スパダリ社長の狼くん

soirée

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第三章

三話

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 総合病院の救急受付で、指示された通り安曇と長谷部の名を挙げる。しばらく不審な顔をしていた当直医が内線を繋いだ。待合で緊張と恐怖を何とか抑えようと瞬が指先を何度も組み替える。隣に座った忍が、不自然にならない程度にその指先に触れてやった。
「大丈夫。僕がずっと隣にいるから」
「……大丈夫……出来る。けど、そばにいて欲しい……」
呟くような瞬の懇願に頷いてやって繰り返す。
「そばにいるよ。大丈夫」
 瞬が優しく微笑んでくれる忍の瞳を瞼に焼き付けながら、震えそうになる足を叱咤する。励ますように忍の手がその背を撫でた。

「来たね。訳あり患者ご一行」

 人を喰ったような張りのある声が響く。顔を上げた瞬が意外そうにその姿を見つめた。安曇と共に歩み寄ってくる白衣の医師は、いかにも仕事のできそうな女性だ。ボブカットの黒髪にさっぱりとしたメイクが凛々しい。その目が忍の指を握りしめている瞬を揶揄うように見遣った。咄嗟に手を離して誤魔化そうとするのを、当の本人である医師が止める。
「いいよ。気にしないで。リラックスできる環境が大事とのことだからね。そちらの彼にも同伴してもらえる検査を組んであるよ、元彼の頼みじゃ断りようもない」
「夏枝さん、勘弁して。オレ今既婚者なんだから」
 思いもかけない関係を暴露された安曇が苦々しい顔をする。忍が納得したと言わんばかりに安曇に意地の悪い笑みを向ける。
件の骨折の際、事情を抱えた瞬をすんなりこの病院に託した安曇にも、おそらくレントゲンを見たはずなのに何も追求せず受け入れてくれたこの病院にも疑問は覚えていたのだ。
「なるほどとしか言いようがないな。こちらの事情を汲んでくださってありがとうございます」
「いやいや、患者さんには色んな人がいるものだから気にしちゃいないよ。閉所恐怖の人も少なくないから、特にMRIは気を使う。彼の場合はパニック発作の恐れもあるそうだから。ああ、長谷部夏枝。この病院の、これでも院長先生だよ」
 気軽な自己紹介をして、夏枝は踵を返す。凛とした立ち居振る舞いに似合うテキパキとした所作だった。
「付いてきて。裏から行くよ」
 安曇が呆れた顔で夏枝を一瞥する。説明が足りないと言いたげだ。忍が笑って首を振った。
「大丈夫。彼女のようなタイプは多分検査直前にしっかり話してくれる」
 そして座ったままの瞬を促す。かすかに震え始めてしまった首筋に気づいて、しゃがんで目線を合わせた。
「心配しなくても大丈夫。おまじないをかけてあげる。Everything’s gonna be alright、きっと全てうまくいく、って」
 不安を隠せないままの瞬が立ち上がれるまで辛抱強く待ってやる。夏枝は既にかなり先を歩いているが、急かすことはしてこない。
 握ったままの忍の手を強張った関節の震えが伝う。忍がいつかと同じ約束を繰り返した。
「終わったらまたホームパーティーをしようか。ボードゲーム大会でもいい。一日中僕と好きなことばかりしよう。嫌なことは何もしないで、したいことだけをしよう。朝寝坊してもいいよ。夜更かしも特別に許してあげる。何をしようか。検査の間に僕と一緒に考えよう」
 安曇が心配そうに瞬を一瞥する。ストレスが強すぎないかと不安にもなる。夏枝はさすがに瞬の獣人化までは知らないし、そこまで巻き込んでいい相手でもなかった。検査のために内服を絶っていることも不安材料の一つだ。だが、僅かに安曇を振り向いた忍は口の動きだけで「大丈夫だ」と微笑んだ。ゆっくりと立ち上がる瞬に手を貸してやる。
「行こうか」
無言で頷いた瞬に、ホッとしたように安曇が声をかけた。
「大丈夫、MRIは何も怖い検査じゃない。オレも立ち会うし、少しだけ頑張ろうか」
 姿も見えなくなっている夏枝に気付いて首を傾げる忍に、やれやれと苦笑を向けた。
「せっかちなんだよ、あの人。検査室はオレも把握してるから大丈夫」




