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第三章
幸福の会①
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警察の特殊影動課に入って一か月以上が過ぎた。
やめようか、もう少し続けてみようかとウダウダしているうちに、大きな任務に就くはめになった。
見慣れない天井を見上げて、黒須は大きな溜息を吐く。
「そんなおっきな溜息吐いとったら、幸福が逃げてしまうで、黒助」
左隣の布団の上で胡坐をかいて伸びをしていた忍がにやりと笑う。
黒助って誰だよと言いかけた口を噤んだ。右隣で布団を畳んでいる那白が呆れた顔をしている。
「クロ、桃源(とうげん)様に叱られちゃうぜ。幸福は笑顔からってね」
今の俺は黒田黒助で従順な幸福の会の信者だ。
朝起きるたびに不確かになる現在の自分を見直すのが習慣となってしまった。
偽名に慣れ、コロニーでの生活に馴染んでいる那白と忍が羨ましい。
粗末なプレハブ造りのワンルームに差し込む日差しは容赦がない。
六月に入ったのに雨はあまり降らず、夏のようなぎらついた光が小窓から照りつけている。
七月下旬まで空調をつけずに過ごすという規則はなかなかハードだ。
断熱性のない壁に囲まれた小窓しかない部屋は朝だというのに蒸し暑い。
「黒さん、白くん、忍さん。おはようございます」
信者に支給される浅黄色の作務衣を纏った若い女が布団を押し入れに片付けながら、にこやかに笑む。
彼女の名は岬。
二年前、二十三歳の時にブラック企業で働いていて心身を壊して退職し、救いを求めて幸福の会に入会したそうだ。
奥多摩の山奥にある幸福の会の本部は一つの大きな村のようになっている。
広大な山の敷地の中心には聖堂や道場がある幸福の会の心臓部に当たるコアと呼ばれる建物があり、コアのすぐ隣には教祖の桃源一家が暮らす一軒家がある。
コアの北は信者が働く工場区域、南には幹部が暮らすマンション風の三階建ての建物、東には牧場や畑、そして西はコロニーと呼ばれる信者の居住区となっているのだ。
コロニーにはトイレも風呂もないワンルームのプレハブ小屋が無数に点在し、男女混合の五人一組で信者が寝食を共にしている。
黒須は那白と忍、黒須と同い年の独身女性の岬、四十五歳で小学六年生の子持ちの佐々木と同室だ。
部屋割りは社会生活を営んでいる者とここで働いている者はわけられており、部屋割りが行動班となっている。
女と同じ部屋で寝起きするなんていつぶりだろう。
記憶を遡って虚しくなる。
黒須は伸びをすると布団を押し入れに運んだ。
視界の端で佐々木が寝巻用の灰色のスウェットから普段着の浅黄の作務衣に着替えている。
くたびれた皮膚の一部みたいな肌色のブラジャーがちらりと見えた。
脂肪がついて皮膚がたるんだ中年女の肉体に欲情したりしないが、いろんな意味で目に毒だ。
さりげなく目を逸らそうとしたが失敗した。佐々木と目が合う。咄嗟に謝罪すると、佐々木がおおらかな笑みを浮かべた。
「いいのよぉ、ここではみんな家族だから裸を見られても気にしないわ。
若い男の子に見られてドキドキしちゃうけどね。
こんなおばさんでよければいつでも相手するわ。仲間同士愛を育むのはいいことよ」
茶目っ気たっぷりに笑う佐々木に返す言葉がなく、黒須は眼を白黒させながらも、なんとか曖昧な笑みでごまかす。
那白が忍び笑いをしているのが癪に障った。
幸福の会は東京を中心に二千人近い信者がいるらしい。
普通に生活しながら、週に何度かこの奥多摩の本部を訪れて説法を聞いて修行に励む信者もいれば、コロニーから学校や会社に通う信者もいる。
コロニーで暮らしていない信者でさえ月額一万円と、説法や修行の度に任意で三千円以上のお布施を払っている。
コロニーで暮らす信者に至っては稼いだお金を十万近く幸福の会に寄付しているらしい。
信者の中には普通の社会生活から完全に離れ、コロニーに住み本部にある畑や工場で働いている者もいる。
衣食住が無償で提供されるかわりに、ろくな休日も与えられずに無賃労働をしている。
黒須達の現在のポジションがそうだ。
ブラック企業も真っ青の低待遇だが、不満を漏らす者は一人もいない。
「さあさ、朝食前の瞑想をするわよ。黒助君、早く着替えちゃって」
「あ、はい。すんませんけど、むこう向いてもらっていいですか?」
「はいはい、いいわよ。新入り君は恥ずかしがり屋だこと」
佐々木がマダムめいた気取った笑い声をあげて黒須に背を向ける。岬もすぐに壁の方を向いてくれた。黒須は素早く着替えを済ませる。
お揃いの作務衣に着替えると、全員が床に胡坐をかいて十五分の瞑想を行う。
黒須は三分も経たないうちに目を開けた。
那白と忍もすでに目を開けている。はなから瞑想などする気がないようだ。
それに引き換え、岬も佐々木も熱心に瞑想している。
朝は六時に起床して十五分瞑想。それからコロニーにある配膳室で配布される朝食を受け取って朝ご飯。
食事内容は塩むすび一つ、ゆで卵、みそ汁と簡素だ。
時々、バナナやヨーグルトがつき、みそ汁の具が多少違うが毎朝ほぼ同じメニューだ。
朝食を終えると奉仕作業という名の無賃労働をはじめる。
昼食後は一時間の修行をして休憩を挟んでまた労働。夕方六時からは教祖や幹部の説法を聞き、夕食を食べて自主鍛錬や読書をして十一時には就寝。
強制的に住居の電気が消える。軍隊顔負けのストイックな生活だ。
部屋にあるのはちゃぶ台と煎餅のような座布団、寝具と幸福の会の教本のみ。テレビやパソコンはない。
携帯電話は本部の敷地に入る時に通った検問兼見張り小屋で没収されると事前に情報を得ていたので、はなから持ってきていない。運よく持ち込めたとしてもこの山奥じゃ、電波が通じるか微妙だ。
