婚約破棄? めんどくさいのでちょうどよかった ――聖女もやめて、温泉でごくらくしてます

ふわふわ

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第17話 何もしない価値

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第17話 何もしない価値

 温泉郷の朝は、相変わらず穏やかだった。

 湯気の向こうで、木々がゆっくりと揺れる。鳥の声は一定で、風の向きも変わらない。リヴォルタ・レーレは、湯に肩まで浸かりながら、ぼんやりとその様子を眺めていた。

「……今日も、何も起きませんね」

 独り言のような呟き。
 だが、その“何も起きない”という事実こそが、今やこの国の誇りになっていた。

 午前中、トレイル・ブレイザーは評議会に出席していた。議題は、最近の経済指標と治安報告だ。

「事故件数、引き続きゼロに近い数値です」 「治療費の支出は、前年同月比で大幅減」 「農作物の不作も、確認されていません」

 淡々と読み上げられる数字は、どれも“地味”だった。派手な成果はない。英雄譚もない。だが、積み重ねられた安定は、確実に国を豊かにしている。

「よろしい」

 王は一言だけ告げた。

「これまで通りで行く。余計な施策は不要だ」

 誰かが、恐る恐る手を挙げる。

「……あの方の存在を、国民に公表すべきでは?」

 沈黙が落ちた。

 トレイルは首を横に振る。

「公表しない。称号も与えない」 「ですが……」 「評価した瞬間、価値は歪む」

 彼は、静かに続けた。

「“何もしない”という状態は、
 注目された瞬間に崩れる。
 期待が生まれ、役目が生まれ、
 やがて“何かをさせる”圧力になる」

 その言葉に、誰も反論できなかった。

 昼下がり、温泉郷の町を歩くリヴォルタは、商店の前で足を止めた。新しくできた菓子屋だ。

「よろしければ、どうぞ」

 店主が差し出した菓子は、失敗の少ない定番の味。奇抜さはないが、安心して食べられる。

「おいしいです」 「それはよかった」

 会話はそれだけ。
 彼女は特別扱いを望まないし、店主もまた、それをしない。

 その夜、本国では――

 ザガート・ビジョン・グランツが、静かな会議室で地図を眺めていた。国境付近の被害は、確かに減っている。だが、中心部の不安定さは消えない。

「……距離、か」

 彼は、ようやく悟っていた。
 奪い返すことでは、取り戻せない。
 命じることでも、戻らない。

 必要なのは、環境だった。
 “何もしない”を許す、環境。

 だが、その環境を壊したのは、他ならぬ自分たちだ。

 夜更け。
 温泉郷の宿で、リヴォルタは布団に入っていた。

「……明日は、散歩にしますか」

 それだけを考え、目を閉じる。

 遠くで、風が少しだけ強く吹いた。
 だが、すぐに収まる。

 この国では、
 何もしないことが、最も高い価値として守られている。

 そしてその価値は、
 声高に語られないからこそ、
 今日も静かに、確かに、世界を支えていた。
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