7 / 12
ふたりだけのアラベスク
しおりを挟む
奏子が昼食の後片付けをしようとしていた時、携帯の着信音が鳴った。
『『PRIMEVERE』でお茶をしています。 佐伯清志郎』
そのたった一言の清志郎からのメールは、暗に奏子に『PRIMEVERE』に来て欲しいという誘いなのだろう。
どうすればいい。
どうすればいいの……。
行ってはいけない。逢いに行っては……。
わかっている。理性はそう奏子を止める。
しかし。
清志郎に逢いたい……。
清志郎に逢いたかった。
ずっと清志郎のことを考えていた。
食事をする時も、お風呂に入っている時も、そして……。
その本能に抗えず、奏子は弾かれるように身を翻すと『PRIMEVERE』へと足を向けた。
「奏子さん」
ノーパソのキーを打っていた手を止め、奏子を認めると清志郎は言った。
「そんなに慌ててどうしました?」
あなたが。
あなたがメールをくださったから、私は息せき切ってここまで来てしまったのに……あなたは何もなかったような顔をなさるんですね。
そう奏子は思ったが、口には出せなかった。
踵を返そうとしたその時。
「奏子さん」
清志郎は奏子の名を呼んだ。
「来て下さって嬉しいです」
それは、穏やかに落ち着いた笑みで。
不安に泣きそうな奏子を包むように。
「清志郎さん……」
奏子はただその場に立ち尽くしていた。
***
それから──────
奏子は、清志郎からメールが届くのを心待ちにするようになった。
そして、メールが届く度に『PRIMEVERE』を訪れ、清志郎と会話を重ねるようになった。
それは身の回りの些細な雑事より、音楽や文学などの芸術、そして恋の話が多かった。
奏子には旭良以外の恋愛経験はほとんどないがそれでも、それ故か熱く『恋』を語る清志郎の話には強く惹かれた。
清志郎は恋には長けていた。
十七歳の時の初恋のクラスメートとの交際と別れ。そして、大人になって幾人もの女性を愛し、結局、その初恋の女性と結ばれ、それが癌で亡くなった清志郎の妻だという。
そして、清志郎は言った。
「肉体だけの関係が悪いとは僕は思いません。そういうことが必要な時期もある。僕は結婚してもある女性と関係を持っていたことがあります。僕は妻を愛していたし、彼女も夫を愛していた。僕達は互いの家庭を壊す気など毛頭なかった。けれど、それは激しく互いの躰を貪り、求め合った。でも」
清志郎は、いつものラテのカップを口元に運び、そして続けた。
「そう。いつの時だったか、彼女とホテルのバーで飲んでいて、ふと見つめ合い、お互いに失笑したんです。どうして自分たちはここにいるんだろう、て。結局、その夜、彼女とは部屋に行かず、熱いキスを交わして別れました。彼女は、『ありがとう。今まで楽しかった』とだけ言って去って行きました。それが最後でした」
清志郎はじっと奏子の黒い瞳を見つめる。
「奏子さん。どんなに肌を重ねても、どんなにお互いを求めても、それは一瞬の時に過ぎません。いつかそれは壊れてしまう。無へと帰する。だから。僕は貴女とは美しい関係でいたい。男女の仲を越えた友情という青い空の雲の彼方で貴女と関係を結びたい。そうすれば僕達はずっと二人で、ふたりの華やかな、ふたりだけのアラベスクを奏で続けることが出来る」
そう確かに、出逢った頃の清志郎は言っていたのに。
奏子は旭良を心から愛しているし、それ以上に旭良から愛されている。また、間違っても『不倫』をするような性格ではない。
なのに、何故……。自分でも自分の気持ちが掴めない。
徒歩十分という近所とは言え勿論、奏子は清志郎を自宅に招いたりは絶対にしない。また、清志郎が言葉巧みに自分の部屋に奏子を誘うこともない。
決して、躰を重ねるわけではない。
キスも手を触れることすらしない。
しかし、奏子の清志郎との関係は、心の距離は縮まり、深まっていくばかりだった。
***
「かなちゃん……」
旭良が奏子の躰をゆっくりと引き寄せる。
ふたりのシルエットが重なる。
「あらくん……」
旭良の唇の熱さを感じながら、譫言のように奏子は旭良の名を呟く。
奏子は固く目を閉じ、旭良の躰を、心を、愛を感じる。
そう、目の前にいるのは旭良なのに。
脳髄の奥のどこか密やかに醒めた一点で、奏子は別のことを考えている。
この腕が。
この唇が。
もし、清志郎だったら……。
奏子は甘い吐息を発し、その夜もどこまでも深く、暗い闇の底へ堕ちてゆく。
『『PRIMEVERE』でお茶をしています。 佐伯清志郎』
そのたった一言の清志郎からのメールは、暗に奏子に『PRIMEVERE』に来て欲しいという誘いなのだろう。
どうすればいい。
どうすればいいの……。
行ってはいけない。逢いに行っては……。
わかっている。理性はそう奏子を止める。
しかし。
清志郎に逢いたい……。
清志郎に逢いたかった。
ずっと清志郎のことを考えていた。
食事をする時も、お風呂に入っている時も、そして……。
その本能に抗えず、奏子は弾かれるように身を翻すと『PRIMEVERE』へと足を向けた。