コロニーで提供される食事は簡素で変わり映えせず、食の楽しみもない。
下手すると囚人よりも制限された生活を強いられているというのに、コロニーに住む信者は誰一人としてそのことに不満を抱かず、感謝の気持ちさえ抱いている。
まったく、気味の悪い場所だ。潜入して五日しか経っていないのに既に挫けそうだ。
朝食を終えて五人揃って小屋を出ると、他のプレハブ小屋からもぞろぞろと信者が出てきた。
コロニーの小屋は三十個以上あり、ここで暮らしている者の数は二百人近い。
その七割近くが社会に拠り所がなく、完全に幸福の会の本部の中だけで暮らしている。
コロニーでの暮らしは団体行動を重んじる。同室の五人は殆どの時間を共に過ごす。
五人揃って工場のある北部に向かって草原を歩いていると、岬が話しかけてきた。
「私たちの班は今日から暫く工場勤務です。黒さんは工場勤務は初めてですよね?」
「あ、はい。工場勤務って何をするんですか?」
「いろいろありますよ」
岬が意味ありげに笑った。
麻薬や武器の生成だったらどうしよう。
思わず不安を露にすると、今日の労働内容は封筒や商品へのシール貼りだと、佐々木が笑いながら教えてくれた。意外にも普通の仕事だとほっとする。
北の工場区域に来たのは初めてだ。
草を刈った砂地の地面に居住区の五倍くらいの大きさのプレハブが五つ並んでいる。
そのうちの一つに入った途端、黒須はがっかりした。
そこは工場とは名ばかりの、長机をくっつけただけの作業台と粗末な簡易椅子があり、荷物が入った大量の段ボール箱が置いてあるだけの場所だった。
すごい設備があり、幸福の会が怪しげな化粧品や食品などの商品を作っているのだろうと想像していたが、実際は内職の仕事を大量に受注しているだけのようだ。
「席について、みなさん速やかに作業を始めてください」
真っ白の袈裟風の服をまとった幹部の男が手を叩き、信者の作業を促す。
黒須はパッケージに品質表示のシールを貼りつつ、密かに男を観察した。
黒髪のオールバックに銀色の細いフレームの眼鏡。怜悧な顔の彼は副教祖の十塚(とつか)だ。
那白と忍と三人で渋谷の駅前にひっそりとある幸福の会の支部の戸を叩いた日、その場で入会が決まって、速攻この本部に連れてこられた。その時、聖堂での儀式の際に彼を見ている。
いや、それ以前に彼をどこかで見ていないだろうか。彼の顔には既視感がある。
しかし、何も思い出せない。
幹部は楽でいいよな、偉そうに俺達信者を見張っているだけでいいんだから。
単調で肩の凝るシール貼りをこなしている信者を尻目に、本を片手にのんびりとソファに座る十塚に腹がたった。
幹部の扱いは別格だ。信者を見張る、説法を解く以外に特にやることはないのに、信者のプレハブ住宅とは比べ物にならないちゃんとした建物に住んでいる。
幹部が暮らす建物の中に入ったことはないが、信者に質素で反文化的な生活を強いているのに反して、彼らは遊興と贅沢に塗れた生活を営んでいるに違いない。
信者が荒れてかさついた肌をしているのに対して、彼の頬の血色がいいのが証拠だ。
社会から離れても格差は付き纏うのか。ウンザリする。
「何か疑問があるのか?」
視線に気づいた十塚が、愛想のない淡々とした声で黒須に尋ねた。
黒須が慌てて首を横に振ると、十塚すぐ興味なさげに視線を本に戻した。目をつけられずに済んで、ホッとする。
右隣に座っている那白が足を蹴飛ばしてきた。
声をあげそうになったが、左隣の忍に口を押えられて叫ばずに済んだ。
迂闊にジロジロ見んなよ、作戦が台無しになるだろ。那白の猫目がそう語っていた。
だからって蹴りをいれなくてもいいだろうと思ったが、自分が悪いので黙っていた。
今まで警察がまったくマークしていなかった幸福の会に潜入捜査を行うことになったのは、二週間ほど前に那白の弟の月尋が幸福の会の幹部の仙堂に目を付けられて、殺されそうになったことがきっかけだ。
仙堂は和乃のペットのワシミミズク、風魔の追跡が功を奏して、トカゲ一の武闘派の忍の手で無事に逮捕された。
仙堂の少し前に窃盗犯として逮捕されたコパンこと、石川が刑務所内で突然心臓発作を起こして死んでしまい、幸福の会の情報を聞き出せなかったので、仙堂を逮捕することができてよかった。
危険を伴う潜入調査には少しでも情報が必要だ。
仙堂の罪は重い。彼がアップした自殺動画六件への関与が判明している上に余罪がある可能性が高い。
仙堂はマインドコントロールの達人であり、その能力で幸福の会の幹部の地位を得ると共に、悩みを抱えた人の心の隙間に入り込み自らの欲望を満たしていた。
仙堂は彼らを操って一人で自分の元を訪ねてくるように仕向け、ドラマチックな自殺ショーに仕立てて彼らを自殺に至らしめていたのだ。
死刑確定の彼だが、幸福の会の情報を暴露するのと引き換えに、恩赦なしの無期懲役刑に引き下げられることになった。
死刑を免れるために、仙堂は幸福の会に関する多くの情報を吐いた。
沢山の人間を手にかけておいて彼の命が助かることは腑に落ちないが、一生償いに生きる方がある種。
重罰かもしれない。
仙堂はあくまで幸福の会は腹を探られても痛くないと主張しており、彼が吐くのは教団の構成員や所在地ばかりだったけれど、那白が特殊影動課をあげて、幸福の会の調査に乗り出すべきだと息まいた。
それに同調した警視正の和乃が渋る警視庁を説得して、黒須、那白、忍の三人が奥多摩の山奥にある幸福の会の本部に潜入することになったというわけだ。
三十年以上前に発足し、自分が生まれた頃にサリンによる無差別殺人事件を起こしたとある宗教団体の話をテレビで何度か見たことがある。
自分にはまったく関係ない遠い話だと思っていた。
それがまさか怪しい宗教団体に潜入することになるとは。
黒須は黒田黒助(くろだくろすけ)、那白は和乃雪白(わのゆきしろ)、忍は松井忍と名前を偽って五日前にこの本部に潜入した。
