天正十年五月、安土にて

佐倉伸哉

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5. 五月四日:勧修寺晴豊

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 五月四日。今日は京から来客が訪れていた。と言っても、誼を通じたい武家の遣いやご機嫌伺いの商人ではない。公卿であった。
 勧修寺晴豊。武家伝奏、朝廷と武家を結ぶ繋ぎ役を務める人物で、信長も何度か面識を重ねている。
 黒書院に通された晴豊は直衣に烏帽子という服装で平伏していた。信長が蘭丸を伴って部屋へ入ると、恭しく頭を上げた。
「遠路はるばるご足労をかけます」
 ゆったりとした口調で信長が語りかけると、晴豊はニコリと笑って応じた。相手が公家ということで粗略な扱いは出来ないので、言葉遣いも丁寧になっていた。
 信長は勢力を拡大させると共に官位も昇進していき、最終的には右大臣に任じられた。しかし、四年前の四月に信長は一方的に全ての官職を辞したので、現在は無位無官だった。
 本来であれば正客である晴豊が上座に座るべきだが、前右大臣で政事と武力の両面で多大な影響力を持っている事情を考慮して、敢えて晴豊が下座に座った。
「いえいえ、日々の宮仕えは肩が凝ることばかり、安土まで参るのは良き気分転換になりました」
 袖で口元を隠しながらコロコロと笑う晴豊。だが、信長は知っていた。顔では笑っていても腹の中では痛烈に毒づいていることを。武力を一切持たず権力闘争に明け暮れる公家は皆腹に一物抱えた化物揃い。気を許して近付くと足元を掬われかねない。
 わざわざ安土まで出向いたのは何か理由がある。信長は穏やかな表情を崩さずに相手の出方を窺う。
 しかし晴豊は京の様子だったり安土の町並みだったり世間話に終始して、本題に入ろうとしない。俗に公家言葉と呼ぶ一般人には理解不能な長ったらしい喋り方をしていないのでまだ堪えていたが、公家の雑談に対して悠長に付き合っていられる程に暇ではない。
 天下布武に向けて各地からの報告を受けたいし、堺や博多の有力商人と今後のことについて協議したい、安土の治政も滞りがちなのでそれも片付けたい。形式的には隠居した身なので織田家に関わる事は全て信忠に委ねている分だけ負担は軽くなったのだが、それでも天下人である自分は体が幾つあっても足りないくらい多忙を極めていた。
「あぁ、失礼した。話し相手が居ないのでつい長話をしてしもうた」
 わざとらしく扇子を手で叩いてから晴豊は詫びる。既に信長は腸が煮えくり返っているが、笑顔を辛うじて繕いながら続きを待つ。
「帝は、信長公にまた官職を授けたいご意向をお持ちです」
 晴豊の言葉に信長は「ほう」と小さく唸った。それまでの世間話を脇息に体を預けて聞き流していたが、少し背筋を正して話を聞こうという姿勢を見せる。
「長らく続いていた戦乱の世を終結すべく日々東奔西走されているのは重々承知しておりますが、やはり信長公が宮家の強い後ろ盾となって支えてくれるのが望ましいと帝はお考えのようです。そこで信長公には―――太政大臣・関白・征夷大将軍の三職いずれかに推任したいと」
 ……これはかなり大胆な条件を提示してきた。
 太政大臣と関白と言えば公家の最高位の役職、武家出身者では過去に平清盛と足利義満の二例しか経験のない、普段は公家の間で持ち回りされてきた名誉ある官職だ。そして武門の棟梁の象徴である征夷大将軍はこれまで源氏系しか任じられておらず、平氏系を自称している信長は任じられる資格を有していなかった。
 その前例を覆してまで武家と公家の最高職である三職を勧めてきたのは前代未聞の事態であった。裏返せば、官位に縛られていない信長の影響力に宮中が脅威を抱いていた証でもある。
「大変、身に余る光栄に存じます」
 信長の返答に好感触を抱いた晴豊の瞳が一瞬輝いた。が、すぐに「なれど」と続けた・
「折角の申し出ながら辞退させて頂きます」
「……理由をお伺いしても宜しいでしょうか?」
 予想外の答えに困惑した晴豊は目を丸くしながら訊ねた。まさか固辞されるとは思わなかった、という顔をしている。
 征夷大将軍は朝廷が時勢に乗る武家を手懐ける常套手段で辞退する理由は分からなくもないが、太政大臣も関白も公家でさえほんの一握りにしか与えられない大変名誉な官職だ。破格の条件を躊躇いなく蹴る意図が晴豊には全く解せなかった。
 風の噂では、信長は自らを神として崇めさせていると聞く。もしや、利用価値のない朝廷を排除するつもりか。最悪の事態が脳裏を過り、冷や汗が背筋を伝った。
 だが、ここでも信長は晴豊の思惑とは大きく異なる返答を口にした。
「官職に興味が無いのです」
 さらりと言ってのけた信長の顔を、まじまじと凝視する晴豊。
「官位を得て偉くなりたいと思ったことは一度もありません。『この日ノ本を一つにまとめたい』、ただその一存で今日まで至った次第です。それにご存知かと思いますが、某は天下統一に向けて精力的に動いている身。宮中へ参内する時間も、幕府を開く労力も、一寸たりともありません。全てを片付けてから、改めてゆっくりと考えたいと存じます」
 『時間が無い』というのが信長の偽らざる本音だった。官職に就けば朝廷へ定期的に出仕しなければならず、その分だけ手間と時間を浪費することになる。「そんな暇はない」と突っ撥ねたも同然の回答だった。
 それでも晴豊は「はい、そうですか」と大人しく引き下がる訳にはいかなかった。信長はこれまで古い概念を打ち壊してきた考えの持ち主。このまま無位無官のまま野放しにしていれば、後々に朝廷や宮中に厄災が降り懸かる恐れが拭いきれない。何も生み出さない、何の得も無いと判断して本気で朝廷を潰そうと目論むかも知れない。
「申し訳ありませんが、次の面会者を待たせているのでこれにて失礼致します」
 額に大粒の汗を滲ませながら黙り込む晴豊に、信長は非情とも取れる言葉をかけて席を立った。
 背中から縋るような視線に気付いていたが、敢えて黙殺して部屋から出て行った。確固たる信念の前に晴豊は結局何も言うことが出来ず、一人黒書院に残されることとなった。

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