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第一話 芋女と呼ばれた日
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第一話 芋女と呼ばれた日
王都の大広間は、初夏だというのに妙に蒸し暑かった。高い天井から吊るされた燭台の炎が揺れ、集まった貴族たちの宝石がきらきらと光を反射する。その中央で、私は静かに立っていた。
シュガー・ビート公爵令嬢。それが私の名だ。
北方の寒冷地を治めるビート公爵家の一人娘。特産はじゃがいも――通称「公爵芋」。寒さに強く、保存が利き、飢饉の年でも人々を飢えさせない優れた作物だ。
けれど王都では、それはただの「芋」に過ぎない。
「シュガー・ビート公爵令嬢。君との婚約を、ここに破棄する」
王太子の声が、広間に響いた。
ああ、やっぱり。
心のどこかで覚悟していた私は、表情を崩さないまま、ゆっくりと顔を上げた。王太子の隣には、絹のドレスに身を包んだ侯爵令嬢が寄り添っている。彼女の実家は南方貿易を牛耳る大商家。香辛料や砂糖を扱い、王都の華やかな茶会文化を支える家だ。
「北の寒村など、王妃の故郷として相応しくない。第一、君はあまりにも地味だ。王都の華やかな文化に、芋の匂いは似合わない」
くすくす、と笑い声が漏れる。
「芋女」
誰かが小さく呟いた。けれどその言葉は、波紋のように広がる。
「そうだわ、あの方の家は芋しかないのでしょう?」 「茶会でお出しになるのは、焼き芋かしら?」 「ふふ、紅茶ではなく芋湯?」
笑い声が重なり、私を包む。
芋女。
何度目だろう。その呼び名を聞くのは。
けれど私は、ゆっくりと一礼した。
「かしこまりました、殿下。婚約破棄、確かに承りました」
驚いたのは、王太子のほうだったのかもしれない。私が取り乱すと思っていたのだろう。涙を流し、縋りつくとでも?
申し訳ないけれど、そんな気分にはなれなかった。
だって私は、知っているのだから。
王都で“甘味”がどれほど歪な存在かを。
王都には、洒落た「カフェ」と呼ばれる店がある。貴族や裕福な商人が集い、紅茶やコーヒーを楽しむ場所だ。だがそこに並ぶのは、甘い菓子ではない。
砂糖が高すぎるのだ。
すべて南方からの輸入品。香辛料と同じ扱い。金と同等とは言わないまでも、庶民が口にできる代物ではない。蜂蜜もまた高級品で、教会や富裕層の食卓を飾るのみ。
ふわふわのケーキ? 生クリームたっぷりの菓子?
夢物語。
牛乳はすぐ腐る。冷蔵の技術はない。ベイキングパウダーもない。卵を何時間も泡立て続けなければ膨らみすら得られない。砂糖が惜しげもなく使える環境でなければ、軽やかな菓子など成立しない。
王都のカフェは、甘くない。
香り高い茶と、硬いパン。それだけだ。
華やかな衣装の裏で、甘味文化は未成熟。贅沢を誇りながら、実のところは脆い。
それを、私は前世の記憶で知っている。
甘いものが溢れていた世界。コンビニで気軽に買えるケーキ。ふわふわのパンケーキ。冷蔵庫。ベーキングパウダー。精製された白い砂糖。
――あの甘さを、この世界で再現したい。
かつて、私は密かに王都で菓子店を開く夢を見た。
けれど計算すればするほど、不可能だった。
砂糖は高すぎる。蜂蜜も同様。牛乳は保存できない。林檎は酸っぱく、渋い。小麦は重いパン向き。王都の湿気では粉の保存も難しい。
カフェなど、成立しない。
だからこそ、婚約破棄に絶望はなかった。
王都で夢が潰えたなら、別の場所でやればいい。
北へ帰ろう。
寒冷で、貧しくて、芋しかないと笑われる土地へ。
でも――
寒い、ということは?
昼でも気温が低い。冬は凍りつく。湿度も王都よりはるかに低い。
それは、欠点かしら。
それとも。
私はゆっくりと顔を上げ、王太子を見つめた。
「殿下。長らくお世話になりました」
「……随分とあっさりだな」
「ええ。北へ戻りますので」
ざわめきが起きる。
「芋畑へ帰るのか?」 「せいぜい良い芋をお育てになるといいわ」
笑い声の中、私は胸の内で静かに呟いた。
芋女で結構。
けれど、その芋が。
この国の価値をひっくり返す日が来るとしたら?
