天正十年五月、安土にて

佐倉伸哉

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6. 五月四日:敦盛

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 同日夜。信長は蘭丸を始めとする小姓も遠ざけ、居室の寝台に一人腰かけていた。
 ひどく疲れた顔をしており時折深い溜息を吐いている。日中に晴豊の他にも様々な人物との会合を重ねたのが夜になって一気に噴出したのだろうか。
 暫くそうしていると、静かに障子の戸が開かれた。誰かと思って顔を上げると、そこには濃姫が立っていた。
「お疲れのようですね」
 濃姫が率直な印象を口にすると、信長も力なく応じた。
「疲れた」
 吐き捨てるように短く告げると、再び俯いてしまった。
 齢を重ねると、体を動かさなくても疲れてしまう。人と会っているだけなのに、激戦直後のような倦怠感に襲われる。おまけに、肉体的な疲れと比べて精神的な疲れは何日経っても抜けた気がしない。真に厄介だ。
 濃姫は信長の前に座るが、信長はそちらに目を向ける気力も失せているのか俯き加減のまま吐露を続けた。
「毎年毎年、考えなければならない事が増えていく。領土が広がれば広がった分だけ懸念事項が多くなる。付き合いが増えると応対するのも面倒臭くなる。どうしたらいいのか、全く見当がつかん」
 どうしてだろうか。濃を前にすると言いたい事が次々と口から出てくる。
 口下手で、自分の思いを言葉に表すのが苦手で、言葉足らずな自分が、いつの間にか雄弁を振るっている。溜め込んでいた想いや感情が素直に打ち明けられる。本当に不思議な気分だ。
 思いの丈を全て吐き出し終えるのを待って、濃姫はさらりと指摘した。
「上様は少々荷を背負い過ぎているのです」
 柔らかい口調で、それでいて断定するような言葉に、信長は反射的に顔を上げた。その顔をしっかりと見つめながら濃姫は続けた。
「その肩に天下が懸かっているのです。今この国で最も重たい荷物を担いでいるのですから当然疲れましょう。なれば、少しだけ気楽に、頭の中を空っぽにしてみては如何でしょうか?」
「左様なこと、簡単に出来るはずなど―――」
 反論しようと濃姫の方を向くと、その膝の上に何か乗っているのが見えた。鼓である。刹那、信長の脳裏に閃くものがあった。
「……『敦盛』、か」
 濃姫は小さく頷くと鼓を肩へ乗せた。成る程、これに付き合うのも一興。
 信長は扇子を開くと寝台から立ち上がる。瞑目して呼吸を静かに整えると、意を決して声を発した。
「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは 口惜しかりき次第ぞ」
 朗々とした声で謡いながら、濃姫の打つ鼓の音に合わせて優雅に幸若舞を演じ切る。その顔には先程までの疲れや迷いが一切消えていた。
「如何ですか?」
「……少し、楽になった」
「それは良うございました」
 濃姫の問いにすっきりとした表情で答える。吹っ切れた様子であった。
「……桶狭間の合戦の前の晩を、思い出した」
 家督を巡る内乱を終結させて落ち着いた矢先、駿河の今川義元が上洛を目的に侵攻してきた。家臣の中から寝返りも発生し、侵攻に備えて造った砦も次々と陥とされ、信長は苦境に立たされていた。
 そんな状況の下、清洲城の一室で濃が鼓を打つ中で信長は敦盛を演じた。舞い終えると立ちながら湯漬けを流し込み、乾坤一擲の大勝負に出た。敗色濃厚で勝てる見込みは不明。それでも、座して死を待つのは絶対に嫌だった。
 一か八かの賭けは、天候と運に恵まれた信長の勝利で終わった。今思えば、あの戦いで掴んだ勝利が、天下へ飛躍する第一歩だったのかもしれない。
 敦盛の一説にある『人間五十年』の一節は、信長の行動哲学だ。齢五十になるまでに日ノ本を統一する。その目標を果たす為に今日まで足を止めることなく走り続けてきた。だが、年齢は既に四十九を数えるが、九州・四国・関東・奥羽は手付かずの状態だ。寿命が五十だとすればあと一年しか残されていない。その事実が信長を追い詰めていき、焦りを生んだ。
 効率を優先する傾向は年々強まり、達成の為ならばどんな犠牲も厭わなくなった。全ては、あと一年で天下統一を実現するために。
「あれこれ急いでもキリがありません。上様は無駄を嫌う性分ではありますが、時にはゆるりと立ち止まられてはどうでしょうか?」
「……考えておく」
 濃姫の言葉に信長は素っ気無い返事を返した。他人の助言を素直に受け取れない意固地さも昔と変わっていないことに、濃は嬉しそうに笑っていた。
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