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第26話 再び訪れた婚約の申し出
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柔らかな日差しが屋敷の庭を照らしていた。
雨の多い時期が過ぎ、久しぶりに穏やかな空が広がっている。
領地の子どもたちが温室の前ではしゃぎ、花壇の花に水をやっていた。
あの惨劇の夜が嘘のように、世界は明るい。
グレイスはその光景を見つめながら深く息をついた。
あれから数週間、領は落ち着きを取り戻している。
王都から密偵が再び潜入した形跡もなく、交易も順調だ。
けれど彼女の胸の奥には、まだ一つの問いが残っていた。
――自分は、これから何者として生きるのか。
補佐官としての立場は確かに定められた。
領民は彼女を信頼し、働きを称えてくれる。
だが、この仕事を越えたところに芽生えた感情は、これからどうすればいいのだろう。
窓辺から見下ろすと、執務室の方へ歩いていく黒い外套の姿が見えた。
無意識のうちに彼を目で追ってしまう。
その背中を見つめていると、胸があたたかく、苦しい。
グレイスは首を振り、ペンを握り直した。
「……仕事に集中しなきゃ。」
そのとき、扉がノックされた。
「グレイス様、急なお客様が――」
「お客様?」
扉の向こうからリーナが少し慌てた声を出す。
「はい。王都から馬車が。王国使節団の紋章をつけております!」
グレイスの胸が一瞬で冷たくなった。
嫌な予感が走る。
また王家から――。
「公爵様にはもうお伝えしましたか?」
「はい。すぐに応接間に向かわれました。」
「わかりました。わたしも向かいます。」
書類を閉じ、急ぎ足で廊下を渡る。
夕陽が窓から射し込み、石の床に影を落としていた。
***
応接間に入ると、既にレオンと客人が向かい合っていた。
年配の文官のような男が一人、王家の印章入りの封筒を片手にしている。
「突然の訪問、失礼いたします。アルドレッド公爵閣下、そして補佐官グレイス殿。」
「……何の御用ですか。」
レオンの声は穏やかだが、目の奥に警戒の光が宿っている。
男は封筒を差し出した。
「王城よりの通達です。王太子殿下が正式に退き、新王が即位されました。
そして新国王陛下から、二つの知らせがございます。」
彼はそこで一息つき、言葉を選ぶように続けた。
「――一つは、アルドレッド公爵領の功績に対する感謝状と恩爵の授与。
そしてもう一つは……」
視線がグレイスに向けられる。
「元アルベール家令嬢、アイリス・アルベール殿――現在のグレイス殿に対し、
新王より再び“王家縁者としての婚約”の打診がございます。」
「……何と?」
一瞬、空気が止まった。
グレイスの頭が真っ白になる。
再び、王家の婚約者?
それはあの悪夢を連想させる言葉だった。
レオンはゆっくりと立ち上がる。
「それは……どういう意図でしょう。」
「旧王太子殿下の後悔と謝罪は公にされております。
“平民として身を隠すには惜しい知恵と徳がある”として、
王家に近い立場に戻すよう、新王から申し渡されました。
もちろん、決定ではなくあくまで提案です。」
グレイスは息を呑んだ。
王家がまた自分の人生を動かそうとしている。
まるで過去が手を伸ばして掴みにくるように。
だが、それ以上に、隣に立つ公爵の静けさが怖かった。
怒りも拒絶もない。
ただ深い沈黙。
「……公爵様?」
レオンはゆっくりと顔を上げた。
「新王は、彼女を王家に引き戻すために使者を送ったと?」
「ええ。正式な縁組相手としては、現王弟君を想定されています。」
「つまり“補佐官”である彼女を、公爵家から取り上げるという話か。」
静寂。
男が喉を動かして言葉を続けた。
「これはあくまで名誉のため。拒否することも当然可能です。
ただ、これは国の“恩義”に関わる話でもありますので、慎重に――」
「結構だ。」
言葉を遮ったのは、低く響く声だった。
「この女は国の所有物ではない。
功績は本人のものだ。恩義を押しつけるなら、俺が断る。」
「で、ですが――」
「恩爵も、再婚の打診も、すべて丁重に断れ。」
有無を言わせぬ声音に、使者は反論を飲み込んだ。
「……了解しました。正式な返答は書面でお願いいたします。」
そう言って男は退出した。
扉が閉まったあと、空気が重く沈む。
グレイスは、ただ立ち尽くしていた。
「……わたし、また王家に戻ることになるんでしょうか。」
「戻らない。」
「でも、公爵様――」
「お前が行きたいなら止めない。だが、それは“お前が望む時”だけだ。」
その言葉に、心が熱くなり、涙がこぼれそうになる。
「王家がどうあれ、俺はお前を手放す気はない。」
「……公爵様。」
「お前がここに来た理由を俺は知っている。居場所を探していたんだろう。
なら、これがその場所だ。アルドレッド家はお前を従者としてではなく、“一人の人間”として迎えた。」
グレイスの瞳から涙が溢れた。
彼は続ける。
「王家の望む“再婚”なんてくだらん。
……だが、もしお前がこの地を離れたい理由が“俺のせい”なら、その時は止めない。」
「そんなことありません!」
思わず声を上げた。
「最初はただ、生きるためにここへ来た。でも今は違う。
ここで、貴方と一緒に未来を見たい。」
その言葉に、レオンが細く息をついた。
彼の目は揺れていた。
「……本当にそれでいいのか? 俺はお前を幸福にする保証などない。」
「幸せは、誰かにもらうものじゃありません。自分で選ぶんです。」
沈黙が落ちる。
次の瞬間、彼は歩み寄って、彼女の手を取った。
その仕草は、まるで誓いのように静かだった。
「グレイス。」
「はい。」
「なら、王家の打診など忘れろ。
代わりに、俺から正式に申し出る。」
「え……?」
「お前を、俺の妻に迎えたい。
公の婚約としてでも、心の契りとしてでも構わん。
お前の答えが欲しい。」
鼓動が走る。混乱と涙が一度に込み上げ、言葉が出なかった。
それでも、彼女は顔を上げた。
「わたしは……公爵様の傍にいたい。
王都でも、どこでもなく、ここで。
ですから――はい。」
彼の瞳が柔らかく揺れる。
けれど、次の言葉は意外なものだった。
「もう一度だけ問う。
それは“義務として”か、“愛として”か。」
グレイスは一瞬黙り、そして静かに微笑んだ。
「……愛として、です。」
その答えに、レオンが初めて心から笑った。
重い災厄と血の記憶をくぐり抜けた男の、穏やかで温かい笑み。
「ならば、改めて言おう。俺と共にこの地に生きろ、グレイス。」
「喜んで。」
外では風が吹き、夕陽が二人の手を照らした。
長い旅路の果てに、ようやく辿り着いた二人の約束。
もう誰にも壊すことはできなかった。
(第26話 再び訪れた婚約の申し出 了)
雨の多い時期が過ぎ、久しぶりに穏やかな空が広がっている。
領地の子どもたちが温室の前ではしゃぎ、花壇の花に水をやっていた。
あの惨劇の夜が嘘のように、世界は明るい。
グレイスはその光景を見つめながら深く息をついた。
あれから数週間、領は落ち着きを取り戻している。
王都から密偵が再び潜入した形跡もなく、交易も順調だ。
けれど彼女の胸の奥には、まだ一つの問いが残っていた。
――自分は、これから何者として生きるのか。
補佐官としての立場は確かに定められた。
領民は彼女を信頼し、働きを称えてくれる。
だが、この仕事を越えたところに芽生えた感情は、これからどうすればいいのだろう。
窓辺から見下ろすと、執務室の方へ歩いていく黒い外套の姿が見えた。
無意識のうちに彼を目で追ってしまう。
その背中を見つめていると、胸があたたかく、苦しい。
グレイスは首を振り、ペンを握り直した。
「……仕事に集中しなきゃ。」
そのとき、扉がノックされた。
「グレイス様、急なお客様が――」
「お客様?」
扉の向こうからリーナが少し慌てた声を出す。
「はい。王都から馬車が。王国使節団の紋章をつけております!」
グレイスの胸が一瞬で冷たくなった。
嫌な予感が走る。
また王家から――。
「公爵様にはもうお伝えしましたか?」
「はい。すぐに応接間に向かわれました。」
「わかりました。わたしも向かいます。」
書類を閉じ、急ぎ足で廊下を渡る。
夕陽が窓から射し込み、石の床に影を落としていた。
***
応接間に入ると、既にレオンと客人が向かい合っていた。
年配の文官のような男が一人、王家の印章入りの封筒を片手にしている。
「突然の訪問、失礼いたします。アルドレッド公爵閣下、そして補佐官グレイス殿。」
「……何の御用ですか。」
レオンの声は穏やかだが、目の奥に警戒の光が宿っている。
男は封筒を差し出した。
「王城よりの通達です。王太子殿下が正式に退き、新王が即位されました。
そして新国王陛下から、二つの知らせがございます。」
彼はそこで一息つき、言葉を選ぶように続けた。
「――一つは、アルドレッド公爵領の功績に対する感謝状と恩爵の授与。
そしてもう一つは……」
視線がグレイスに向けられる。
「元アルベール家令嬢、アイリス・アルベール殿――現在のグレイス殿に対し、
新王より再び“王家縁者としての婚約”の打診がございます。」
「……何と?」
一瞬、空気が止まった。
グレイスの頭が真っ白になる。
再び、王家の婚約者?
