婚約破棄? めんどくさいのでちょうどよかった ――聖女もやめて、温泉でごくらくしてます

ふわふわ

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第31話 それでも、近づく者はいる

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第31話 それでも、近づく者はいる

 世界が距離を学び、
 呼ばないという安定を選んだ――
 その裏で。

 どうしても、理解できない者は、必ず現れる。

 温泉郷の入口、例の標識の前で、ひとりの男が立ち止まっていた。

「……静養地、ね」

 旅装は上質。
 だが、徽章も旗もつけていない。

 護衛も、使者もいない。
 それ自体が、異質だった。

「命令も、要請も、ない」 「だからこそ、会えると思ったんだがな」

 男は、ゆっくりと境界を越えた。

 その瞬間、
 彼自身は気づかなかったが――
 足元の小石が、ほんのわずかにずれた。

 転ばない。
 だが、歩調が自然と緩む。

「……?」

 違和感に眉をひそめながらも、男は進む。

 一方、温泉郷の中。

「……今日は、人の気配が多いですね」

 リヴォルタ・レーレは、湯治場から戻る途中、そう呟いた。

 騒がしいわけではない。
 ただ、空気が少し“詰まって”いる。

「祭り、でもあるんですか?」

 すれ違った町人に尋ねると、相手は首を振った。

「いえ……ただ、見慣れない旅人が一人」 「そうですか」

 それだけで、会話は終わる。

 彼女は、気にしない。
 気にする理由が、ない。

 男は、町の中央まで来ていた。

 誰も止めない。
 誰も歓迎しない。

 視線は向けられるが、
 関心は向けられていない。

「……噂ほど、神秘的ではないな」

 呟いた声は、小さかった。

 彼の目的は、単純だ。

 ――確かめること。
 ――この“何もしない聖女”が、
 本当に、何もしないのか。

 宿の縁側。

「……空いてますか?」

 男は、礼儀正しく声をかけた。

「ええ、どうぞ」

 リヴォルタは、顔を上げ、軽く頷いた。

 その瞬間。

 男の胸に、
 説明できない安堵が広がった。

 威圧も、神性も、ない。
 ただ、そこにいるだけの人。

「……失礼ですが」 「はい?」

「あなたは……ここで、何を?」

 問いは、慎重に選ばれている。
 命令でも、期待でもない。

 だが、それでも――
 問いは、問いだ。

 リヴォルタは、少し考えた。

「……温泉に入っています」 「……それだけ、ですか」 「はい」

 間が、落ちる。

 男は、言葉を失った。

 その間に、
 風が吹き、
 木々が揺れ、
 遠くで鳥が鳴いた。

 すべてが、
 この会話を急がせない。

「……なるほど」

 男は、深く頭を下げた。

「お時間を取らせて、申し訳ありません」 「いえ」

 それ以上、何も言わない。

 頼まない。
 求めない。
 確かめたことで、満足した。

 男は、その日のうちに町を出た。

 名も告げず、
 何も残さず。

 境界を越えた瞬間、
 彼は小さく息を吐いた。

「……あれは、触れてはいけない」

 理解したのだ。

 夜。

 露天風呂で、リヴォルタは肩まで湯に浸かる。

「……今日は、少し話しました」

 それだけ。

 だが、世界にとっては大きな一歩だった。

 近づこうとした者が、
 自分から退いたのだから。

 力で拒んだわけではない。
 言葉で縛ったわけでもない。

 ただ――
 何も差し出さなかった。

 そして、それこそが、
 この中心における
 唯一の拒絶だった。

 世界は、また一つ学ぶ。

 ――近づく自由はある。
 ――だが、持ち帰れるものは、ない。

 その事実を、
 最も静かな形で。
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