婚約破棄? めんどくさいのでちょうどよかった ――聖女もやめて、温泉でごくらくしてます

ふわふわ

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第8話 当たり前が崩れる音

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第8話 当たり前が崩れる音

 異変は、もはや「小さな」とは呼べなくなっていた。

 王都の朝は、悲鳴で始まった。

「火事だ! 南区画で建物が燃えている!」 「昨日の雷が原因らしい!」

 夜半に降った激しい雷雨。
 これまでは、雷が落ちても被害が出ることなどほとんどなかった。屋根に直撃しても、不思議と延焼せずに済んでいたからだ。

 ――これまでは。

 燃え広がる炎を前に、人々は呆然と立ち尽くす。

「こんなに、燃えるものだったか……?」 「水を! 早く!」

 消火作業は追いつかず、数棟が全焼した。
 幸い命を落とした者はいなかったが、重度の火傷を負った者が複数出た。

 大神殿に運び込まれた負傷者を前に、マーレン・エルバは言葉を失った。

「……こんな人数……」

 寝台はすでに埋まっている。
 廊下には、次の治癒を待つ人々が横たわっていた。

「順番に……順番に治しますから……!」

 声は震え、祈りの詠唱も、いつもより長くなる。

 力が足りない。
 集中が続かない。

 それでも、彼女はやめなかった。

 やめられなかった。

 一方、王城では緊急会議が開かれていた。

「事故と災害の発生件数が、急増しています」 「火災、倒壊、転落……どれも偶然とは言い難い」

 報告が重なるたび、ザガート・ビジョン・グランツの表情は険しくなっていく。

「なぜだ……?」 「新聖女がいるはずでは?」

 誰かが、言ってはいけないことを口にした。

「……以前は、こんなことは起きていませんでした」

 その言葉に、会議室が静まり返る。

 以前。
 つまり――リヴォルタ・レーレが、まだ王都にいた頃。

「馬鹿な」

 ザガートは即座に否定した。

「彼女は、何もしていなかった」 「記録にも、実績にも残っていない」

 だが、数字は嘘をつかない。

 事故件数。
 負傷者数。
 災害対応の頻度。

 すべてが、婚約破棄と彼女の離脱を境に、明確に跳ね上がっている。

「……偶然だ」

 そう言い聞かせるように呟いたが、胸の奥に小さな不安が芽生えていた。

 同じ頃、温泉郷では。

「今日は、少し湯が熱いですね」

 リヴォルタは露天風呂で、のんびりと空を見上げていた。
 雲一つない青空。風も穏やかだ。

「でも、気持ちいい……」

 隣国に位置するこの温泉地では、天候はむしろ安定していた。
 雨は適度に降り、雷も起きない。山道は安全で、魔物の気配もない。

「最近、観光客が増えましてね」

 宿の主人が、嬉しそうに話す。

「安心して過ごせる土地だと評判なんです」 「そうなんですか」 「ええ。不思議なくらい」

 リヴォルタは、微笑んで頷いた。

「……いいことですね」

 その“安心”の中心に、自分がいることを、まったく理解していないまま。

 夜、王都ではまた事故が起きた。

 橋の一部が崩れ、数人が川に落ちた。
 重傷者が出て、治癒の祈りが追いつかない。

 人々の間に、焦りと恐怖が広がり始める。

「どうして、こんなことに……」 「聖女様がいるのに……」

 誰も、答えを持たない。

 ただ一つ確かなのは――
 “当たり前だった平和”が、確実に音を立てて崩れ始めているという事実だけだった。

 一方、温泉郷。

「……明日も、朝風呂にしましょう」

 布団に潜り込みながら、リヴォルタは満足そうに呟く。

 彼女の周囲だけが、
 相変わらず、信じられないほど穏やかだった。

 その差が意味するものを、
 まだ誰も、正しく理解していなかった。
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