ふたりのアラベスク  ──あなたに心、奪われていく

香月よう子

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蒼い夜

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『奏子さん』
 耳元でリフレインするその言葉を奏子は息苦しく思い返しながら、まだ暑い日差しの中、家路へと急ぐ。
 男性からそう呼ばれた経験がないではないが、清志郎の呼び方には特別な響きを持つことに、奏子でも気づいていた。

 何故。
 まだ、数回しか逢ったことのない人なのに。
 いや、清志郎はもうずっと前から奏子の存在を認めていたと。
 それはどういう意味? 
 あの人は私に何か特別な感情を頂いているの?
 考えるだに泥沼に入っていくばかりの思考に奏子は、益々息苦しくなっていく。
 汗だくになりながら自宅マンションに戻り、届いている郵便物を確認した奏子の顔色が青ざめた。

 息ができない。目の前がモノクロへと世界を変える。
 ハラハラと手元から舞い落ちる一葉の葉書。 


 それは────── 


  
 ***


「ただいま」
 その日の晩も遅くに旭良が帰宅すると、部屋に電気がついていない。
「かなちゃん……?」
 足早にリビングへと入った旭良が見つけたのは、ソファに座るわけでもなく、フローリングの床にぺたんと座り呆けている奏子の姿だった。 

 奏子は静かに泣いていた。
 奏子が手にしている一葉の葉書に、旭良は全てを理解していた。聞かなくてもわかる。
「また来たのか」
 旭良は舌打ちしたいような気分だった。 
 奏子は小さく頷いた。
永羽とわちゃん。三人目。待望の女の子だって……」
 どうして結婚六年も経ってまだ子供を授かっていないアラサーも過ぎる奏子にそんな知らせを寄越すのか、その無神経さが旭良には理解できない。
 しかし、当の本人には嬉しくて仕方がないのだろう。それは可愛い生まれたての女の子が小さな紅葉のような手を握りしめ、安らかに微睡んでいる写真がその葉書にはあった。

 奏子は次第に大きな声で泣き始めた。
「どうして……。どうして、かなはあらくんの子が産めないの? ちゃんと初潮を迎えて女性の体のはずなのにどうしてかなは……?!」
 声を上げ、泣き叫ぶ奏子を旭良は今まで何度抱き締めてきただろう。



「無排卵性月経……?」
「はい。問診、内診、経腟超音波検査、基礎体温表、ホルモン検査などを総合的に判断した結果、奥様には卵胞発育・発育卵胞の消失……つまり排卵が認められません。無排卵と思われます。ですから……」
 その奏子より少し年上の女性医師は、暫し言いにくそうに言葉を選んでいた。
 旭良は嫌な予感がした。
 奏子は不安に怯えている。
 しかし、遂に医師は言った。

「奥様には妊娠は望めません」

 その瞬間、ぐらりと奏子の体が揺らいだ。
 それは奏子の世界が崩壊した瞬間だった。

「かなちゃん……!」
 隣で旭良が奏子の名を呼び、医師と看護師の前だと言うにも関わらず奏子を強く抱き締めた。
 奏子の体が倒れないように。
 奏子の心が折れないように。

 その後のことを奏子はよく覚えていない。
 旭良の運転する車の中でただ泣いていた。

 それは、結婚して三年目になる奏子が三十歳の夏のことだった。



 友人の妊娠出産の知らせを聞く度に奏子は泣く。
 どうしても『娘』が欲しいのだと、奏子は言う。
 けれど、それは一生望めない、手に入らない未来であり、幸福なのだ。
 旭良と二人の生活も悪くはない。そう思うけれど、奏子にはどうしても、旭良と自分の血を引く子を……女の子を持つ夢が捨てられない。
 三十代半ばにさしかかる今でも、奏子の友人達から出産の知らせが舞い込む度に奏子は狂乱する。それは身も世もなく、旭良に縋り、泣き叫ぶ。その半ば狂人のような奏子を旭良はただ抱き締めてやることしかできない。
 奏子はいつか本当に心を壊し、狂ってしまうのではないか。そんな心配に駆られるほど、奏子の悲しみは深かった。

「かなは……かなは……。あらくんの子供が欲しいの。あらくんと、かなの子供が……女の子が……」
 泣きながらそう呟く奏子を旭良は抱き締める。
 ただ抱き締めている。
 奏子の誰にも取り除くことのできないその深い喪失の悲しみに寄り添うように。
 奏子が泣くから。誰より愛している奏子が泣いているから。
 それは旭良にとっても深い悲しみであることに、奏子は気づかない。
 子が成せない奏子を旭良はそれでも、それだからこそ一心に愛する。それは心も躰も奏子の全てを。

 奏子が泣く夜、旭良は奏子を精一杯、力の限り抱き締める。
 しかし、奏子は何の反応も示さない。呆けたように宙を見つめる奏子に旭良は諦めることなく、耳元で愛を囁き、愛を供する。
 そして、ようやく能面のようだった奏子の表情に変化が現れ、小さな吐息を漏らす瞬間、旭良はその躰を全て奏子に預ける。

 子を産めないのに、それは非生産的といえるその行為に奏子は傷ついている。旭良の愛は奏子の傷を更にえぐる。それは旭良にもよくわかっていた。
 けれど、奏子を旭良は心から愛している。そのことを奏子にわかって欲しい。二人の愛の結晶の可愛い我が子をこの腕に抱くことが出来なくても、一生、旭良は奏子を愛し続けるのだと。

 真夜中の静謐な時が訪れ、ようやく安らかに寝息を立てる奏子のまなじりの涙の痕をそっと拭い、旭良は出逢った頃のように愛らしい奏子の寝顔をずっと見つめている。
 その限りなく広大な淋しさを伴う蒼い夜がまた更けていくのを感じながら。
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