スパダリ社長の狼くん

soirée

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第三章

四話

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 着替えている瞬を待ちながら、夏枝が感心したように忍に声をかける。
「驚いたよ。なかなかの歌唱力だ」
「オレもびっくりした。東條さんが歌ってるのも初めて聴いたしねぇ。やたら上手いし」
 驚嘆の色を浮かべる二人に忍が苦笑いを見せた。あまり振り返りたくもない中学時代を思い返しながら意外な過去を口にする。
「中学の時に声変わりが遅かったせいで、貴重な声だって合唱部にひっぱりこまれたことがあるんだ。妙な部活でね、合唱部という割には洋楽ばかり歌ってるようなところだよ。そのくせ練習はやたらと厳しい。内申点のためもあって三年まで所属していたらいつのまにか随分鍛えられてしまってね」
 その実、部内では忍はあまりいい扱いは受けていなかった。声変わり前はもてはやされたものの、男である以上それは長くは続かなかったのだ。変声後も男性にしては高音とは言われたものの、鳴物入りで入部したからこそその後の風当たりは強かった。思わず視線を流して記憶の奥に元通りしまい込む。考えても仕方がない。それに過去はいくら悩んだところでもう変わることはない。
 忍の表情のごく僅かな変化に気づいた安曇が話を打ち切る。夏枝に礼を述べた。
「夏枝さん、助かった。撮影した画像はオレのUSBにもらってくよ。申し訳ないけど最初の話の通りデータは破棄して欲しい」
夏枝がやれやれとため息をつく。
「本当に勝手のいい話だよ、埋め合わせに最高級のワイン3本私の自宅にお中元で送って欲しいね。一緒に飲めとは言わないからさ。既婚者」
 辟易した顔で安曇が両手を肩まで上げる。
「分かってるよ、ワイン3本? 了解。オレ、東條さんたちと一緒に帰るけどいい?」
「いいよ。女と二人で残るのリスクが大きすぎて怖いって顔に書いてある。奥さん臨月でしょ、早く帰ってあげなよ。産気づいたらあんたしか病院連れてけないんだから」
「!!」
 夏枝の言葉に安曇が慌てて白衣を脱ぐ。夏枝の腕に押し付けながら走るように検査室を出て行ってしまう。
「ごめん東條さん! オレ先帰る!」
 後ろ姿を見送った夏枝が肩をすくめて忍に首を傾げて見せる。
「最悪でしょ、あの男。いい男になったわ」
「僕たちのせいですみません」
 詫びた忍に夏枝が瞼を伏せて笑う。自嘲するように呟いた。
「いいよ。こんなことでもなければもう会うこともなかっただろうからね。あいつは縁の切れた女を振り返る男じゃないから」
 無言で安曇の去った残像を眺めて、忍が胸中で罪な男だなとため息をついた。
 


 着替えのための別室が開いて瞬が顔を見せる。あれ、と声を上げた。
「安曇帰ったのか?」
 言葉を濁した夏枝が話題を変えるように瞬に労いの言葉をかけた。
「閉所がダメな割に頑張ったね。彼の功績も大きいけどあんたもすぐに持ち直したから助かったよ」
「いえ……なんか最初からずっとその……見苦しいところばかり見せたので……」
 もごもごと答えながらも、瞬の目には微かな達成感が見える。家に帰ったら目一杯褒めてやろうと考えながら、忍も預けていた荷物を手早く着ける。瞬が丁寧に畳んだ検査着を夏枝に返した。
「結果は安曇から聞いて。私は約束通りデータは一切見ないから」
 微笑んだ夏枝の表情に何かを感じ取った瞬が問いかけるように忍を見る。忍が小さく笑んで首を振り、夏枝に会釈をした。
「ありがとうございました。本当に感謝します」
「どういたしまして。MRIは受けたその日に寝付けなくなる坊やも多いからね。寝かしつけ頑張って」
「ちょ……」
 夏枝の言葉にさすがに抗議しかけた瞬に夏枝が揶揄うような視線を向けた。
「スーツの裾を握りしめてたからね」
 赤面した瞬が言葉を飲み込む。忍が苦笑した。
「じゃあこれで失礼します。瞬、帰ろう」
「……ああ」
 頷いた瞬と共にもと来た道を戻って救急外来の自動ドアを抜ける。少し寒さが和らいだこの頃は、夜風にかすかな春の香りを感じ取ることも多い。言葉では言い表せないが、瞬にはそれが分かる。
「もうすぐ春だな」
 鼻をひくつかせながら呟く瞬に、忍がふと気付いたように呟いた。
「そうか。裕也と春香の子供は桜の季節に生まれるのか」
 瞬が名前は何にするんだろうな、と楽しげに口にする。そして不意に尋ねた。
「お前も子供欲しかったりするのか?」
長く口に出来なかったその問いへの答えは、今も聞くのが怖い。忍が思案した。
「……子供が欲しいか、ってなるとどうだろう。好きな相手との間にできるのなら嬉しいかもしれないけれど、僕が好きなのは君だから……考えたことがないな。君を取るのかただの概念としての『子供』を取るのかと聞かれたら、答えは君だ」
思慮深い忍らしい返事だ。忍のこういう言葉を聞くたびに、瞬は自分の浅はかさを思い知る。それは忍だけではなく、安曇も、春香も、槙野も……藍原や笹野でさえ。焦がれるほどに眩く見える。逃げることなくこの世界と向き合って生きてきた彼らの言葉はどれも重く、愛情深い。強い憧憬を心にしまって、話題を変える。さきほどの夏枝の表情への違和感を口に昇らせた瞬に、忍がかいつまんで説明する。
「裕也の過去の奔放さはなかなかのものがあったからね。春香と出会って落ち着いたけれど、長谷部さんのように想いを押し殺している女性も多いと思うよ。困ったものだね」
 夏枝の表情に浮かんだあの色は、寂しさだったのだろうか。きっとそんな簡単な、一言で言い表せる感情ではないのだろう。女性として生まれたからといって必ずしも求めた相手に求められるものではない。そこにあるのは「男だから」と言い訳のできる瞬よりも遥かに重い苦しみなのかもしれない。人と人を結ぶのは、単純な性差でもなければ独りよがりな愛でもないのだと思わず考え込んでしまう。
「瞬?」
 穏やかな声が名前を呼ぶのに我にかえる。いつの間にか停めていた車の目の前だ。運転席のドアを開けた忍が案ずるように瞬を見ているのにやっと気づく。
「あ、悪い。色々考えちまってた」
 詫びながら助手席のシートに座る。隣にいつもいてくれる忍が自分を選んでくれたことも、瞬がこれ以上ないほど忍を求めていることも、きっと偶然などではなくお互いが努力を重ねてきたからだ。嬉しい、と噛み締めながらついねだってしまう。
「なぁ。さっきの、もう一度聴きたい。歌って」
 小さく上目遣いになった瞬を見返して、忍が口元を吊り上げる。相変わらずおねだりが上手だなと呟いて、ハンドルを握りながら口ずさむ。

 やがて寝息を立て始めた瞬に微笑を浮かべた。

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