婚約破棄された令嬢ですが、国が自走し始めたので私はもう口出ししません

ふわふわ

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第十話 選ぶという行為

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第十話 選ぶという行為

 別邸へ戻った夜、私は灯りを落とした書斎で一人、静かに考えていた。

 机の上に置かれているのは、クロイツ家から渡された契約書の写し。
 厚みのある紙ではない。
 条文も多くはない。

 だが、その一文一文は、これまで私が触れてきたどの契約よりも、率直で誠実だった。

「……縛られない代わりに、誤魔化しもない」

 私は小さく息を吐いた。

 王家との契約は、いつも曖昧だった。
 責任の所在はぼやけ、義務は暗黙の了解として積み重なり、
 気づけば“私がやるのが当然”になっていた。

 それが、当たり前だと思い込んでいた。

「エルミナ様」

 マリアが、そっと紅茶を置く。

「お疲れでしょう。今日はもう……」

「ありがとう。でも、もう少しだけ」

 私は微笑み、再び書類に視線を落とす。

 アイゼン・クロイツ。
 彼は、私に何も約束していない。

 地位も、名誉も、守られた立場も。
 あるのはただ、能力に応じた裁量と責任。

 ――それを、私はどう感じているのか。

 答えは、すでに胸の奥にあった。

「……怖くは、ないのね」

 不思議なことに、そうだった。

 王城を去る時よりも、
 婚約を破棄された夜よりも、
 今のほうが、よほど静かで、確かな感覚がある。

 私は、“選ぶ側”に立っている。

 一方、王城では。

「……エルミナが、返事を保留している?」

 アドリアン・ルクレールは、報告を受けて眉をひそめた。

「はい。クロイツ家からの正式な通知では、
 『検討中』とのことです」

「検討……」

 その言葉が、妙に胸に刺さる。

 かつて、彼女は“検討する側”ではなかった。
 選択肢を整え、最後の判断を委ねる側だった。

 だが今、彼女は選ぶ。

 王家か。
 隣国か。
 あるいは、どちらでもない道か。

「……話をさせてくれ」

 アドリアンは、低く言った。

「もう一度、直接」

 重臣たちは、言葉を失った。

「殿下」

 宰相が、静かに告げる。

「それは、もはや“交渉”ではありません」

「何が言いたい」

「殿下は、彼女に選ばれる立場ではない」

 その言葉は、容赦なかった。

 王太子という肩書が、
 すでに“当然の優位”ではなくなっている。

 それを、アドリアンはまだ受け入れきれていなかった。

 同じ頃、礼拝堂では。

 リーネが、一人で長椅子に座っていた。

 祈りの言葉は、もう口から出てこない。
 代わりに、胸に浮かぶのは不安ばかりだ。

「……エルミナ様は」

 思わず、名前が零れる。

 彼女が去ってから、
 自分が立っている場所が、どれほど不安定だったか。

 守られていたのは、自分ではなく、
 “聖女という役割”だったのだと、
 ようやく理解し始めていた。

 朝。

 私は、別邸の庭を歩いていた。
 夜露に濡れた芝が、足元で静かに音を立てる。

 ここに来てから、何度も自分に問いかけた。

 ――私は、何を望んでいるのか。

 答えは、驚くほど単純だった。

 自分で決めたい。
 自分の責任で、動きたい。

 それだけだ。

「……マリア」

「はい」

「クロイツ家へ、返事を」

 彼女が、少しだけ息を呑む。

「受ける、と?」

「正確には――」

 私は、空を見上げた。

「条件付きで、前向きに」

 縛られない。
 命令されない。
 だが、逃げもしない。

「私は、利用されるために行くのではない」

 マリアを見て、はっきりと言う。

「対等に、選び合うために行くの」

 それは、私にとって初めての感覚だった。

 午後、使者を通じて返事が送られる。

『提案に感謝します
 条件の詳細について、改めて協議を希望します
 ――エルミナ・ローゼンベルク』

 簡潔で、曖昧さのない文面。

 ほどなくして、返書が届いた。

『了解した
 日程は、貴女に合わせる
 ――アイゼン・クロイツ』

 それだけ。

 だが、その一行に、私は確かな安心を覚えた。

 夜、私は書斎で静かに微笑む。

 王家の婚約者だった私。
 支える側だった私。

 それらはすべて、過去だ。

「……選ぶというのは、こういうことなのね」

 誰かに与えられるのではなく、
 自分の足で立ち、手を伸ばす。

 その行為そのものが、
 こんなにも静かで、強いとは思わなかった。

 王城では、まだ混乱が続いている。
 聖女という偶像は揺れ、
 王太子は、自分の過ちと向き合い始めている。

 だが、私はもう、そこにはいない。

 選ばれる人生ではなく、
 選ぶ人生へ。

 その第一歩を踏み出したことを、
 この夜、私ははっきりと実感していた。
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