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第一章
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不満が……あったわけじゃない。
待遇が悪くなったわけでも、酷い仕打ちを受けたわけでもなかった。
ただ、ふとした時に感じる物悲しさ。それが、どうしようもなく耐え難い時がある。イルティアは、わずかに視線を下げた。
「……」
ふいに、邸の庭園で足を止める。目に留まったのは、赤いユリリアスの花だった。幼い頃、彼と摘んだ花。あの頃は、こんな未来が来るなんて、彼女は欠片も思っていなかった。
そっと瞳を閉じれば、鮮明に浮かぶ記憶。それはもう、見ることの出来ない、思い出だった。
― ザフラ! ―
イルティアが呼ぶと、彼はいつも嬉しそうにしていた。耳までの黒髪を揺らし、そのクリッとした栗色の瞳を細めて微笑む。
そして彼も、同じように彼女を呼ぶのだ。優しい声で、イルティア、と。
ザフラ・シュヴァーユ──イルティアと家が近く、同じ公爵家の子息だった。それ故、二人の距離も自然と近くなっていった。
ザフラは幼い頃、可愛らしい容姿をしていた。周りが女の子だと思っても、おかしくないほどに。ただその顔と、丸眼鏡のせいで、いつも気弱な様子が目立っていた。だから、周りからの評判があまり良くなかったのも、イルティアは知っていた。
だがそれでも、彼女は構わなかった。
彼の良いところは、自分だけが知ってればいい。そう、思っていたから。
そう思ったのは──彼を、愛していたから。
― ねえ、ザフラ。お父様から聞いたの。ザフラが今やってるお勉強はスゴく難しいって ―
― うん。だけど、家の為だから ―
― なら、私も一緒にやっちゃダメかな? 一人より二人の方がきっと楽しいよ? ―
そう言った時、ザフラは驚いた顔をしていた。でもすぐに、瞳を輝かせて言ったのだ。
― うん! イルティアと一緒なら心強いよ ―
その笑顔が嬉しくて、もっと見せて欲しくて、イルティアも一生懸命頑張った。
もともと貴族の令嬢として育てられた彼女は、あまり経営に関する知識を持っていなかった。礼儀作法や絵画、音楽などの淑女のたしなみとされる分野しか、学ぶ機会がなかったのだ。
だから、知識の半分は独学で、あとの半分はザフラと共に学んだ。
そうしてようやく、彼の隣にいることが、出来たはずなのに……。
開けた瞳に映るのは、悲しく揺れるユリリアスの花。人の気配など、今は使用人ぐらいしかなかった。
最も側に居て欲しい彼は、遠くの領地に出ている。帰りは恐らく、十日は掛かるだろう。
それまでの間、当主代理としてイルティアは独り、この家を守らなきゃいけない。それが辛くはないけれど、ひどく寂しく感じていた。
* * *
「新しい商人?」
「ええ、素敵な装身具を扱ってるそうですわ。貴重な宝石を、斬新なデザインで加工してるとか。最近は特に、王都で名を聞きますわね」
イルティアの自室。ドレッサーを前にして座る彼女の髪を、侍女の一人が櫛で梳き、もう一人が化粧道具を仕舞いながら、話を引継いだ。
「その方が、ぜひ奥様にお目通りを、と仰ってますの。如何なさいます?」
「そうね。宝飾品は、決まったところがあるし……」
「お断りするようであれば、執事長へその旨をお伝え致しますが」
「あ、でも。ちょっと待って」
少し考えて、イルティアは侍女の顔を見た。
「斬新なデザインをしてるのよね?」
「そのように聞いております」
「なら、一度お会いするわ。その時に、王都で流行ってるものを、何点かお持ちいただくよう伝えてくれる?」
「かしこまりました」
頭を下げて、侍女の一人が道具を持って部屋を出ていく。他の者も、イルティアの身仕度が終わり次第、皆出ていった。
「…………」
まだ陽の上りきっていない空。窓際に向かった彼女は一人、外へ視線を向ける。そっと頬に手を添え、直前の話を思い返す。
「新しい商人、ね」
王都で名が売れてるというなら、それなりの繋がりも持っているはず。でなければ、あの地で成功を収めることなど難しいだろう。
だが逆に、その者と交流を図ることが出来れば、情勢を知るにも最適だと考えた。
シュヴァーユ家は、大きくとも国の外れの領地が主だ。故に、国の中心である王都の情報には、どうしても疎くなってしまう。
それが解消されるのであれば、多少の不利益が生じたとしても利用価値は十分にあると思えた。
それに、斬新なデザインなら、それを身に付けるだけで話題性も出てくる。社交界で、いろいろな話を引き出すにもきっと使えるかもしれない。
今後の為にも、やはり会うべきだ。と、彼女はそう結論付けた。
この家も、いずれ領地拡大を目指すかもしれない。その時、ザフラの役に、少しでも立てるよう有利な情報を集めたいのだ。
