ以外の感情を向けてほしかった…」 

 幼い私はそう望んでいた。 

「お父様は…」 

「関わっておりません。ですが悲しんではいません」 

 私の記憶の中の二人は普通に夫婦だったわ。お父様はファミナを気遣い、チュリナを大切にしていた。私を除いた三人の姿は美しい家族だった。 

「それでも妻よ…お父様は…本当に一人になってしまったのね」 

 チュリナがいるけれど、なぜかそう思った。 

「…ピアノを弾くわ」 

「はい」 

 エコーが椅子を引いてくれて私は立ち上がり、ブルーンのピアノへ向かう。

 艶やかで滑らかな黒光りする体に触れると冷たかった。 鍵盤蓋を開けて、一音鳴らせば風に乗って部屋の中を舞った。 

 忙しく働くディオルド様を想うと、見ていないのに火事の現場が頭に浮かんだ。その中で指示を出すたくましい人に微笑む。 

 私は椅子に座り、亡くなった人たちがつまずくことなく迷うことなく、神がいるという天へ行けますようにと思いながら鎮魂曲を弾く。 

 ジェイデン様、あなたに声をかけられたあの夜から私の人生は動き出し、たくさんの感情を知って成長したように思います。天があるならあってほしい。いつかあなたのもとへディオルド様と行きたい、そう願います。 




 全焼したといえ、太い柱が崩れず残る現場を片すために平民まで雇い働かせた。

 皆がすすに汚れ、俺も風に吹かれた煤で汚され、ロシェルに会う前に風呂に入った。 

「閣下…酷いっす」 

「それだけ汚れていたんだ」 

「湯に浸かる前にもっと洗って」 

「洗ってあれだった。しつこいぞ」 

「だって」 

 だってを止めろ…中年の男が… 

「ガガ、着替えて拭ったと言ってもお前はまだ汚い。その姿で邸の中を歩くな…もう下がっていい…やってこい」 

 結局そう言わせたいんだろう…この阿呆め…嬉しそうに目を輝かせるな… 

「じゃ、騎士棟の風呂に入ろーっと」 

 ガガはそう言って上っていた階段を駆け下りていった。 軽く息を吐き、視線を上げて再び上ると、鼻が匂いを拾った。 

「アプソ」 

 俺が名を呼べば、細い目をつり上げながら陰から飛び出した。 

「俺を驚かせて階段から落とそうと考えていたのか?」 

「なぜ…気配を消したのですが…」 

 気配も匂いも消せてなかったぞ…阿呆… 

「なんの用だ」 

「…ガガに足を引きずる男を探させていましたよね?」 

「ああ。貴族籍のやつはお前に任せたらしいな」 

 上階の廊下には夕食の匂いが漂っている。 

「…ロシェル様は旦那様をお待ちして召し上がっておりません」 

 そう言われると足も進む。 

「で?」 

「トールボットにいる犬が見かけたそうです」 

 俺はアプソの言葉に足を止める。振り返ると後ろを歩いていたアプソとぶつかった。 

「誰だ?」 

「ゲッティ子爵家の三男」 

 アプソは落ちかけた眼鏡を直しながら答えた。 

「…あの糞野郎か…」 

 モラン・ゲッティ…奴がなぜ…ゲッティ子爵家はトールボット家門ではないぞ… 

「はい。旦那様に恨みを持ち、足を引きずる男がトールボットに…臭いますよね?」 

「ああ…ぷんぷんな」 

「彼の所業は事実なのですか?」 

 俺は気配を探り、人の耳がないことを確認し頷く。 

「母親…少女たちを犯し…殺した…それを子供らに見せた…」 

 捕虜として捕らえていた女らを貴族の種で孕んでみろと犯していた。それ自体はよくある話で終わるが、相手は北辺境に住み着いた蛮族の女たちだった。夫を殺され、子供を殺された苛烈な蛮族の女たちがただ泣き諦めるわけがなかった。 

 俺は結束力の強い獰猛な蛮族の捕虜に手を出すなと命じた。奴らの性質を理解している共に戦った騎士なら従うと思っていたが、馬鹿はいた。 

「ですが蛮族のほうも村を襲い、村人を殺し、女性を犯して従属させていました」 

「ああ…それが奴らの生き方だからな。ならば蛮族の真似をしていいのか?それは違うだろ」 

「そうですが、利己的に見えます」 

「そうだな。だが、奴らの頭は異常だったんだ」 

 強い男を喰らうことでより強くなると思い込むような奴らだぞ。 

「そんな仲間を見ていた蛮族の女子供が」

「そうだ。決起しようとした。幼子まで言い含めてな」 

 はじめにそれに気づいたのがダートだった。 

「体を使い、騎士らを誘惑し始めた…子供らは無邪気を装い…懐いた真似までした」 

 隙を作り、一矢報いようと画策した。 

「…旦那様はそれを」 

「もう…奴らの意識は復讐で染まっていた」 

 俺はアプソに背を向け、いい匂いのするほうへ歩を進める。 

 もともと解放は選択肢になかった。女子供に罪はないと言えないほど、奴らは人を殺していた。ただ方々に散らし、労役を科せるかと検討中だった。そんな時にモラン・ゲッティの蛮行だ。 

 ダートに様子を探るよう命じ、その報告を聞いて決断した。奴らが決起したとて、騎士の剣で貫かれるか、騒ぎに乗じて逃げ出すか。子供の無惨な死体は騎士たちには酷だ。

 俺はダートに毒を用意するよう指示を出した。 

 女子供の亡骸のなか、生き残った乳飲み子らを拾い集めたあの瞬間は、長い間、記憶に残り悪夢となって俺に付きまとった。 

「旦那様」 

「ああ」 

 俺はなぜか扉を開けられなかった。この扉を前に立ち尽くしていた。 

「開けます」 

 アプソが開いた扉の先には銀色の髪を輝かせ、水色の瞳を向ける愛しい女が俺の姿に喜び微笑む顔は暗闇に落とされかけていた心を照らした。

 冷えきった心臓に血が巡り激しく高鳴り、俺は駆けていた。 

 ロシェル、俺にはお前が不可欠だ。生きているうちは全てを俺にくれ。死後の世界があるなら俺はお前と別れねばならん。






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