ブリアール公爵家の第二夫人

大城いぬこ

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宵の天使

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「一夫一妻…素敵ですわぁ」 

 アリステリア様の小さな呟きが聞こえた。 

「パルース教主様もただ一人の妻を?」 

「もちろん。一人目は出産時に天に召されましたが。その後、運命的な出会いを果たし再び愛する人を伴侶にする幸運を持てました。神の御業と感謝の祈りを捧げました」 

「運命…とても素敵だわ」 

 運命的…一体どんな出会い方をしたのかしら?女性が好みそうな話題だわ。 

「ロシェル夫人」 

 突然声をかけられて口の中のものをゆっくりと飲み込み、視線を向ける。青緑の瞳が緩く弧を描いて私を見ていた。 

「はい」 

「ロシェル夫人の演奏は素晴らしいと旅路の間、耳にしました」 

「ありがとうございます」 

「グラン教国は音楽には強い関心を持っています。教会で弾かれる鎮魂曲の数は数十曲あり、ご家族が選び神の信徒が奏でる。神の学校の授業のなかにはピアノがあるくらいです。騎士も弾けるのですよ」 

 パルース教主は視線を壁際に立つ騎士に向けた。彼らはずっと同じ微笑みを保ち、ピクリとも動いていない。 

「騎士様たちも弾けるのですね。ベルザイオ王国はどうでしょう?」 

 私が隣に座るディオルド様に尋ねると、顔を振った。 

「ふふ、一人くらいはいるかもしれませんわ」 

「…俺は聞いたことがないぞ」 

「では今度尋ねてみてください」 

 ベルザイオ王国の貴族男性が嗜みとして楽器を習うことはある。 

「わかった、聞いてみよう。ゼノ、弾けるか?」 

「申し訳ございません」 

「ほらな」 

 私は今度と言ったのに、ディオルド様はこの場で尋ね、得意気に私を見た。 

「ふふ、ゼノ様一人だけです」 

 あ…様を…ゼノと呼び捨てにしなければならなかったのに… 

「…仲睦まじいのですね」 

 パルース教主の言葉にディオルド様はそうだと応えた。 

「ロシェル夫人の演奏を聞かせていただけませんか?」 

 この要望は想定内だったから私ははいと答えた。 

「ご期待に添えないかもしれませんけれど」 

 演奏を褒められるけれど、ただ好きだから弾いているだけ。 食事を終え、



 パルースを伴い歓談室へ向かった。

 この部屋にはゆったりと座れるソファが所々にあり、部屋の端の棚の上には酒や果実水が数種類、葉巻を好む者に対応できるよう他国の品も揃えて置いてある。 

 ブルーンのものには劣るがそれなりのピアノが存在を主張するように置かれている。 

「ふふ、なにを弾きましょう?」 

 俺を見上げながら尋ねる水色は少し頬を染めている。食事に出たワインを一杯飲んだせいだが、俺の予想より早く飲みきり、気に入ったのだなと頬が緩みそうになるのを力んで耐えた。ロシェルとの生活は俺の顔をだらしなくさせている。 