敢えて三人一緒に渋谷にある幸福の会の支部の一つに入団志望者として訪れた。
知り合いじゃないふりをしてボロを出すよりも、知り合いとして潜入した方がいいと判断したのは那白だ。
潜入調査は一人ずつこっそりと行うのが定石で、敵も警察がまさかそろって潜入してくると思わないだろうから、裏をかけるというメリットもある。
デメリットは一人がボロを出したら、残りの二人も巻き添えになりかねないという点だ。
つまり、まだ新人の自分が下手を踏めば、ベテランの那白と忍まで失敗に追い込んでしまうわけだ。
半端じゃないプレッシャーに、黒須は内心気が気じゃない。
入会希望であることを伝えると、その場で入会希望用紙に記入させられて拇印を押すことになった。
捺印済みの用紙に加えて、免許証や学生証のコピーをとられた。
あらかじめ仙堂から入会の手順を聞いており、偽装の運転免許証と学生証を用意してあったので問題なく入会が認められたが、身分証明が必要という厳重さに疑問を覚えた。
書類が受理されて簡単な面談を終えるなり、三人揃ってこの奥多摩の幸福の会本部に連れてこられた。
教祖や幹部が生活をしている本部の中心部にある聖堂と呼ばれる場所で、黒須達はそろって、教祖の桃源から洗礼を受けた。
桃源は四十代後半の長い髪の弥生顔の男で、黄金色の袈裟を身に着けていた。
洗礼の儀式は極めて不気味なもので、照明を落としたなか、煌々と燃える蝋燭の明かりを手に、黒須と那白と忍は一人ずつ教祖の傍に歩み寄った。
教祖の右隣には黒髪のオールバックに銀色の細いフレームの眼鏡の副教祖の十塚、左隣には十塚の側近の赤みがかった短髪が特徴の穂村(ほむら)の姿があった。
黒須達は教祖の前で一人ずつ名前と生年月日を名乗り、自分が恐怖を感じるものを答えた。
そして恐怖を克服して新たな自分を見つけるための修行に励むことを宣言して、手に持った蝋燭を吹き消す。
三人がその行程を終えると、教祖が呪文のような意味不明な言葉を唱えた。
同時に三人が手に持っていた蝋燭に勝手に再び火が灯った。これこそが桃源教祖が起こす奇跡の一つだそうだ。
どうせトリックだろうと思うが、蝋燭に仕掛けがあった様子はない。どうやって桃源が蝋燭に再び火をともしたのか、黒須はいまのところさっぱり見当もついていない。
桃源は人智を超えた能力を持つ神と崇められている。幸福の会では桃源のような能力を得られるように彼の説法を聞き、修行に励んでいるというわけだ。
第一の修行は己の恐怖を克服することだという。
ここで過ごす一日は統制され、規則的に進んでいく。毎日似たような食事を食べ、時間通りに働き、修行し、説法を聞く。
外の人間と顔を合わせることなく、世間のニュースも聞こえてこない。
時間の檻に閉じ込められたみたいだ。
信者は老いも若きも揃って穏やかな顔つきをしていて、出家した僧侶に見える。ともすれば全員同じ顔をした人形のようだ。
目は一様に輝きを失い虚ろにとりつかれたようであるのに笑顔で、夜見るとぞっとする。
ここでの生活を続けていたら、自分もいつか他の信者みたいになるのだろうか。
ぼんやりそんなことを考えていたら、ラベルを貼り付ける場所を間違えてしまった。
普通の会社なら怒られるのだろうが、ここでは怒られない。
信者を見張っている幹部の十塚さえ知らん顔をしていた。
ラベルを貼り損ねた容器をしれっと他の容器と混ぜると、黒須は別の容器を手に取って黙々と作業を続けた。
十二時になるとようやく作業から解放された。五人そろって部屋に戻り、昼食をとる。
片付け当番の班は昼食後の休みがないが、それ以外の班は一時にコアに集まって修行するまでは、自由時間だ。
さすがにこの時は班単位で動かなくてもいいのだが、だいたい同室の班員同士で過ごす者が多い。
黒須は那白と忍と人気のない牧場に移動した。
幸福の会の本部からでるには南の幹部の居住区を越えて一時間ほどかけて山を下り、外界と本部を隔てるフェンスに行かなくてはいけない。その他の場所は深い森に包まれていて、山の奥に迷い込む一方だ。
東の牧場や畑付近は、正午から午後の作業までの間はほとんど誰もいない。
内緒話をするにはうってつけの場所である。
「あー、一時から修行か。めんどくせえな」
黒須はのけぞって空を見上げた。
梅雨の気配を感じさせない蒼穹に腹立たしさが募る。
外はいい天気なのに、こんな妙な場所で自分は何をしているのだろう。
「ほんま、阿保みたいな修行やんな」
「いいじゃん、楽な修行でさ。オレ、能力開発と称して脳に電気流すとか、リンチするとかもっとヤバイの想像してた。あったでしょ、昔そういう過激な宗教団体。
まあ、怖いものによっては命がけの修行だけどね。クロの怖いものはお化けだよね」
怖いものを克服する修行があるのも事前調査済みだったので、潜入前にそれぞれ怖いものを決めておいた。
本当に幽霊が怖いわけではない。
演じやすそうだし、修行も楽そうだと思って選んだのだ。だが失敗だった。
「おかげで好きでもないホラー小説と映像を見まくるはめになっちまったよ。そういうシロは自分を否定されることだったよな。いいよな、楽な修行じゃねえか」
「楽でもないよ。昨日はクロが相手だったじゃん、クロにオマエは馬鹿だとか、役立たずとか否定されるの、すっげームカついたんだぜ。キレずにいるの、大変だったよ」
「なにがキレずにいるのが大変だっただよ。
シロ、途中で馬鹿じゃないっつーのって吠えながら俺のことぶん殴っただろ」
恨みがましい目を向けると、那白はケラケラと悪魔みたいに嗤った。
「演技だよ、演技。最初っから平然としてたら、怖いものが嘘だってばれちゃうじゃん」
「嘘つけ、マジでムカついて殴ったみたいだったぞ。まあ、いいや。
松風さんの怖いものは蛇だったよな。
やばいの選んだって後悔してねぇか?
