少年プリズン

まさみ

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八十六話

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 気絶した少年を引きずり、仲間が退散してゆく。
 そのさまをじっと見送るサムライをよそに、潮がひくように野次馬が散ってゆく。「素手でも強いなんて反則だよなあ」「なあ」と口々にサムライの実力を評しながらスロープを下る野次馬にもまれ、エレベーターへと押し流されながら振り向く。
 なにを考えているのか、コンクリートの地面に立ち尽くしたサムライの表情は影に沈んでわからない。
 孤独な武士の肖像。
 『おれが欲しい女はここにいない』
 では、どこにいるんだ?ここに女がいないのは当たり前だ、東京少年刑務所に収容されているのは十代前半から後半までの凶悪犯罪を犯した少年に限られる。女性がいるはずはない。
 だが、そういう意味ではなかった。
 サムライはある特定の人物を思い浮かべ、先の言葉を呟いたのだ。そうでなければあんな哀しい顔をするはずがない、僕が見たこともない男の顔をするはずがない。僕が知らないサムライをその人物は知っている、たぶんだれよりも、ロンよりも安田よりもヨンイルよりもレイジよりも理解している。
 サムライの理解者。サムライが心を許した。
 『芽吹かない苗』の記述と関連しているのだろうか?その可能性は高い、あの手紙の執筆者である可能性も。その女性は今でもサムライの帰りを待ち望んで日々を過ごしている、東京プリズンに送られたサムライの身を一途に案じながら再会の日を夢見ている。
 あれは……あの手紙は、恋文だったのか?
 サムライが毛ほども恋愛に関心がないというのは僕の勝手な私見、かつ偏見にすぎなかったのか?サムライはかつて女性を愛したことがあるのか?その女性は今も外に?サムライの帰りを待ち、無事を祈る日々を過ごしているのか?
 僕には恋愛感情がわからない。
 興味本位でセックスを体験したことはあるが、それは恋愛ではない。相手もまた自分より十も年下の子供に恋愛感情を抱いていたわけじゃないだろう、彼女にとっては遊び、僕にとっては実験。なぜひとが性行為に快感をおぼえるのか、性行為が快楽をともなわければだれもしたいと思わず、またそうでなければ子孫を残すことができないからだ。体験してわかったのは僕が不感症だということだ。
 僕が不感症なのは受精卵の段階で遺伝子を操作された後遺症かもしれない、と服を着ながら考えた。さりとて残念でもなかった、ただどんなものか試したくて誘惑に乗ったのだから快感を感じずに行為を終えても「意外と退屈だったな」という感想を持っただけだ。
 それは恋愛ではない。たぶん、全くの別物だ。
 エレベーターへと流されながら密かに決意を固める。
 もう一度サムライの手紙を読もう。
 どうしてこんな簡単なことを思いつかなかったのだろう、すべては手紙から始まったのだから、すべての謎を解く手がかりもまた手紙にある。最初に読んだときは気が動転していて、とても平常心とはよべない心理状態ゆえに見逃してしまった箇所もあるだろう。心を落ち着けて目を通せば初読時には気付かなかった重大な発見があるかもしれない。何せサムライが外から持ち込んだただひとつの物証なのだ、これを鑑定して検証しない手はない。
 サムライの過去はこの鍵屋崎 直が解き明かしてやる。
 天才のプライドに賭けて。


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 なんてことだ。面白かった。
 耳に喧騒が戻ってくる。時間を忘れて本に熱中していた僕は、満足の吐息をついて表紙を閉じ、急に不安になって房内を見回す。天井の中央に裸電球が点った薄暗い房、隣のベッドにサムライの姿はない。夕食後、房にまっすぐ帰ってきた僕とは裏腹にどこかをほっつき歩いてるんだろう。扉はちゃんと内側から施錠されている、格子窓の外に人影はない。房の内外に人目がないことに深く安堵したのはわけがある。