「ベルザイオ王国には鎮魂曲が一曲だ。それを弾いたらどうだ?」 

「わかりました」 

「長いから一節でいいだろう」 

「はい」 

 ロシェルと共にピアノへ近づき、エコーが椅子の高さを調整している姿を確認しながら他のやつらに意識を向ける。 

 アリステリアはパルースの腕に手を添えここまで来た。今はジェレマイアがそれとなく引き離し、パルースから遠ざけている。 

 ロシェルが座り、鍵盤蓋を開けるのを見ながらパルースの近くのソファに腰を下ろす。 

「飲むか?」 

 スタンがサイドテーブルに高級な酒を並べた。 

「オルダージ」 

 その中でも一番高級で年に数本しか手に入らないブランデーを注ぐよう指を振る。 

「…酒は禁止されていないだろう?」 

 俺はロシェルを見つめながらパルースに尋ねる。こいつの視線は感じているが合わせたいとも思わん。 

「では…私も同じものを」 

「後ろに立たず座ればいい」 

 ジュードと呼ばれた壮年の男はパルースの後ろに立ったまま座ろうとしなかった。 

「彼のことは気になさらず」 

 この歓談室に、教国の騎士とブリアールの騎士は入れていない。お互いを信頼していると行動で示しているが、側近の男はすぐに対処できるようにか座らないらしい。 

 ロシェルの音が始まり、滑らかに動く細い腕を見つめる。 

「…ほぉ…これは…」 

 パルースは感嘆の声を発し、身を乗り出した。 

「夫人は聞いただけでここまで弾けるとは…聞いたときは信じられない思いがしましたが…ふむ…」 

 すごいだろう?素晴らしいだろう?美しいだろう?と言ってやりたいが、大人げないので止めておく。 

 鎮魂曲が一節終わり、ロシェルは宵の天使を弾き始めた。 

 この曲を聞くと、母のことが少しだけだが浮かんでくる時がある。思い出してもなにも感じない母だが、ロシェルの演奏を聞いていると些末な過去だと思える。昔感じた複雑ななにかを美しい音色が超えていた。ただ単純にいい曲だと、母もよく弾いていたなと思うだけになった。 

 グラン教国の使節団は明日から首都を旅立ち、ベルザイオ王国の南にある教会に立ち寄りながら帰路につくと大方の予定は聞いていた。 

 俺は曲を聴きながらパルースに視線を向ける。 青緑の瞳は常に微笑んでいたが、今は真剣な眼差しで俺を見ていた。 

「どうかしたか?」 

 アリステリアのことをここで聞くのかと思うほどパルースの表情は固いものだった。 

「…この曲は…この曲を作った者は…?」 

「…わからん」 

 俺の勘が余計なことを口にするなと伝えている。 

「わからない…?」 

「楽譜に名がなかった」 

「そんなものがブリアール公爵邸に…?」 

 あの男が作曲したものをこんなにも気にする理由はなんだ?あの男におかしな経歴はなかったはずだ。 

「なるほど…これも神の御業…」 

 パルースは納得したように側近に顔を傾け、軽く頷いた。 

「なにを言っている?」 

「この曲の名はなんでしょう?」 

「…宵の天使だ」 

 パルースは目蓋を下ろし、静かに息を吐いてからソファの肘掛けに腕を乗せ、姿勢を崩した。 

「この曲は…グラン教国…いや…かつてグランルーツ王国だった頃…北…北端の村で受け継がれていた歌に似ているのです」 

 俺はパルースの言葉に若干鳥肌が立った。そして、母と共にボートに乗り、母と共に湖に沈んでいる男の顔が頭に浮かんだ。 

 なぜ俺は宵の天使があの男の曲だと知ったか…母がよく弾いていたからだ…母があの男の作った曲と口にしたことがあったからだ。 

「…流れ者が…楽譜に残したのかもな」 

 あの男は父上を裏切らせるほど顔が整っているわけではなかった。口達者にも見えなかった。今まであの男のどこに惹かれたのか考えたこともなかったが、パルースの言葉が正しければ、あの男の家系がグランルーツからベルザイオに渡ったのなら…それを母に伝えたなら…親近感を覚え…それが始まりだったのかもしれん。 

「国を一つ挟んだ両国…思いがけないもので繋がりを見いだしました…私が…導かれたと思う瞬間です」 

「似ているだけかもしれんがな」 

「いいえ…手を加えていますが…同じ曲です」 

「そうか」

 俺は琥珀色の液体を口に含みゆっくりと味わう。この高級な酒をロシェルから口移しで飲ませてほしいと妄想していた時、パルースが一段と小さな声で俺の名を呼んだ。 

「アリステリア様の嫁ぎ先は決めていないようですね」 

「よく知っているな」 

「コモンドール公爵令息は配下家門から優秀な令嬢を選別しているとカサンドラ夫人から聞きました。その会話の流れでアリステリア様のことを」 

「なるほど」 

「めぼしい家門はあるのですか?」 

「…我が家はすでに有力家と強い繋がりを持っている…娘の縁談に拘る必要がなくてな…急いでいない」 

「ブリアール公爵」 

「なんだ」 

「グラン教国、次期教主の妻の座をアリステリア様に」 

 グラスを置き、宵の天使を弾き終わり俺を見つめる水色の瞳に軽く頷く。 

「来い」 

 手を伸ばせば、静かに椅子から立ち上がり向かってくるロシェルを見つめる。さっきまで美しい音色を聞かせてくれた指先が俺の指に触れる。俺を見下ろす水色の瞳と視線を合わせたまま、指を絡める。 

「…いい…音色だった」 

「ふふ」 

 望まぬ結婚、見知らぬ土地、離れた家族の無惨な死と過去への郷愁…不満を抱えたまま生きた母は同郷だった男に惹かれたのかもな。それが真実か確かめる術はもうない。真実は冷たい湖の底だ。永遠に知ることはない。知りたいとも思わん。






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