一日目は蛇の写真をひたすら見せられてるだけだったけど、昨日は蛇の抜け殻とか玩具の蛇に触らされてただろ。
今日あたり本物の蛇が用意されてるかもしれねぇぞ」
「大丈夫や、ウチは蛇好きやから。毒蛇やとちっとキツいけどな」
確かにこの人、ちょっと蛇っぽい雰囲気あるな。
密かに黒須は納得する。
恐怖の克服の修行では己の恐怖に立ち向う。
例えば水が怖いという人は洗面器に顔をつけられてできるだけ長い間耐える修行、死が怖い人は密閉式のコンテナに閉じ込められて徐々に酸素が減って死を味わう修行に励む。
頭がいかれた修行は暴行罪や殺人未遂として問題にできそうではあるが、やられている本人の同意がある上に、あくまで修行の一環なので、強制捜査や逮捕に及ぶのは難しい。
幸福の会は那白が思っているような危険な宗教団体なのか。
今のところ、彼らが犯罪に手を染めている様子はない。
共に暮らしている信者はもちろん、幹部や教祖にさえ怪しいところはない。
畑で作っているのは大麻や毒草じゃなくて野菜や果物だったし、牧場で飼育しているのもただの豚や鶏だ。工場区域では今日見た限りでは内職をしているだけだ。
残り四つのプレハブ工場でも断罪できるようなことをしているとは思えない。
しかし、幸福の会に所属していた人物が立て続けに事件を起こしたのも確かだ。
四月にトカゲに入ってから起きた大事件の犯人がすべて幸福の会のメンバーだったことが単なる偶然とは思えないし、大切な弟を殺されかけた那白が単に激情に駆られて幸福の会の討伐を進言したとも考えられない。
この組織になにか嫌なニオイを感じ取っているのは自分も同じだ。
犠牲者を増やさないためにも罪を暴かなければいけないと、なけなしの正義感が叫んでいる。
その一方で、関わりたくない気持ちもある。
ここにずっといたら頭が可笑しくなりそうだ。さっさと犯罪の証拠をあげて帰りたい。
「なあ、シロ。お前はなんか怪しいとこ見つけたか?」
「まだだよ。夜な夜な歩き回ってみたけど別になにも。風紀の乱れはあるみたいだけど信者同士みたいだし、犯罪ではないよね」
「えっ、それってどういう―…」
「クロは大人だからわかるでしょ。夜中外出てみなよ、そこら中から聞こえるから」
知りたくなかった。
自分の部屋はほとんど知り合いばかりのエセ信者で構成されているから何も起きていないけど、他の小屋では色恋沙汰が起きているのか。
一家でコロニーに暮らしている者も多いが、家族はあえて違う班に配置される。
同室の佐々木も小六の息子が別の班で別の小屋で暮らしている。
一度、就寝前に部屋に遊びにきていたのを見た。佐々木と似ていないシャープな顔立ちの痩せた子だった。
消灯後は住居の行き来も外に出るのも禁止だ。
那白が自分以外は誰も外を歩いていなかったと言っていた。
それなのに、そこら中の小屋で営みが行われていたというということは、不倫や浮気なんてお構いなしということだ。確かに乱れている。
黒須が絶句していると、忍が口を開いた。
「信者が乱交してたことなんて犯罪にはならん。
ウチは昨夜フェンスのとこまで行ってみたんやけどな、脱走しようとしとる奴がおった。
フェンス近くの見張り小屋から銃持った奴がでてきて引き金引いてくれたら話は早かったけど、あかんだわ。
脱走者は若い女で、見張り小屋から出てきた男に捕まったけど、殺されやんだ。
車で本部の方へ運ばれてってなんかされたかもしれやんけど、
今日、配膳室で昼飯配っとるんを見た限りでは、暴行された感じはなかった」
「でも、脱走者がでるような組織ってことはわかったじゃん。ナイス、忍」
「那白がウチを褒めるなんてレアやな。月尋に手ぇだされて、だいぶお冠か?」
「当たり前じゃん。ぜってー壊滅させてやる。ねえ、クロはなんかないの?」
「証拠はねぇけど、俺は十塚が怪しいと思う」
「へえ、理由は?」
「目が殺し屋みたいじゃねぇか」
「うわ、くだんねー。クロ、顔で判断するなよ。そりゃ最初に直感を信じろっていっかかもだけどさ、いくらなんでも適当すぎでしょ」
「そんだけじゃねぇよ。あいつ、どっかで見たことあんだよ。那白は覚えねぇか?」
那白が顎に手を当てて視線を泳がせる。
数秒ほど考えてから、彼は手のひらを打った。
「ある!アイツ、コパンの面会に来てた。
髪型はオールバックじゃなかったし、普通にスーツ着てたからわかんなかったけど、間違いなくアイツだ」
那白がズボンのポケットからメモ帳を取り出して字を書きつけ、指笛を小さく吹く。
森に潜んでいた風魔がすぐに飛んできて那白の肩にとまった。
那白がメモを風魔の足に括り付けて「竜に渡してくれ」と命じる。
風魔は承知したと伝えるように一度だけ瞬きをすると、すぐに飛び去った。
「和乃さんにメッセージか?」
「十塚がコパンの面会に来た日を調べてもらう。
一日目に小型カメラで桃源、十塚、穂村の顔を撮影して風魔に届けさせた。
面会の記録映像を見たら、すぐに調べられる」
「便利だな、風魔」
「竜の能力と風魔の高い知能があってこそできる離れ業だよ。トカゲは少数精鋭なのさ」
「黒であることを祈るとしますか。こんな場所にずっとおったら、気ぃ狂いそうやもんな」
まったくもってその通りだ。黒須は静かに頷いた。
教団が黒でも白でもどっちでもいい、ともかく早くここを出たい。
家に帰ったら、今一度特殊影動課でやっていけるのか考え直そう。
やめようか、もう少し続けてみようかとウダウダしているうちに、大きな任務に就くはめになった。
見慣れない天井を見上げて、黒須は大きな溜息を吐く。
「そんなおっきな溜息吐いとったら、幸福が逃げてしまうで、黒助」