「奏子さん」
ノーパソのキーを打っていた手を止め、奏子を認めると清志郎は言った。
「そんなに慌ててどうしました?」
あなたが。
あなたがメールをくださったから、私は息せき切ってここまで来てしまったのに……あなたは何もなかったような顔をなさるんですね。
そう奏子は思ったが、口には出せなかった。
踵を返そうとしたその時。
「奏子さん」
清志郎は奏子の名を呼んだ。
「来て下さって嬉しいです」
それは、穏やかに落ち着いた笑みで。
不安に泣きそうな奏子を包むように。
「清志郎さん……」
奏子はただその場に立ち尽くしていた。
***
それから──────
奏子は、清志郎からメールが届くのを心待ちにするようになった。
そして、メールが届く度に『PRIMEVERE』を訪れ、清志郎と会話を重ねるようになった。
それは身の回りの些細な雑事より、音楽や文学などの芸術、そして恋の話が多かった。
奏子には旭良以外の恋愛経験はほとんどないがそれでも、それ故か熱く『恋』を語る清志郎の話には強く惹かれた。
清志郎は恋には長けていた。
十七歳の時の初恋のクラスメートとの交際と別れ。そして、大人になって幾人もの女性を愛し、結局、その初恋の女性と結ばれ、それが癌で亡くなった清志郎の妻だという。
そして、清志郎は言った。
「肉体だけの関係が悪いとは僕は思いません。そういうことが必要な時期もある。僕は結婚してもある女性と関係を持っていたことがあります。僕は妻を愛していたし、彼女も夫を愛していた。僕達は互いの家庭を壊す気など毛頭なかった。けれど、それは激しく互いの躰を貪り、求め合った。でも」
清志郎は、いつものラテのカップを口元に運び、そして続けた。
「そう。いつの時だったか、彼女とホテルのバーで飲んでいて、ふと見つめ合い、お互いに失笑したんです。どうして自分たちはここにいるんだろう、て。結局、その夜、彼女とは部屋に行かず、熱いキスを交わして別れました。彼女は、『ありがとう。今まで楽しかった』とだけ言って去って行きました。それが最後でした」
清志郎はじっと奏子の黒い瞳を見つめる。
「奏子さん。どんなに肌を重ねても、どんなにお互いを求めても、それは一瞬の時に過ぎません。いつかそれは壊れてしまう。無へと帰する。だから。僕は貴女とは美しい関係でいたい。男女の仲を越えた友情という青い空の雲の彼方で貴女と関係を結びたい。そうすれば僕達はずっと二人で、ふたりの華やかな、ふたりだけのアラベスクを奏で続けることが出来る」
そう確かに、出逢った頃の清志郎は言っていたのに。
奏子は旭良を心から愛しているし、それ以上に旭良から愛されている。また、間違っても『不倫』をするような性格ではない。
なのに、何故……。自分でも自分の気持ちが掴めない。
徒歩十分という近所とは言え勿論、奏子は清志郎を自宅に招いたりは絶対にしない。また、清志郎が言葉巧みに自分の部屋に奏子を誘うこともない。
決して、躰を重ねるわけではない。
キスも手を触れることすらしない。
しかし、奏子の清志郎との関係は、心の距離は縮まり、深まっていくばかりだった。
***
「かなちゃん……」
旭良が奏子の躰をゆっくりと引き寄せる。
ふたりのシルエットが重なる。
「あらくん……」
旭良の唇の熱さを感じながら、譫言のように奏子は旭良の名を呟く。
奏子は固く目を閉じ、旭良の躰を、心を、愛を感じる。
そう、目の前にいるのは旭良なのに。
脳髄の奥のどこか密やかに醒めた一点で、奏子は別のことを考えている。
この腕が。
この唇が。
もし、清志郎だったら……。
奏子は甘い吐息を発し、その夜もどこまでも深く、暗い闇の底へ堕ちてゆく。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
Sランクの年下旦那様は如何でしょうか?
キミノ
恋愛
職場と自宅を往復するだけの枯れた生活を送っていた白石亜子(27)は、
帰宅途中に見知らぬイケメンの大谷匠に求婚される。
二日酔いで目覚めた亜子は、記憶の無いまま彼の妻になっていた。
彼は日本でもトップの大企業の御曹司で・・・。
無邪気に笑ったと思えば、大人の色気で翻弄してくる匠。戸惑いながらもお互いを知り、仲を深める日々を過ごしていた。
このまま、私は彼と生きていくんだ。
そう思っていた。
彼の心に住み付いて離れない存在を知るまでは。
「どうしようもなく好きだった人がいたんだ」
報われない想いを隠し切れない背中を見て、私はどうしたらいいの?
代わりでもいい。
それでも一緒にいられるなら。
そう思っていたけれど、そう思っていたかったけれど。
Sランクの年下旦那様に本気で愛されたいの。
―――――――――――――――
ページを捲ってみてください。
貴女の心にズンとくる重い愛を届けます。
【Sランクの男は如何でしょうか?】シリーズの匠編です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる