『働いたら負けだと思ったので、何もしなかったら勝手に勝ちました』

ふわふわ

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第32話 静かな余白に差し込む影

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第32話 静かな余白に差し込む影


---

 日常が戻ると、
 世界は油断する。

 問題が起きないことを、
 永続する前提で考え始めるからだ。


---

「お嬢様」

 朝、マリエが少しだけ声を低くした。

「王都から、
 “非公式な来訪”の打診が来ています」

「非公式?」

 ファワーリスは、カップを置いた。

「はい。
 名目は“近況伺い”ですが……」

「目的が曖昧な時ほど、
 目的は一つですわ」

 彼女は淡々と言った。

「責任の押し付け」


---

 使者は昼前に現れた。
 肩書は立派だが、
 所属は曖昧。
 言葉は丁寧だが、
 内容は空疎。

「最近の安定は、
 大変すばらしい成果だと
 上でも話題になっておりまして」

「それは結構ですわ」

「つきましては――
 その“成功の要因”を
 共有していただければ」

 ファワーリスは、少し考える素振りを見せてから、
 首を横に振った。

「共有できる要因は、ありません」

「……え?」

「私は、
 何もしていませんので」

 使者は、一瞬だけ言葉に詰まる。


---

「ですが……
 誰かが中心にいなければ、
 安定は保てないのでは?」

「誤解ですわ」

 穏やかな否定。

「安定は、
 中心がいない時にこそ、
 保たれます」

「中心がいない……?」

「ええ。
 誰かが中心になると、
 その人が欠けた瞬間に、
 全てが崩れますから」

 使者は、黙り込んだ。


---

 話は、そこで終わった。
 合意も、約束も、
 次の訪問もない。

 ただ一つ、
 “持ち帰るべき結論”だけが残った。


---

「……どうなるでしょうか」

 見送った後、
 マリエが小さく呟く。

「静かになります」

「それは……良い方向に?」

「ええ」

 ファワーリスは、窓の外を見た。

「責任を預けられない相手には、
 人は近づきません」


---

 夕方。
 王都では、
 別の場所で別の会話が交わされていた。

「彼女は、
 役に立たないな」

「いや……
 “使えない”が正しい」

「……それが一番厄介だ」

 結論は、静かだった。

 ファワーリス・シグナスは、
 取り込めない。
 背負わせられない。
 象徴にもならない。

 ――つまり、
 計画に組み込めない。


---

 夜。

 書斎で、
 ファワーリスは日記を開いた。

『余白』

 それだけを書き、
 ペンを置く。

 余白は、
 埋められるためにあるのではない。

 呼吸するためにある。

(何もしない、という選択は)

 攻撃ではない。
 防御でもない。

(ただ、
 踏み込ませない、というだけ)


---

 ファワーリス・シグナスは、
 今日も何もしなかった。

 だが、
 その余白に踏み込もうとした影を、
 言葉一つで静かに弾いた。

 何もしない。
 それは、
 境界線を守るための、
 最も簡潔な方法だった。

 そして世界は、
 もう一度だけ、
 彼女を“中心にしない”選択を
 学び始めていた。
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