天正十年五月、安土にて

佐倉伸哉

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4. 五月一日:光秀

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 五月一日。天守閣の最上階で書見していると蘭丸が姿を現した。
「上様。日向守様が参られました」
「通せ」
 短く答えるとすぐに中年の男が部屋へ入ってきた。所作は落ち着いているが、その表情には若干の陰りが見られる。
 明智“日向守”光秀。西近江と丹波を治める織田家の重臣だ。年齢は定かではないが、一説には濃姫の父である斉藤道三の小姓を勤めていたとする話もあることから、信長よりも年長であると考えていいだろう。
 文武に秀で、特に有識故実に精通していたことから朝廷や幕府との仲介役に尽力した。畿内方面の部隊長的位置づけで、時に遊軍の役割も兼ねていた。先日の武田征伐でも従軍している。
「お呼びと伺い、参上仕りました……」
 礼儀作法に則り頭を垂れるが、発する声が弱々しく掠れている。その瞳には怯えの色が強く滲んでいる。これには伏線があった。
 先日の武田征伐の際、武田家を滅ぼした後に開かれた酒宴でのこと。ほろ酔い気味だった光秀が「我等が長年に渡り骨を折ってきた労苦が結ばれた」と同僚の家臣に漏らしているのを耳にした信長が突如激昂。怒りにまかせて打擲した結果、光秀が流血する事態にまで発展した。
 それに加えて、信長は光秀の能力を高く評価はしていたが性格面では肌が合わなかった。信長が好んだのは秀吉のように剽軽な性格や、勝家のような武骨な性格など。一方の光秀は知的で陰気、信長の目から見れば可愛げなく映る。さらに信長は旧来の伝統やしきたりを毛嫌いしているのに対して、光秀はそれを重んじて固執している考え方の持ち主。価値観の点でも相容れない関係であった。
 あれから一月も経過しておらず苦い記憶も鮮明に残っていたので、光秀の表情や態度に恐怖が色濃く表れていた。
 脇息に体を預けながら信長は平伏している光秀を見つめる。作法通りに頭を下げているが、余計な力が入って強張る肩は嫌でも緊張しているのが伝わってくる。上座の者が声を発するまで顔を上げないのもつまらない。粗相のないよう努めているのだろうが、逆に窮屈で息苦しくなる。胸の底から苛立ちが募るのが不快なので、こちらから言葉をかける。
「表を上げよ」
 初対面の時以来、一貫して古来からの作法を曲げずに行う。俺がもう少し若い時分なら皮肉めいたことを一言二言投げつけていたが、それも無駄だと悟ると堪えるようになった。
 唇を真一文字に結び、どんよりと曇った表情でこちらを伺う光秀の顔を眺めていたら、余計に腹が立ってきた。早々に本題を切り出す。
「近々、三河殿が安土へ参られる。その接待役をお主に任せる」
 感情が言葉に乗らないよう意識して話す。だが、肝心の本人は反応に乏しかった。
 こういう人物だと頭では理解しているが、生理的には受け入れられない。自然と込み上げてくる怒りを押し殺して、さらに続ける。
「存じていると思うが、三河殿は我が織田家にとって大切な相手。よって、此度の役目は戦に臨む心構えで務めよ」
 三河殿とは、徳川“三河守”家康のことである。二十年以上前に同盟を結んでから今日に至るまで親密な関係を築いてきた。家康が東を固めたことにより、信長は後顧の憂いなく西へ兵を進めることが出来たのだ。
 現在では二十ヶ国を治める織田と、三河・遠江・駿河の三国を治める徳川の間に大きな差が開いたが、未だに同盟関係は堅持され続けていた。
 その家康が先日の武田征伐で駿河一国を与えられた事に対して御礼の意を伝えるべく、安土を訪れる。徳川には幾度も手助けしてもらった事もあり、その恩に報いるために手厚く歓待したいと思った。
 光秀は有識故実に長けており接待役に適任と捉えたが、当の本人は「承知致しました」とありきたりな返事を口にするのみ。
 秀吉なら飛び上がらんばかりに喜びを露にするだろうし、勝家は期待に応えるべく「粉骨砕身の所存で務めます」と勇んで断言するに違いない。しかし、光秀は控え目な性格であることを差し引いても、気持ちを全面に押し出そうとしない。その態度が物足りなく感じるし、正直不満だ。
 俺の苛立ちを察知したのか光秀はそそくさと辞去していった。その去り際もきちんと作法を遵守しているのがまた癪に障る。
 胸焼けのようなどんよりとした気持ちを抱え、じっと空を睨む。小刻みに鳴らす舌打ちの音だけが、部屋に響いていた。
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