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氷面
しおりを挟む「ルソーネ様、よろしいのですか!?」
開口一番そう言われ、エマは戸惑いに瞳を瞬かせた。
買い物を済ませ、上機嫌に研究室へと戻るところ、女性五人(多い)の集団に、鬼気迫る勢いで囲まれた。
見たところ、精霊科の研究員である。
周りに心配されるほど社交に疎いエマからすれば、知り合いでも何でもない。
あそこの家のなになにさん、そんなのをいちいち覚えなければいけない世の中には辟易しているのだ。
当たり前のように声をかけられたが、何事だというのか。
「えっと、なにが、でしょうか…?」
若干引き気味に目の前の女性達に問えば、
「当然、あの女のことですわ」
あの、おんな。
また随分な言い方だが、誰を指しているのかは見当がつく。
エマは「はぁ」と気のない返事を返しながら、抱えている研究素材を持ち直した。
重いので、早く立ち去りたかった。
大した話ではないことは明白だ。
「アリス・クローデル……身の程を弁えず、ユーリ殿下に付き纏っているのですよ。ルソーネ様もご存知でしょう?」
「つ、付き纏っているのではなく、普通に仲が良いだけなのでは……」
「ありえません! あってはならないことですそれは!」
何とも忌々しそうに言う。アリスに親でも殺されたのだろうかと思わされるほどだ。
「仮に。仮に、そうだとして、であれば尚更彼女はここから出て行くべきですわ。婚約者様を前にして失礼極まりない。元々、この地に相応しい者ではないのですし」
「私はべつに気にしてませんよ?」
「いけませんわ、ルソーネ様。慈悲も大概になさらないと、下等な者はすぐに思い上がります」
「……」
「ですので、早々に彼女に処分を下した方がよろしいかと」
つまるところこれは、エマの特権でアリスを追い出してほしいというお願いである。
あまりのくだらなさに、エマは自分の顔から表情が抜け落ちたのを自覚した。
「あなた方は、彼女に何かされたんですか?」
一人一人の目をじっと見ながら問えば、女性たちは皆固まった。
続く言葉はなく、それが答えである。
「では、処分もなにもないかと」
「い、いいえ! これはお二方のためでございますのよ? 悪い虫を放置しておくなど、黙って見てはいられません!」
「わたしと、ユーリのためですか?」
「はい」
ニコニコと貼り付けられた笑みを向けられ、エマの表情は一層険しくなった。
辺りの空気が冷え、温度がガクンと下がる。
「お気遣いありがとうございます。ですが私とアリスちゃんは良き友人ですので、心配には及びませんよ」
二人でお茶をするくらいにはエマとアリスの仲は良好である。しかしそれが人目につかない静かな時間だったのが、今は少し悔やまれた。
ひけらかすように共にいれば、こんなことにはならなかっただろう。
女性たちは少しざわついたが、
「お、お戯れを。彼女では釣り合いませんでしょう」
ひくりと顔の筋肉を引きつらせ言った。
自分に苛立つ分には構わないが、どうやら彼女たちの怒りの矛先は全てアリスに向いているようだ。
流石というか、なんというか。多方面から構われてしまうのは、主人公の辛いところだろう。
(暇なのかな、この人たち)
ただ自分が気に食わないという理由だけでよく知りもしない相手を攻撃する。
その労力を他に回したらどうだろうか、とエマは呆れた。
人を陥れて満たされる心なんて捨てた方がいい。
「つらいことでもあるんですか?」
「え……?」
「自分より立場の弱い者を虐めていないと、やっていられない、なんてくらいに、あなた方は追い詰められているんですか?」
女性たちは後退り、しかしエマの瞳から目を離せないでいた。
どっぷりと浸かり込んでしまいそうな深い海底のような瞳を。
「ならカウンセリングをお勧めします。愚行を改める精神が宿ることを願って──ですが、もしもただの加虐趣味だというなら、処分対象はあなた方かもしれませんね」
わざとらしく笑いかければ、女たちは一斉に顔を青くした。
「──やめとけばよかった、なんて後から思っても遅いんですよ。だからこれ以上私の大切な人を侮辱するのはやめてください」
「ぶ、侮辱、なんてっ……!」
必死に絞り出した返答。
しかし彼女たちにそのつもりはなくとも、エマにとっては間違いなくそう捉えられた。
ユーリがアリスを気にかけるのも、アリスがユーリを頼るのも、そういう配役だからだと言ってしまえば簡単だが、しかしそう単純なことでもない。
彼らだって、自分の意思で生きているのだ。
そしてエマは知っている。ユーリが良く出来た人間で、憎たらしいほど王子様らしく、それでいて実はとんでもない腹黒で、そして──
(どうしようもないくらい、優しいんだよね)
そんな彼に剣を振らせた悪役令嬢エマの愚かさたるや。
先ほど自分で言ったことが全て返ってくるようである。
ともあれそんな彼が、同じ学科で酷い扱いを受けている女の子を放っておくわけがないのだ。
根無し草の少年を拾って従者、ならぬ友と定めるくらいである。
そしてこんな陰気臭い女をいつまでも婚約者として置いておくような物好きだ。
どこまでもユーリが王子様だというのは、エマはよくよく理解している。
友人歴もなかなかになる。仮が解けたのかは確認していないが、わざわざ聞くのもヤボだ。