彼女は無意識に、妻なのだからと、言い聞かせながら。
待遇が悪くなったわけでも、酷い仕打ちを受けたわけでもなかった。
ただ、ふとした時に感じる物悲しさ。それが、どうしようもなく耐え難い時がある。イルティアは、わずかに視線を下げた。
「……」
ふいに、邸の庭園で足を止める。目に留まったのは、赤いユリリアスの花だった。幼い頃、彼と摘んだ花。あの頃は、こんな未来が来るなんて、彼女は欠片も思っていなかった。
そっと瞳を閉じれば、鮮明に浮かぶ記憶。それはもう、見ることの出来ない、思い出だった。
― ザフラ! ―
イルティアが呼ぶと、彼はいつも嬉しそうにしていた。耳までの黒髪を揺らし、そのクリッとした栗色の瞳を細めて微笑む。
そして彼も、同じように彼女を呼ぶのだ。優しい声で、イルティア、と。
ザフラ・シュヴァーユ──イルティアと家が近く、同じ公爵家の子息だった。それ故、二人の距離も自然と近くなっていった。
ザフラは幼い頃、可愛らしい容姿をしていた。周りが女の子だと思っても、おかしくないほどに。ただその顔と、丸眼鏡のせいで、いつも気弱な様子が目立っていた。だから、周りからの評判があまり良くなかったのも、イルティアは知っていた。
だがそれでも、彼女は構わなかった。
彼の良いところは、自分だけが知ってればいい。そう、思っていたから。
そう思ったのは──彼を、愛していたから。
― ねえ、ザフラ。お父様から聞いたの。ザフラが今やってるお勉強はスゴく難しいって ―
― うん。だけど、家の為だから ―
― なら、私も一緒にやっちゃダメかな? 一人より二人の方がきっと楽しいよ? ―
そう言った時、ザフラは驚いた顔をしていた。でもすぐに、瞳を輝かせて言ったのだ。
― うん! イルティアと一緒なら心強いよ ―
その笑顔が嬉しくて、もっと見せて欲しくて、イルティアも一生懸命頑張った。
もともと貴族の令嬢として育てられた彼女は、あまり経営に関する知識を持っていなかった。礼儀作法や絵画、音楽などの淑女のたしなみとされる分野しか、学ぶ機会がなかったのだ。
だから、知識の半分は独学で、あとの半分はザフラと共に学んだ。
そうしてようやく、彼の隣にいることが、出来たはずなのに……。
開けた瞳に映るのは、悲しく揺れるユリリアスの花。人の気配など、今は使用人ぐらいしかなかった。
最も側に居て欲しい彼は、遠くの領地に出ている。帰りは恐らく、十日は掛かるだろう。
それまでの間、当主代理としてイルティアは独り、この家を守らなきゃいけない。それが辛くはないけれど、ひどく寂しく感じていた。
* * *
「新しい商人?」
「ええ、素敵な装身具を扱ってるそうですわ。貴重な宝石を、斬新なデザインで加工してるとか。最近は特に、王都で名を聞きますわね」
イルティアの自室。ドレッサーを前にして座る彼女の髪を、侍女の一人が櫛で梳き、もう一人が化粧道具を仕舞いながら、話を引継いだ。
「その方が、ぜひ奥様にお目通りを、と仰ってますの。如何なさいます?」
「そうね。宝飾品は、決まったところがあるし……」
「お断りするようであれば、執事長へその旨をお伝え致しますが」
「あ、でも。ちょっと待って」
少し考えて、イルティアは侍女の顔を見た。
「斬新なデザインをしてるのよね?」
「そのように聞いております」
「なら、一度お会いするわ。その時に、王都で流行ってるものを、何点かお持ちいただくよう伝えてくれる?」
「かしこまりました」
頭を下げて、侍女の一人が道具を持って部屋を出ていく。他の者も、イルティアの身仕度が終わり次第、皆出ていった。
「…………」
まだ陽の上りきっていない空。窓際に向かった彼女は一人、外へ視線を向ける。そっと頬に手を添え、直前の話を思い返す。
「新しい商人、ね」
王都で名が売れてるというなら、それなりの繋がりも持っているはず。でなければ、あの地で成功を収めることなど難しいだろう。
だが逆に、その者と交流を図ることが出来れば、情勢を知るにも最適だと考えた。
シュヴァーユ家は、大きくとも国の外れの領地が主だ。故に、国の中心である王都の情報には、どうしても疎くなってしまう。
それが解消されるのであれば、多少の不利益が生じたとしても利用価値は十分にあると思えた。
それに、斬新なデザインなら、それを身に付けるだけで話題性も出てくる。社交界で、いろいろな話を引き出すにもきっと使えるかもしれない。
今後の為にも、やはり会うべきだ。と、彼女はそう結論付けた。
この家も、いずれ領地拡大を目指すかもしれない。その時、ザフラの役に、少しでも立てるよう有利な情報を集めたいのだ。
彼女は無意識に、妻なのだからと、言い聞かせながら。
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