 原因は僕が手にしている本……正確には漫画だ。先日ヨンイルに無理矢理貸し付けられた古い漫画……作者名はたしか手塚治虫。
 自慢じゃないが、僕は物心ついたときから絵本に代表される挿絵入りの本を読んだことがなかった。僕が父に影響されて幼少時から接してきたのは最初から最後まで活字で埋まった本ばかり、挿絵といえばDNAの螺旋構造や脳の断面図などの図解説明のたぐいしか思いつかない。漫画なんてとんでもない、あんな人類を堕落させる低俗かつ下等な書物。鍵屋崎夫妻はそう決め付けて漫画を毛嫌いしていたし、戸籍上の両親に対し表向きは従順だった僕もそれには本心から同意した。
 だから、漫画を読むのは今回が初めてだ。
 最初は嫌々だった。「漫画を愛好してるヨンイルは精神年齢が低い」と冷笑しながら、それでも正規の手続きを経て借りたからにはざっと目を通しておくのが礼儀だろうと義務感から読み始めたのにページをめくる手が止まらなくなった。
 そして、一気に読破してしまった。
 これではヨンイルを笑えない体たらくだと頭を抱える。しかし仕方ない、本当に面白かったのだから。まず感心したのは作者の医学知識の豊かさだ、きっとこの手塚という作者は前線の医者としてさまざまな症例や病例に接したことがあるのだろう。それらの実体験を踏まえた上で奔放な発想力および想像力をふくらませ、病魔に冒された患者の苦悩や人生の悲喜劇を描き出した。主人公の孤独な生き様にも惹かれる、法外な治療費を請求する無免許医として糾弾されながらも天才的な外科手術の腕を持ち、同業者からも匙を投げられた患者を全力を賭して救い続けることでおのれの信念を貫き通す。
 人間とは、医学とはという難解な命題に真摯に挑んだ素晴らしい作品だった。残念なことに、僕の手元には一巻しかない。二巻以降は図書室の棚にある。今日はもう遅いから早速明日借りてこなければ……
 漫画を枕元に置き、対岸のベッドを見る。隣のベッドはもぬけのからだ、サムライが帰って来る気配はない。
 手紙を読むなら今がチャンスだ。
 ベッドから腰をあげ、慎重に対岸へと歩み寄る。房の外に物音が漏れないよう、細心の注意を払って一歩ずつ足を運ぶ。格子窓の外に目をやり、人影がないことを確認する。よし。深呼吸して心を落ち着け、ベッドの下を覗きこむ。暗く埃っぽい暗闇の奥から鼻孔を突いたのは墨の芳しい香り。硯と墨、半紙の束、般若心境の経典。そして木刀。手前にあるのはサムライの私物だ。手紙がしまわれている小箱は最奥にある。
 床に膝をつき、奥まで手を突き入れる。硯を避け墨を避け、限界までのばした手の先に箱の輪郭を感じる。カタンと乾いた音が鳴り、箱が動く。
 心臓が縮まる。
 ひっこめかけた腕をふたたびのばし、今度こそ箱を掴む。そのまま慎重に床をすべらせ、裸電球の下へと取り出す。
 僕の目の前に現れたのは埃をかぶり、浅葱の風味も色褪せた和紙の小箱。
 この前見たときとどこも、なにも変わってない。慌ててベッドの奥に投げ入れたときから蓋を開かれた様子はない。……最も、肉眼で見てわかるわけがないが。僕は透視能力者ではない、蓋を開けて見なければ中の様子までわからない。
 動悸が速まり、喉が渇く。
 これはパンドラの箱かもしれない。ギリシア神話にでてくるパンドラの箱、人間の女に神から贈られた祝福の小箱。しかし不用意に開けたために箱にしまわれていた良い物、素晴らしい物はすべて飛び去ってしまい、愚かな女の手元に残ったのは疫病や嫉妬、欲などの醜い残り物ばかり。
 ただひとつの救いは、箱の底に残っていた「希望」。
 さまざまな災害や不幸に見舞われても人間が屈することなく今日まで生き続けてこれたのは箱の底に希望が残っていたからだというのがこの話の寓意だ。
 この箱にしまわれているのは「希望」だろうか?