左隣の布団の上で胡坐をかいて伸びをしていた忍がにやりと笑う。
黒助って誰だよと言いかけた口を噤んだ。右隣で布団を畳んでいる那白が呆れた顔をしている。
「クロ、桃源(とうげん)様に叱られちゃうぜ。幸福は笑顔からってね」
今の俺は黒田黒助で従順な幸福の会の信者だ。
朝起きるたびに不確かになる現在の自分を見直すのが習慣となってしまった。
偽名に慣れ、コロニーでの生活に馴染んでいる那白と忍が羨ましい。
粗末なプレハブ造りのワンルームに差し込む日差しは容赦がない。
六月に入ったのに雨はあまり降らず、夏のようなぎらついた光が小窓から照りつけている。
七月下旬まで空調をつけずに過ごすという規則はなかなかハードだ。
断熱性のない壁に囲まれた小窓しかない部屋は朝だというのに蒸し暑い。
「黒さん、白くん、忍さん。おはようございます」
信者に支給される浅黄色の作務衣を纏った若い女が布団を押し入れに片付けながら、にこやかに笑む。
彼女の名は岬。
二年前、二十三歳の時にブラック企業で働いていて心身を壊して退職し、救いを求めて幸福の会に入会したそうだ。
奥多摩の山奥にある幸福の会の本部は一つの大きな村のようになっている。
広大な山の敷地の中心には聖堂や道場がある幸福の会の心臓部に当たるコアと呼ばれる建物があり、コアのすぐ隣には教祖の桃源一家が暮らす一軒家がある。
コアの北は信者が働く工場区域、南には幹部が暮らすマンション風の三階建ての建物、東には牧場や畑、そして西はコロニーと呼ばれる信者の居住区となっているのだ。
コロニーにはトイレも風呂もないワンルームのプレハブ小屋が無数に点在し、男女混合の五人一組で信者が寝食を共にしている。
黒須は那白と忍、黒須と同い年の独身女性の岬、四十五歳で小学六年生の子持ちの佐々木と同室だ。
部屋割りは社会生活を営んでいる者とここで働いている者はわけられており、部屋割りが行動班となっている。
女と同じ部屋で寝起きするなんていつぶりだろう。
記憶を遡って虚しくなる。
黒須は伸びをすると布団を押し入れに運んだ。
視界の端で佐々木が寝巻用の灰色のスウェットから普段着の浅黄の作務衣に着替えている。
くたびれた皮膚の一部みたいな肌色のブラジャーがちらりと見えた。
脂肪がついて皮膚がたるんだ中年女の肉体に欲情したりしないが、いろんな意味で目に毒だ。
さりげなく目を逸らそうとしたが失敗した。佐々木と目が合う。咄嗟に謝罪すると、佐々木がおおらかな笑みを浮かべた。
「いいのよぉ、ここではみんな家族だから裸を見られても気にしないわ。
若い男の子に見られてドキドキしちゃうけどね。
こんなおばさんでよければいつでも相手するわ。仲間同士愛を育むのはいいことよ」
茶目っ気たっぷりに笑う佐々木に返す言葉がなく、黒須は眼を白黒させながらも、なんとか曖昧な笑みでごまかす。
那白が忍び笑いをしているのが癪に障った。
幸福の会は東京を中心に二千人近い信者がいるらしい。
普通に生活しながら、週に何度かこの奥多摩の本部を訪れて説法を聞いて修行に励む信者もいれば、コロニーから学校や会社に通う信者もいる。
コロニーで暮らしていない信者でさえ月額一万円と、説法や修行の度に任意で三千円以上のお布施を払っている。
コロニーで暮らす信者に至っては稼いだお金を十万近く幸福の会に寄付しているらしい。
信者の中には普通の社会生活から完全に離れ、コロニーに住み本部にある畑や工場で働いている者もいる。
衣食住が無償で提供されるかわりに、ろくな休日も与えられずに無賃労働をしている。
黒須達の現在のポジションがそうだ。
ブラック企業も真っ青の低待遇だが、不満を漏らす者は一人もいない。
「さあさ、朝食前の瞑想をするわよ。黒助君、早く着替えちゃって」
「あ、はい。すんませんけど、むこう向いてもらっていいですか?」
「はいはい、いいわよ。新入り君は恥ずかしがり屋だこと」
佐々木がマダムめいた気取った笑い声をあげて黒須に背を向ける。岬もすぐに壁の方を向いてくれた。黒須は素早く着替えを済ませる。
お揃いの作務衣に着替えると、全員が床に胡坐をかいて十五分の瞑想を行う。
黒須は三分も経たないうちに目を開けた。
那白と忍もすでに目を開けている。はなから瞑想などする気がないようだ。
それに引き換え、岬も佐々木も熱心に瞑想している。
朝は六時に起床して十五分瞑想。それからコロニーにある配膳室で配布される朝食を受け取って朝ご飯。
食事内容は塩むすび一つ、ゆで卵、みそ汁と簡素だ。
時々、バナナやヨーグルトがつき、みそ汁の具が多少違うが毎朝ほぼ同じメニューだ。
朝食を終えると奉仕作業という名の無賃労働をはじめる。
昼食後は一時間の修行をして休憩を挟んでまた労働。夕方六時からは教祖や幹部の説法を聞き、夕食を食べて自主鍛錬や読書をして十一時には就寝。
強制的に住居の電気が消える。軍隊顔負けのストイックな生活だ。
部屋にあるのはちゃぶ台と煎餅のような座布団、寝具と幸福の会の教本のみ。テレビやパソコンはない。
携帯電話は本部の敷地に入る時に通った検問兼見張り小屋で没収されると事前に情報を得ていたので、はなから持ってきていない。運よく持ち込めたとしてもこの山奥じゃ、電波が通じるか微妙だ。
コロニーで提供される食事は簡素で変わり映えせず、食の楽しみもない。
下手すると囚人よりも制限された生活を強いられているというのに、コロニーに住む信者は誰一人としてそのことに不満を抱かず、感謝の気持ちさえ抱いている。
まったく、気味の悪い場所だ。潜入して五日しか経っていないのに既に挫けそうだ。
朝食を終えて五人揃って小屋を出ると、他のプレハブ小屋からもぞろぞろと信者が出てきた。