「ユーリは良い奴ですけど、怒ったら怖いので滅多なことはしない方がいいですよ」
およそ婚約者らしくない物言いだが、親しみだけは十二分だった。
それだけ言い残し、エマは女性たちの間を抜けて遮られていた廊下を再び進み始めた。
去り際に見た彼女たちの表情は複雑そうなものだっだが、少しでも伝わっていたらいいと思う。
もしそれでもアリスへの態度を改めないのであれば、いつか相応の罰が下るだろう。
対象たちがのんびりしているのなら、自分がやってもいい──
「なんて」
空気に溶けるように小さく呟いた。
歩きながら、考える。
悪役令嬢エマが使った数々の駒は、彼女たちの中にもいるのだろう。エマが導かなかった時、はたしてその子たちはどんな道を歩むのか。
できることなら何事もない人生を歩んでほしい。
せっかく悪役のいない世界になっているのだから。
「エマ」
「ぅぎゃあっ!」
突如、背後から声を掛けられ、持っていた荷物が宙を舞いそうになった。しかしすぐに長い手がそれを溢さないように掬い取ってくれた。
そのまま拐われ、エマの両腕は軽くなる。
「考え事してたの? ぼーっとしながら通り過ぎられて、どうしようかと思った」
「え、え」
通り過ぎて、ということは、どこから見られていたんだろう。物思いに耽りすぎる癖を流石にどうにかしたい。
「廊下の真ん中でよく目立ってたね。最初は割って入ろうかと思ったけど、エマがかっこよくて必要なかったや」
めちゃくちゃ最初から見られていた。
なんという居た堪れなさ。自分は何を口走っていたっけと、先ほどの出来事を頭の中で掘り返す。
粗相はなかっただろうか、何かまずいことを言っていないか。
途端にギクシャクとし始めたエマにユーリは表情をゆるめた。
「いつの間にか、しっかりしすぎちゃって」
しみじみと、我が子にでも言うようにしてエマの頭を軽く撫で、ユーリは「ごめんね」と形の良い眉を下げて言った。
なんのこと、と視線で問えば、迷惑を掛けたからと言う。
「掛けられてないよ」
そんな大層な、となんて事ないように笑って見せれば、ユーリもつられるように笑った。
「何をするにも窮屈だ」
「私はしたいことだけしてればいいけど、ユーリは仕方ない…っていうのもおかしいか…」
「ううん、仕方ないんだ。そういう役割に生まれたんなら、それらしく、自分のやれることをするだけだし」
でも自分の周りの人に起きる問題は、仕方なくない。
珍しく弱気なのか、小さく低い声で呟いた。
おやおや、なんて思った──ので、エマは悪戯な笑みを浮かべた後、彼の背を力一杯叩いた。
大丈夫だと言っているのに、信じられないようなので一喝入れてやったのだ。
どういうわけか彼は、自分に世話を焼き過ぎるところがある。その姿は父親か、はたまた兄のようでもある。
「私は心配いらないよ。ユーリはアリスちゃんを見ててあげてよ。色々大変だろうから」
ユーリは澄んだ青の瞳を丸くしてエマを見た。
木漏れ日のような金の髪が目元にほんのりと影をつける。彼は慎重に、ひとつ息を吸った。
「──君と仲良くなったきっかけの日があったでしょ」
「? うん」
十歳の頃の、王宮庭園での騒動のことだろう。
もう随分と懐かしい。
「あの日僕は──僕らは、君のことを大切にしなくちゃと思ったんだ。幼いながらにね」
何を言われているかよく理解できず、首を捻れば、
「絶対に触れさせてくれない傷があるでしょう。子どもの頃はほんの少しだけわかったよ。今は正直、もうよくわからなくなってしまったけど……」
少し寂しそうに言って、触れるか触れないか、曖昧な指先でエマの首元を撫でた。
エマが変えようとしている、あり得るかもしれない未来。
それはきっとエマ以外が認識することはないが、漠然とした何かは、彼らにも伝わっているのだろうか。
「──私の苦手なもののことを言ってるなら、それはずっとずっと昔から駄目なもので、あの日とは本当に関係ないよ?」
あえて明るく言う。少しだけ論点をずらして。
そうすると、ユーリは片手で目元を押さえて泣き真似をした。彼のこんな姿、殆どの人間は見たことがないだろう。
これから彼女が知っていくだろう可愛い一面である。
「子が巣立つ時ってこんな感じなのかな……」
「いや、同い年なのに何言ってんの」
ていうかまだ十代だろうに、子だの何だのは些か早い。
「まぁ、とにかく。エマに何かあると僕も嫌なんだよ」
「そうなの?」
「うん」
「ふーん……」
途端にバツが悪くなって、視線をそらして足を早めた。
そうまで思ってもらえるような何かは、自分にはないように感じた。
ただ、もしかしたら自分の正体を知られても、もう大丈夫なのではないか、とそんな甘く緩い期待だけが胸に生まれた。
その後しばらく、沈黙を引き連れて歩いていれば、
「明日の夜会は出席する?」
ユーリは思い出したように言った。
「え、あ……うん。やだけど、基本は参加だって」
「そうだね、新人は特に。僕は別件で王宮に戻るから出ないけど」
それはそれで大変そうだな、と思った。
体力的にも精神的にも優しい引き篭りという道がどれだけ素晴らしいことか、改めて思い知らされる。
「エマもそろそろ社交に慣れないとね」
心を読むな。
エマはぶーたれながら、本当に嫌だなぁ、と益々思った。
(何事もないといいなぁ……)
願うのはそればかりである。
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