 ふとそんな考えが頭をかすめる。
 サムライにとっての希望、外へと繋ぐ望み……希望を託した手紙。罪悪と暴力が蔓延するこの刑務所で今日までサムライが正気を失わずにいられたのは箱の底に希望が残っていたから?
 絶望がひとを殺すなら、希望がひとを生かすこともまたあるだろう。
 それなら僕が不用意に開けたせいで、箱の底に残された唯一の希望まで飛び去ってしまうかもしれない。
 そんな迷信じみた危惧にかられ、箱にかけようとした手が止まる。いまさらなにをためらう、と自嘲しようとしたが笑みを作ろうとした顔の筋肉がひきつったまま元に戻らない。罪悪感?サムライの手紙を暴く行為に罪悪感を感じてるのか、この僕が。まさか。僕はただ知りたいだけだ、サムライの過去を暴いて探究心と好奇心を満足させたいだけだ。僕は好奇心を最優先する、他人がどうしようが、どうなろうが知ったことか。
 たとえそれがサムライでも、四ヶ月を共に過ごした男でも関係ない。
 僕は天才だ、天才にわからないことなどこの世にあるはずがない。天才にわからないことなどあってはならないのだ。だから謎を解く、謎を解いてサムライを理解する。サムライの過去になにがあったのか、サムライが執着する女性はだれか、わからないことに対する解答を導き出す。
 そして、サムライと公平に、対等になる。
 つまらない罪悪感を振り払い、箱の蓋に手をかけ、ゆっくりと持ち上げようとして…… 
 音。
 「!」
 こちらに接近してくる足音に我に返り、箱の蓋にかけた手を慌ててひっこめる。そのままベッドの奥まで手を突っ込んで箱を戻し、慌しく自分のベッドに戻り、なにもなかったように腰掛ける。これでいつ扉が開いても僕がやろうとしたことがばれることはー
 しまった。
 ノブが回り、鉄扉が開く。房へと足を踏み入れたサムライがうろんげに眉をひそめる。
 「なにをしてるんだ?」
 ベッドに片ひざ乗せ、枕の下へと漫画を隠し終えると同時にサムライの気配を背後に感じ、ひっくりかえった声で言う。
 「誤解するな、僕は漫画なんて読んでないぞ。あんな下等で低俗で子供だましの書物を枕元に置いておくわけがないじゃないか」
 「読んでたのか?」
 「だから読んでないと言ってるだろう、手塚治虫なんて」
 「なぜ名前を知ってる?」
 ……墓穴を掘った。
 枕の位置を正し、サムライの目から漫画を隠す。ベッドに腰掛け咳払いし、なんとかごまかす。サムライはそれ以上の追及はせず自分のベッドへと戻った。サムライの動きを目で追いながらひやひやする。ちゃんと証拠隠滅した、抜かりはないはずだ。小箱はちゃんと元の位置に戻したし硯と墨の配置も元通りに直した、ばれるはずがない。
 案の定、サムライは気付くことなくベッドに腰掛けた。よかった。
 しかしまだ安心はできない、第六感が鋭いサムライのことだ。僕がおもわず手をついたシーツの皺から異変を嗅ぎ取らないとも限らない。サムライの注意を身辺から引き離すため、声をかける。
 「見たぞ、地下で」
 「……ああ」
 なんのことを言われてるかすぐに悟ったのだろう、興味なさそうに首肯する。せっかく話し掛けてやったというのに反応が芳しくないことを不愉快に感じつつ、続ける。
 「人気者じゃないか」
 いつかのように「皮肉か?」と返されるのを予期していたが、僕の予想は斜め上にずれていた。
 「うらやましいか」
 「………全然べつにちっとも羨ましくはないが、なにがどうしてそんな発想がでてきた?」
 「冗談だ」
 真顔で冗談を言うな。
 サムライでも冗談を口にすることがあるという新事実に驚愕するよりもさきに怒りがこみあげてきた。安田といいサムライといい真顔で冗談を言うのはやめてほしい、それなら真顔で嫌味を言われたほうが数段マシだ。僕ならそうする。
 「知らなかった、きみのところにブラックワークのスカウトが来ていたなんて」
 「言ってなかったからな」
 「僕が来る前からずっとか」
 「お前が来てからもだ」
 「気付かなかった」
