婚約破棄ですか?構いませんわ。ですがその契約、すべて我が家のものです

ふわふわ

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第5話 北棟の部屋

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第5話 北棟の部屋

ヴァレリオン伯爵家の屋敷、その北棟。

本館から渡り廊下を越えた先にあるその建物は、かつては来客用の別館として使われていたものだが、今ではほとんど放置されている。

夜の風が廊下を吹き抜け、古い窓枠がわずかに軋む。

カリスタはその廊下を静かに歩いていた。

足音が、やけに響く。

この棟には、ほとんど人が住んでいないからだ。

使用人も滅多に来ない。

照明も最低限しか灯されていない。

屋敷の中でありながら、まるで別世界だった。

部屋の扉を開ける。

埃の匂いが、わずかに漂った。

だが、思ったほど酷くはない。

誰かが最低限の掃除だけはしているらしい。

カリスタは室内を見回した。

古いベッド。

小さな机。

椅子が一脚。

窓から見える庭は、手入れされていない荒れた植え込みだった。

王太子妃候補だった令嬢の部屋としては、あまりにも質素だ。

だがカリスタは何も言わない。

ただドレスの裾を整え、椅子に腰を下ろす。

静かな部屋。

屋敷の喧騒は、ここまでは届かない。

しばらくして。

扉が軽く叩かれた。

カリスタは顔を上げる。

「どうぞ」

扉が開いた。

入ってきたのは、一人の老執事だった。

白髪を整えた老人。

この屋敷で長く仕えている男。

名をグレイと言う。

彼は静かに頭を下げた。

「お嬢様」

その呼び方に、カリスタは少しだけ目を細める。

この屋敷で彼女を「お嬢様」と呼ぶ者は、もうほとんどいない。

「こんばんは、グレイ」

グレイは部屋の様子を見回した。

表情は変わらないが、その瞳の奥にはわずかな怒りがあった。

「……北棟とは」

「随分な扱いでございます」

カリスタは肩をすくめる。

「仕方ありませんわ」

「私はもう、王太子妃候補ではありませんもの」

グレイはゆっくりと扉を閉めた。

それから低い声で言う。

「舞踏会の件は聞きました」

カリスタは微笑む。

「王都中が知っているでしょう」

「きっと明日には、新聞にも載りますわ」

グレイは少しだけ眉をひそめた。

「……あの方々は、度が過ぎております」

カリスタは机の上に置かれたランプを見つめる。

炎が小さく揺れていた。

「それで?」

「屋敷の様子は」

グレイは短く答えた。

「予想通りです」

「奥様は上機嫌」

「ヴァネッサ様も」

そして続ける。

「旦那様は王宮へ向かわれました」

カリスタは頷く。

「王太子殿下への挨拶でしょうね」

グレイは低く言った。

「……お嬢様」

「このままでよろしいのですか」

カリスタは少しだけ首を傾げる。

「何がです?」

「婚約破棄」

「毒の疑い」

「屋敷での扱い」

グレイの声は静かだったが、怒りを押し殺していた。

「本来ならば、公爵家が動くべき問題です」

カリスタは窓の外を見る。

夜の庭。

風が木を揺らしている。

「まだです」

短い答えだった。

グレイは黙る。

カリスタは続けた。

「予定通り」

その言葉に、グレイの目が細くなる。

「……やはり」

カリスタは小さく笑った。

「舞踏会での出来事は、想定より少し派手でしたけれど」

「大筋は変わりませんわ」

グレイはゆっくり頷いた。

「では」

「次の段階に」

カリスタは頷いた。

「ええ」

そして静かに言う。

「契約は終了しましたもの」

グレイは深く一礼する。

「承知いたしました」

それから小さな封筒を机の上に置いた。

「こちらは本日届いたものです」

カリスタは封筒を見た。

王都では見ない紋章。

銀の獅子。

隣国レイグラン帝国の紋章だった。

カリスタは封を開ける。

中には短い手紙が入っていた。

そこには、簡潔な文章が書かれている。

『お会いしたい』

『カリスタ・ヴァレリオン殿』

署名は一つ。

アルヴァルド。

カリスタは少しだけ目を細めた。

「……随分早いですわね」

グレイは低く言う。

「向こうも動いているのでしょう」

カリスタは手紙を閉じた。

「そうでしょうね」

そして小さく呟く。

「王太子殿下は」

「まだ何も理解していない」

グレイは微かに笑った。

「理解する頃には」

「手遅れでしょう」

カリスタは窓の外を見た。

遠くに王宮の灯りが見える。

「ええ」

静かな声だった。

「もうすぐですわ」

その頃。

王宮では。

ディオン王太子が酒を飲みながら笑っていた。

「せいせいした」

「やっとあの女から解放された」

隣ではヴァネッサが微笑んでいる。

「殿下……」

ディオンは彼女の肩を抱いた。

「これからはお前の時代だ」

ヴァネッサは嬉しそうに頷く。

だがその夜。

まだ誰も知らない。

王国そのものを揺るがす変化が、すでに始まっていることを。
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