「やっと来たか。待ちくたびれたよ」
 苦笑する夏枝に安曇が苦い声を出す。
「いやいや、置いてく方がおかしいでしょ。で、事前に説明はしたけど」
「トラウマ持ちで閉所もダメな可能性、パニックを起こすと止められるのは彼しかいない、ね。分かってるよ。彼の声が聞こえるようになるべく静音処理はする。動かれると再検査だから頑張ってもらいたいところだね」
 分かっているというように頷いた夏枝が小さく首を傾げる。
「で、何を調べるのあの子の」
「……説明が難しいんだ。色々と明かせない事情が多すぎる。だから夏枝の病院を指定してるんだよ」
「まぁ、文句は言わないでおいてやるけどね。都合のいい女にされてる感は否めない。そういうとこ、早く治しな。仮にも妻も子供もいるんです、って立場になるんだろ?」
 手厳しい言葉に安曇が詫びた。
「悪い。本当に。お前をそういう女に見てるわけじゃないんだ、信じろっていう方が無理だと分かってるけど」
「信じるよ? そういうの分かってなきゃあんたの彼女はできなかったからね。あんま奥さん泣かせるなよ」
艶っぽい笑みを向けてくる夏枝に安曇が小さく笑った。
「ここで手を出してこなくなっただけマトモな男になったんじゃない」
ため息を落とした夏枝が検査室のドアを開く。検査着に着替えた瞬が忍のスーツの裾を握りしめているのをさりげなく目に留めながら、丁寧に検査の説明をしていく。身につけた金属類やカードは全て預けたかと確認された忍が、当然のように頷く。
「じゃ、始めるよ。技師? 実は私はそっちの免許も持ってる。私が担当技師だ。感謝してよ」
 横になるように指示された瞬の手がスーツを離せないことに気づいた忍がネクタイを解く。瞬の片手に巻きつけて軽く結んだ。
「ね、大丈夫」




 足先から徐々に検査代が筒の中へと移動していく。心の中で大丈夫だと言い聞かせながら、手に結ばれたネクタイを握りしめた。
 腹部から撮影を始めた検査が予想よりもかなり長いことに計り知れない恐怖を覚える。筒の中に響く轟音が、聴覚のいい瞬にとっては鼓膜が破れるのではと思うほどつらい。時間が経つごとに圧迫感も迫り上がり、嫌な汗が流れ始める。忍が絶えず話しかけてくれているから耐えられるようなものの、一人だったらパニックを起こしただろうとしか思えなかった。
「瞬、知ってる? 君も働き出して随分経つ。有給が発生しているよ。休んでもお金がもらえるんだ。いつも真面目に頑張っているからご褒美にどこかへ行こうか」
 マイクで忍と会話ができることが今は何よりの救いだった。情けないと思いながらも片言のような返事しか出てこない。
「どこか……?」
「うん、考えてみれば君とはまだ旅行をしたことがないよね。ピー助も連れて行けるペット可のホテルを探そう。どこに行きたい? 海がいい? 山の方が好き? 温泉もいいよね」
「旅行……」
 楽しいことだけを考えられるように話してくれているのがわかる。
 京都もいいね、ピー助を置いて行けないから3人で宿でのんびりしよう。飛行機はピー助が辛いから海外は無理だね……穏やかな忍の声に縋るようにネクタイを握る。痛む耳を抑えたいのを堪えて、速くなってしまいそうな呼吸を必死で整える。息遣いが上がってきているのを自覚してしまった瞬間、どうしようもない恐怖で意識が混乱を始めた。
「忍……助けて、ダメだ……助けて……」
 呟いた瞬の声の異変に気づいた忍が、穏やかに歌を口ずさむ。



Everything's gonna be alright
Everything's gonna be alright

Who ever thought
The sun would come crashing down…

 意外なほどに安定した歌声だ。忍の落とした「おまじない」をなぞるように、G線上のアリアのメロディに乗せるラップ調の歌詞。


Can you take my breath away
Can you give him life today
'Cos everything's gonna be okay
I'll be your strength
I'll be here when you wake up……

 忍のややハイトーンのシルキーボイスが穏やかに繰り返し、繰り返し言の葉を正確な音程に乗せていく。

And the sun will rise
Open up your eyes
Surprise just a blink of an eye.

Everything's gonna be alright
Everything's gonna be okay
Everything's gonna be alright
Together we can take this
One day at a time……

 瞬の呼吸が落ち着いていく。ネクタイを握りしめた手から緊張が解れた。鳴り響く音にもどうにか耐えられそうだと、ほっと肩の力を抜く。

「ね、大丈夫。きっと全てうまくいく」
締めくくるように優しく落とされた声に心の底から安堵する。


 まともな会話ができるようになった瞬と旅行の計画を進めながら、忍はまた小さな痛みを覚える。けれどその痛みは瞬自身が否定をしてくれたから大丈夫だと小さく笑んだ。


 大丈夫、きっと全てうまくいく、と。
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