コロニーの小屋は三十個以上あり、ここで暮らしている者の数は二百人近い。
その七割近くが社会に拠り所がなく、完全に幸福の会の本部の中だけで暮らしている。
コロニーでの暮らしは団体行動を重んじる。同室の五人は殆どの時間を共に過ごす。
五人揃って工場のある北部に向かって草原を歩いていると、岬が話しかけてきた。
「私たちの班は今日から暫く工場勤務です。黒さんは工場勤務は初めてですよね?」
「あ、はい。工場勤務って何をするんですか?」
「いろいろありますよ」
岬が意味ありげに笑った。
麻薬や武器の生成だったらどうしよう。
思わず不安を露にすると、今日の労働内容は封筒や商品へのシール貼りだと、佐々木が笑いながら教えてくれた。意外にも普通の仕事だとほっとする。
北の工場区域に来たのは初めてだ。
草を刈った砂地の地面に居住区の五倍くらいの大きさのプレハブが五つ並んでいる。
そのうちの一つに入った途端、黒須はがっかりした。
そこは工場とは名ばかりの、長机をくっつけただけの作業台と粗末な簡易椅子があり、荷物が入った大量の段ボール箱が置いてあるだけの場所だった。
すごい設備があり、幸福の会が怪しげな化粧品や食品などの商品を作っているのだろうと想像していたが、実際は内職の仕事を大量に受注しているだけのようだ。
「席について、みなさん速やかに作業を始めてください」
真っ白の袈裟風の服をまとった幹部の男が手を叩き、信者の作業を促す。
黒須はパッケージに品質表示のシールを貼りつつ、密かに男を観察した。
黒髪のオールバックに銀色の細いフレームの眼鏡。怜悧な顔の彼は副教祖の十塚(とつか)だ。
那白と忍と三人で渋谷の駅前にひっそりとある幸福の会の支部の戸を叩いた日、その場で入会が決まって、速攻この本部に連れてこられた。その時、聖堂での儀式の際に彼を見ている。
いや、それ以前に彼をどこかで見ていないだろうか。彼の顔には既視感がある。
しかし、何も思い出せない。
幹部は楽でいいよな、偉そうに俺達信者を見張っているだけでいいんだから。
単調で肩の凝るシール貼りをこなしている信者を尻目に、本を片手にのんびりとソファに座る十塚に腹がたった。
幹部の扱いは別格だ。信者を見張る、説法を解く以外に特にやることはないのに、信者のプレハブ住宅とは比べ物にならないちゃんとした建物に住んでいる。
幹部が暮らす建物の中に入ったことはないが、信者に質素で反文化的な生活を強いているのに反して、彼らは遊興と贅沢に塗れた生活を営んでいるに違いない。
信者が荒れてかさついた肌をしているのに対して、彼の頬の血色がいいのが証拠だ。
社会から離れても格差は付き纏うのか。ウンザリする。
「何か疑問があるのか?」
視線に気づいた十塚が、愛想のない淡々とした声で黒須に尋ねた。
黒須が慌てて首を横に振ると、十塚すぐ興味なさげに視線を本に戻した。目をつけられずに済んで、ホッとする。
右隣に座っている那白が足を蹴飛ばしてきた。
声をあげそうになったが、左隣の忍に口を押えられて叫ばずに済んだ。
迂闊にジロジロ見んなよ、作戦が台無しになるだろ。那白の猫目がそう語っていた。
だからって蹴りをいれなくてもいいだろうと思ったが、自分が悪いので黙っていた。
今まで警察がまったくマークしていなかった幸福の会に潜入捜査を行うことになったのは、二週間ほど前に那白の弟の月尋が幸福の会の幹部の仙堂に目を付けられて、殺されそうになったことがきっかけだ。
仙堂は和乃のペットのワシミミズク、風魔の追跡が功を奏して、トカゲ一の武闘派の忍の手で無事に逮捕された。
仙堂の少し前に窃盗犯として逮捕されたコパンこと、石川が刑務所内で突然心臓発作を起こして死んでしまい、幸福の会の情報を聞き出せなかったので、仙堂を逮捕することができてよかった。
危険を伴う潜入調査には少しでも情報が必要だ。
仙堂の罪は重い。彼がアップした自殺動画六件への関与が判明している上に余罪がある可能性が高い。
仙堂はマインドコントロールの達人であり、その能力で幸福の会の幹部の地位を得ると共に、悩みを抱えた人の心の隙間に入り込み自らの欲望を満たしていた。
仙堂は彼らを操って一人で自分の元を訪ねてくるように仕向け、ドラマチックな自殺ショーに仕立てて彼らを自殺に至らしめていたのだ。
死刑確定の彼だが、幸福の会の情報を暴露するのと引き換えに、恩赦なしの無期懲役刑に引き下げられることになった。
死刑を免れるために、仙堂は幸福の会に関する多くの情報を吐いた。
沢山の人間を手にかけておいて彼の命が助かることは腑に落ちないが、一生償いに生きる方がある種。
重罰かもしれない。
仙堂はあくまで幸福の会は腹を探られても痛くないと主張しており、彼が吐くのは教団の構成員や所在地ばかりだったけれど、那白が特殊影動課をあげて、幸福の会の調査に乗り出すべきだと息まいた。
それに同調した警視正の和乃が渋る警視庁を説得して、黒須、那白、忍の三人が奥多摩の山奥にある幸福の会の本部に潜入することになったというわけだ。
三十年以上前に発足し、自分が生まれた頃にサリンによる無差別殺人事件を起こしたとある宗教団体の話をテレビで何度か見たことがある。
自分にはまったく関係ない遠い話だと思っていた。
それがまさか怪しい宗教団体に潜入することになるとは。
黒須は黒田黒助(くろだくろすけ)、那白は和乃雪白(わのゆきしろ)、忍は松井忍と名前を偽って五日前にこの本部に潜入した。
敢えて三人一緒に渋谷にある幸福の会の支部の一つに入団志望者として訪れた。
知り合いじゃないふりをしてボロを出すよりも、知り合いとして潜入した方がいいと判断したのは那白だ。