公爵芋から取れるデンプン。
寒冷地の保存環境。
そして――家畜飼料扱いされている、あの大根のような根菜。
てんさい。
もし、あれが。
もし本当に、私の記憶どおりなら。
砂糖は、南方だけの特権ではなくなる。
甘味は、王都の独占ではなくなる。
芋女と蔑んだこの地が、やがて「甘味国家」と呼ばれる日が来るかもしれない。
私は裾を翻し、大広間を後にした。
甘い香りのない王都を背に。
絶望のはずの帰郷が、なぜか胸を高鳴らせている。
だって私は、知っている。
ただの根っこが、白い宝石に変わる瞬間を。
婚約破棄は、終わりではない。
甘い逆転劇の、始まりだ。
王都の大広間は、初夏だというのに妙に蒸し暑かった。高い天井から吊るされた燭台の炎が揺れ、集まった貴族たちの宝石がきらきらと光を反射する。その中央で、私は静かに立っていた。
シュガー・ビート公爵令嬢。それが私の名だ。
北方の寒冷地を治めるビート公爵家の一人娘。特産はじゃがいも――通称「公爵芋」。寒さに強く、保存が利き、飢饉の年でも人々を飢えさせない優れた作物だ。
けれど王都では、それはただの「芋」に過ぎない。
「シュガー・ビート公爵令嬢。君との婚約を、ここに破棄する」
王太子の声が、広間に響いた。
ああ、やっぱり。
心のどこかで覚悟していた私は、表情を崩さないまま、ゆっくりと顔を上げた。王太子の隣には、絹のドレスに身を包んだ侯爵令嬢が寄り添っている。彼女の実家は南方貿易を牛耳る大商家。香辛料や砂糖を扱い、王都の華やかな茶会文化を支える家だ。
「北の寒村など、王妃の故郷として相応しくない。第一、君はあまりにも地味だ。王都の華やかな文化に、芋の匂いは似合わない」
くすくす、と笑い声が漏れる。
「芋女」
誰かが小さく呟いた。けれどその言葉は、波紋のように広がる。
「そうだわ、あの方の家は芋しかないのでしょう?」 「茶会でお出しになるのは、焼き芋かしら?」 「ふふ、紅茶ではなく芋湯?」
笑い声が重なり、私を包む。
芋女。
何度目だろう。その呼び名を聞くのは。
けれど私は、ゆっくりと一礼した。
「かしこまりました、殿下。婚約破棄、確かに承りました」
驚いたのは、王太子のほうだったのかもしれない。私が取り乱すと思っていたのだろう。涙を流し、縋りつくとでも?
申し訳ないけれど、そんな気分にはなれなかった。
だって私は、知っているのだから。
王都で“甘味”がどれほど歪な存在かを。
王都には、洒落た「カフェ」と呼ばれる店がある。貴族や裕福な商人が集い、紅茶やコーヒーを楽しむ場所だ。だがそこに並ぶのは、甘い菓子ではない。
砂糖が高すぎるのだ。
すべて南方からの輸入品。香辛料と同じ扱い。金と同等とは言わないまでも、庶民が口にできる代物ではない。蜂蜜もまた高級品で、教会や富裕層の食卓を飾るのみ。
ふわふわのケーキ? 生クリームたっぷりの菓子?
夢物語。
牛乳はすぐ腐る。冷蔵の技術はない。ベイキングパウダーもない。卵を何時間も泡立て続けなければ膨らみすら得られない。砂糖が惜しげもなく使える環境でなければ、軽やかな菓子など成立しない。
王都のカフェは、甘くない。
香り高い茶と、硬いパン。それだけだ。
華やかな衣装の裏で、甘味文化は未成熟。贅沢を誇りながら、実のところは脆い。
それを、私は前世の記憶で知っている。
甘いものが溢れていた世界。コンビニで気軽に買えるケーキ。ふわふわのパンケーキ。冷蔵庫。ベーキングパウダー。精製された白い砂糖。
――あの甘さを、この世界で再現したい。
かつて、私は密かに王都で菓子店を開く夢を見た。
けれど計算すればするほど、不可能だった。
砂糖は高すぎる。蜂蜜も同様。牛乳は保存できない。林檎は酸っぱく、渋い。小麦は重いパン向き。王都の湿気では粉の保存も難しい。
カフェなど、成立しない。
だからこそ、婚約破棄に絶望はなかった。
王都で夢が潰えたなら、別の場所でやればいい。
北へ帰ろう。
寒冷で、貧しくて、芋しかないと笑われる土地へ。
でも――
寒い、ということは?
昼でも気温が低い。冬は凍りつく。湿度も王都よりはるかに低い。
それは、欠点かしら。
それとも。
私はゆっくりと顔を上げ、王太子を見つめた。
「殿下。長らくお世話になりました」
「……随分とあっさりだな」
「ええ。北へ戻りますので」
ざわめきが起きる。
「芋畑へ帰るのか?」 「せいぜい良い芋をお育てになるといいわ」
笑い声の中、私は胸の内で静かに呟いた。
芋女で結構。
けれど、その芋が。
この国の価値をひっくり返す日が来るとしたら?
公爵芋から取れるデンプン。
寒冷地の保存環境。
そして――家畜飼料扱いされている、あの大根のような根菜。
てんさい。
もし、あれが。
もし本当に、私の記憶どおりなら。
砂糖は、南方だけの特権ではなくなる。
甘味は、王都の独占ではなくなる。
芋女と蔑んだこの地が、やがて「甘味国家」と呼ばれる日が来るかもしれない。
私は裾を翻し、大広間を後にした。
甘い香りのない王都を背に。
絶望のはずの帰郷が、なぜか胸を高鳴らせている。
だって私は、知っている。
ただの根っこが、白い宝石に変わる瞬間を。
婚約破棄は、終わりではない。
甘い逆転劇の、始まりだ。
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