それはあの悪夢を連想させる言葉だった。
レオンはゆっくりと立ち上がる。
「それは……どういう意図でしょう。」
「旧王太子殿下の後悔と謝罪は公にされております。
“平民として身を隠すには惜しい知恵と徳がある”として、
王家に近い立場に戻すよう、新王から申し渡されました。
もちろん、決定ではなくあくまで提案です。」
グレイスは息を呑んだ。
王家がまた自分の人生を動かそうとしている。
まるで過去が手を伸ばして掴みにくるように。
だが、それ以上に、隣に立つ公爵の静けさが怖かった。
怒りも拒絶もない。
ただ深い沈黙。
「……公爵様?」
レオンはゆっくりと顔を上げた。
「新王は、彼女を王家に引き戻すために使者を送ったと?」
「ええ。正式な縁組相手としては、現王弟君を想定されています。」
「つまり“補佐官”である彼女を、公爵家から取り上げるという話か。」
静寂。
男が喉を動かして言葉を続けた。
「これはあくまで名誉のため。拒否することも当然可能です。
ただ、これは国の“恩義”に関わる話でもありますので、慎重に――」
「結構だ。」
言葉を遮ったのは、低く響く声だった。
「この女は国の所有物ではない。
功績は本人のものだ。恩義を押しつけるなら、俺が断る。」
「で、ですが――」
「恩爵も、再婚の打診も、すべて丁重に断れ。」
有無を言わせぬ声音に、使者は反論を飲み込んだ。
「……了解しました。正式な返答は書面でお願いいたします。」
そう言って男は退出した。
扉が閉まったあと、空気が重く沈む。
グレイスは、ただ立ち尽くしていた。
「……わたし、また王家に戻ることになるんでしょうか。」
「戻らない。」
「でも、公爵様――」
「お前が行きたいなら止めない。だが、それは“お前が望む時”だけだ。」
その言葉に、心が熱くなり、涙がこぼれそうになる。
「王家がどうあれ、俺はお前を手放す気はない。」
「……公爵様。」
「お前がここに来た理由を俺は知っている。居場所を探していたんだろう。
なら、これがその場所だ。アルドレッド家はお前を従者としてではなく、“一人の人間”として迎えた。」
グレイスの瞳から涙が溢れた。
彼は続ける。
「王家の望む“再婚”なんてくだらん。
……だが、もしお前がこの地を離れたい理由が“俺のせい”なら、その時は止めない。」
「そんなことありません!」
思わず声を上げた。
「最初はただ、生きるためにここへ来た。でも今は違う。
ここで、貴方と一緒に未来を見たい。」
その言葉に、レオンが細く息をついた。
彼の目は揺れていた。
「……本当にそれでいいのか? 俺はお前を幸福にする保証などない。」
「幸せは、誰かにもらうものじゃありません。自分で選ぶんです。」
沈黙が落ちる。
次の瞬間、彼は歩み寄って、彼女の手を取った。
その仕草は、まるで誓いのように静かだった。
「グレイス。」
「はい。」
「なら、王家の打診など忘れろ。
代わりに、俺から正式に申し出る。」
「え……?」
「お前を、俺の妻に迎えたい。
公の婚約としてでも、心の契りとしてでも構わん。
お前の答えが欲しい。」
鼓動が走る。混乱と涙が一度に込み上げ、言葉が出なかった。
それでも、彼女は顔を上げた。
「わたしは……公爵様の傍にいたい。
王都でも、どこでもなく、ここで。
ですから――はい。」
彼の瞳が柔らかく揺れる。
けれど、次の言葉は意外なものだった。
「もう一度だけ問う。
それは“義務として”か、“愛として”か。」
グレイスは一瞬黙り、そして静かに微笑んだ。
「……愛として、です。」
その答えに、レオンが初めて心から笑った。
重い災厄と血の記憶をくぐり抜けた男の、穏やかで温かい笑み。
「ならば、改めて言おう。俺と共にこの地に生きろ、グレイス。」
「喜んで。」
外では風が吹き、夕陽が二人の手を照らした。
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