潜入調査は一人ずつこっそりと行うのが定石で、敵も警察がまさかそろって潜入してくると思わないだろうから、裏をかけるというメリットもある。
デメリットは一人がボロを出したら、残りの二人も巻き添えになりかねないという点だ。
つまり、まだ新人の自分が下手を踏めば、ベテランの那白と忍まで失敗に追い込んでしまうわけだ。
半端じゃないプレッシャーに、黒須は内心気が気じゃない。
入会希望であることを伝えると、その場で入会希望用紙に記入させられて拇印を押すことになった。
捺印済みの用紙に加えて、免許証や学生証のコピーをとられた。
あらかじめ仙堂から入会の手順を聞いており、偽装の運転免許証と学生証を用意してあったので問題なく入会が認められたが、身分証明が必要という厳重さに疑問を覚えた。
書類が受理されて簡単な面談を終えるなり、三人揃ってこの奥多摩の幸福の会本部に連れてこられた。
教祖や幹部が生活をしている本部の中心部にある聖堂と呼ばれる場所で、黒須達はそろって、教祖の桃源から洗礼を受けた。
桃源は四十代後半の長い髪の弥生顔の男で、黄金色の袈裟を身に着けていた。
洗礼の儀式は極めて不気味なもので、照明を落としたなか、煌々と燃える蝋燭の明かりを手に、黒須と那白と忍は一人ずつ教祖の傍に歩み寄った。
教祖の右隣には黒髪のオールバックに銀色の細いフレームの眼鏡の副教祖の十塚、左隣には十塚の側近の赤みがかった短髪が特徴の穂村(ほむら)の姿があった。
黒須達は教祖の前で一人ずつ名前と生年月日を名乗り、自分が恐怖を感じるものを答えた。
そして恐怖を克服して新たな自分を見つけるための修行に励むことを宣言して、手に持った蝋燭を吹き消す。
三人がその行程を終えると、教祖が呪文のような意味不明な言葉を唱えた。
同時に三人が手に持っていた蝋燭に勝手に再び火が灯った。これこそが桃源教祖が起こす奇跡の一つだそうだ。
どうせトリックだろうと思うが、蝋燭に仕掛けがあった様子はない。どうやって桃源が蝋燭に再び火をともしたのか、黒須はいまのところさっぱり見当もついていない。
桃源は人智を超えた能力を持つ神と崇められている。幸福の会では桃源のような能力を得られるように彼の説法を聞き、修行に励んでいるというわけだ。
第一の修行は己の恐怖を克服することだという。
ここで過ごす一日は統制され、規則的に進んでいく。毎日似たような食事を食べ、時間通りに働き、修行し、説法を聞く。
外の人間と顔を合わせることなく、世間のニュースも聞こえてこない。
時間の檻に閉じ込められたみたいだ。
信者は老いも若きも揃って穏やかな顔つきをしていて、出家した僧侶に見える。ともすれば全員同じ顔をした人形のようだ。
目は一様に輝きを失い虚ろにとりつかれたようであるのに笑顔で、夜見るとぞっとする。
ここでの生活を続けていたら、自分もいつか他の信者みたいになるのだろうか。
ぼんやりそんなことを考えていたら、ラベルを貼り付ける場所を間違えてしまった。
普通の会社なら怒られるのだろうが、ここでは怒られない。
信者を見張っている幹部の十塚さえ知らん顔をしていた。
ラベルを貼り損ねた容器をしれっと他の容器と混ぜると、黒須は別の容器を手に取って黙々と作業を続けた。
十二時になるとようやく作業から解放された。五人そろって部屋に戻り、昼食をとる。
片付け当番の班は昼食後の休みがないが、それ以外の班は一時にコアに集まって修行するまでは、自由時間だ。
さすがにこの時は班単位で動かなくてもいいのだが、だいたい同室の班員同士で過ごす者が多い。
黒須は那白と忍と人気のない牧場に移動した。
幸福の会の本部からでるには南の幹部の居住区を越えて一時間ほどかけて山を下り、外界と本部を隔てるフェンスに行かなくてはいけない。その他の場所は深い森に包まれていて、山の奥に迷い込む一方だ。
東の牧場や畑付近は、正午から午後の作業までの間はほとんど誰もいない。
内緒話をするにはうってつけの場所である。
「あー、一時から修行か。めんどくせえな」
黒須はのけぞって空を見上げた。
梅雨の気配を感じさせない蒼穹に腹立たしさが募る。
外はいい天気なのに、こんな妙な場所で自分は何をしているのだろう。
「ほんま、阿保みたいな修行やんな」
「いいじゃん、楽な修行でさ。オレ、能力開発と称して脳に電気流すとか、リンチするとかもっとヤバイの想像してた。あったでしょ、昔そういう過激な宗教団体。
まあ、怖いものによっては命がけの修行だけどね。クロの怖いものはお化けだよね」
怖いものを克服する修行があるのも事前調査済みだったので、潜入前にそれぞれ怖いものを決めておいた。
本当に幽霊が怖いわけではない。
演じやすそうだし、修行も楽そうだと思って選んだのだ。だが失敗だった。
「おかげで好きでもないホラー小説と映像を見まくるはめになっちまったよ。そういうシロは自分を否定されることだったよな。いいよな、楽な修行じゃねえか」
「楽でもないよ。昨日はクロが相手だったじゃん、クロにオマエは馬鹿だとか、役立たずとか否定されるの、すっげームカついたんだぜ。キレずにいるの、大変だったよ」
「なにがキレずにいるのが大変だっただよ。
シロ、途中で馬鹿じゃないっつーのって吠えながら俺のことぶん殴っただろ」
恨みがましい目を向けると、那白はケラケラと悪魔みたいに嗤った。
「演技だよ、演技。最初っから平然としてたら、怖いものが嘘だってばれちゃうじゃん」
「嘘つけ、マジでムカついて殴ったみたいだったぞ。まあ、いいや。
松風さんの怖いものは蛇だったよな。
やばいの選んだって後悔してねぇか?
一日目は蛇の写真をひたすら見せられてるだけだったけど、昨日は蛇の抜け殻とか玩具の蛇に触らされてただろ。
今日あたり本物の蛇が用意されてるかもしれねぇぞ」
「大丈夫や、ウチは蛇好きやから。毒蛇やとちっとキツいけどな」
確かにこの人、ちょっと蛇っぽい雰囲気あるな。
密かに黒須は納得する。
恐怖の克服の修行では己の恐怖に立ち向う。
例えば水が怖いという人は洗面器に顔をつけられてできるだけ長い間耐える修行、死が怖い人は密閉式のコンテナに閉じ込められて徐々に酸素が減って死を味わう修行に励む。
頭がいかれた修行は暴行罪や殺人未遂として問題にできそうではあるが、やられている本人の同意がある上に、あくまで修行の一環なので、強制捜査や逮捕に及ぶのは難しい。
幸福の会は那白が思っているような危険な宗教団体なのか。
今のところ、彼らが犯罪に手を染めている様子はない。
共に暮らしている信者はもちろん、幹部や教祖にさえ怪しいところはない。
畑で作っているのは大麻や毒草じゃなくて野菜や果物だったし、牧場で飼育しているのもただの豚や鶏だ。工場区域では今日見た限りでは内職をしているだけだ。
残り四つのプレハブ工場でも断罪できるようなことをしているとは思えない。
しかし、幸福の会に所属していた人物が立て続けに事件を起こしたのも確かだ。
四月にトカゲに入ってから起きた大事件の犯人がすべて幸福の会のメンバーだったことが単なる偶然とは思えないし、大切な弟を殺されかけた那白が単に激情に駆られて幸福の会の討伐を進言したとも考えられない。
この組織になにか嫌なニオイを感じ取っているのは自分も同じだ。
犠牲者を増やさないためにも罪を暴かなければいけないと、なけなしの正義感が叫んでいる。
その一方で、関わりたくない気持ちもある。
ここにずっといたら頭が可笑しくなりそうだ。さっさと犯罪の証拠をあげて帰りたい。
「なあ、シロ。お前はなんか怪しいとこ見つけたか?」
「まだだよ。夜な夜な歩き回ってみたけど別になにも。風紀の乱れはあるみたいだけど信者同士みたいだし、犯罪ではないよね」
「えっ、それってどういう―…」
「クロは大人だからわかるでしょ。夜中外出てみなよ、そこら中から聞こえるから」
知りたくなかった。
自分の部屋はほとんど知り合いばかりのエセ信者で構成されているから何も起きていないけど、他の小屋では色恋沙汰が起きているのか。
一家でコロニーに暮らしている者も多いが、家族はあえて違う班に配置される。
同室の佐々木も小六の息子が別の班で別の小屋で暮らしている。
一度、就寝前に部屋に遊びにきていたのを見た。佐々木と似ていないシャープな顔立ちの痩せた子だった。
消灯後は住居の行き来も外に出るのも禁止だ。
那白が自分以外は誰も外を歩いていなかったと言っていた。
それなのに、そこら中の小屋で営みが行われていたというということは、不倫や浮気なんてお構いなしということだ。確かに乱れている。
黒須が絶句していると、忍が口を開いた。
「信者が乱交してたことなんて犯罪にはならん。
ウチは昨夜フェンスのとこまで行ってみたんやけどな、脱走しようとしとる奴がおった。
フェンス近くの見張り小屋から銃持った奴がでてきて引き金引いてくれたら話は早かったけど、あかんだわ。
脱走者は若い女で、見張り小屋から出てきた男に捕まったけど、殺されやんだ。
車で本部の方へ運ばれてってなんかされたかもしれやんけど、
今日、配膳室で昼飯配っとるんを見た限りでは、暴行された感じはなかった」
「でも、脱走者がでるような組織ってことはわかったじゃん。ナイス、忍」
「那白がウチを褒めるなんてレアやな。月尋に手ぇだされて、だいぶお冠か?」
「当たり前じゃん。ぜってー壊滅させてやる。ねえ、クロはなんかないの?」
「証拠はねぇけど、俺は十塚が怪しいと思う」
「へえ、理由は?」
「目が殺し屋みたいじゃねぇか」
「うわ、くだんねー。クロ、顔で判断するなよ。そりゃ最初に直感を信じろっていっかかもだけどさ、いくらなんでも適当すぎでしょ」
「そんだけじゃねぇよ。あいつ、どっかで見たことあんだよ。那白は覚えねぇか?」
那白が顎に手を当てて視線を泳がせる。
数秒ほど考えてから、彼は手のひらを打った。
「ある!アイツ、コパンの面会に来てた。
髪型はオールバックじゃなかったし、普通にスーツ着てたからわかんなかったけど、間違いなくアイツだ」
那白がズボンのポケットからメモ帳を取り出して字を書きつけ、指笛を小さく吹く。
森に潜んでいた風魔がすぐに飛んできて那白の肩にとまった。
那白がメモを風魔の足に括り付けて「竜に渡してくれ」と命じる。
風魔は承知したと伝えるように一度だけ瞬きをすると、すぐに飛び去った。
「和乃さんにメッセージか?」
「十塚がコパンの面会に来た日を調べてもらう。
一日目に小型カメラで桃源、十塚、穂村の顔を撮影して風魔に届けさせた。
面会の記録映像を見たら、すぐに調べられる」
「便利だな、風魔」
「竜の能力と風魔の高い知能があってこそできる離れ業だよ。トカゲは少数精鋭なのさ」
「黒であることを祈るとしますか。こんな場所にずっとおったら、気ぃ狂いそうやもんな」
まったくもってその通りだ。黒須は静かに頷いた。
教団が黒でも白でもどっちでもいい、ともかく早くここを出たい。
家に帰ったら、今一度特殊影動課でやっていけるのか考え直そう。
応援ありがとうございます!
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