 「お前がいないところで声をかけられたからな」
 「解せない」
 するりと疑問が口をついてでた。
 「ダッチワイフを熱烈に所望してたあの少年の言い分じゃないが、ブラックワーク上位陣にはさまざまな特典が約束されるんだろう。僕はレイジからそう聞いた。ブラックワーク上位になれば連日の強制労働も解放されて悠悠自適な身分になれる。きみなら容易にブラックワーク上位に行ける実力があるのに、どうして色よい返事をしないんだ?」
 本当に不思議だった。
 監視塔の一件でも今日の一件でも証明されたとおり、東棟におけるサムライはレイジに継ぐ実力の持ち主だ。東京プリズン全棟を含めても、容易にブラックワーク上位に食いこめる実力はあるだろう。にも関わらずブラックワークの誘いを蹴り続けてブルーワークに甘んじているのはなぜだ?興味がないといわれてしまえばそれまでだが、強制労働免除のえさに惹かれない囚人はいないだろう。イエローワークほどでないにしても他部署の労働はそれなりに過酷なのだ、水質管理や廃水浄化作業に代表されるブルーワークの仕事も例外ではない。
 ブラックワーク上位を維持するかぎり半永久的に強制労働が免除されるなら、これに勝る賞与はないんじゃないか?
 「争いごとは好きではない」
 「詭弁だな。それならなぜ木刀の手入れを欠かさない?」
 「ただの習慣だ、般若心境の読経とおなじく一日でも怠ると寝つきがよくない」  
 「監視塔では水を得たように木刀を振るっていたじゃないか」
 未だにあざやかに覚えている、サーシャの取り巻き連中と死闘を演じるサムライ、その水際立った剣さばきを。
 背筋をのばしてベッドに腰掛けたサムライが射抜くような眼光でこちらを凝視する。
 死線を見た、武士の眼光。
 「自分の身と、ついでにお前を守るために仕方なくだ。ひとの娯楽のために剣を振るいたくない、剣は見せ物じゃない。我が身を賭してなにかを守る以外の目的に使ってはいけないものだ」
 「武士の信念か。時代遅れも甚だしい、今は西暦2083年だぞ」
 「そんな高尚なものではない。ただ、俺にも譲れないものがあるだけだ」
 小箱の手紙とおなじように?
 喉元まででかけた言葉をぐっと飲み込み、ちがうことを言う。
 「………この際だからはっきり言っておくが、僕から守ってくれと頼んだ覚えはない。友人でもなんでもない赤の他人なんだから、きみが僕を守らなければいけない義務なんてどこにもない。今度ぼくが強姦されかけたら放っておいてほしい」
 「強姦されたいのか?」
 「そんな趣味はない。ただ、もののついでできみに守られてるよりそっちのほうが精神的負担が減るだけだ」
 サムライに守られて自己嫌悪に陥るのはいやだ、自分がいかに無力かという現実を目の前につきつけられるようで。
 サムライに頼らなければ窮地を脱することもできない無力な人間に恵の兄を名乗る資格はないと思い知らされるようで。  
 暗澹たる気分でだまりこんだ僕をしばらく眺め、サムライがさらりと言う。
 「気にするな」
 「?」
 何を言い出すんだと顔を上げれば、サムライは相変わらずこちらを見つめていた。
 同情でもない、憐憫でもない。ただ自分に正直なだけ、それが何にも変えがたい強さとなる眼差し。
 「俺が守りたいから守った。お前が気に病むことはない」
 返す言葉を失う。
 唾を飲み下し、唇を湿らし、ようやく喉にひっかかっていた言葉を吐き出す。
 「見返りを期待せず、頼みもしないのに僕を守ってくれるなんて、まったくきみは………」
 「なんだ?」
 不審げなサムライをよそに、口の中だけで続ける。
 『まったくきみは、頼りになるモルモットだな』
 頬がむず痒いのはこういう時どんな表情をしていいかわからないからだ。
 ……天才にわからないことなどないのにサムライといるとわからないことが増えてゆくのはなぜだろう。
 わからない。
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