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3. 四月二十二日:遠乗り
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安土に帰った当日は人を遠ざけて寝台で眠った。南蛮より渡来した寝台は床に布団を敷くよりも幾分楽だが、それでも眠りが浅く夜明け前に目が覚めてしまった。そこから惰眠を貪る訳にもいかず、仕方なく部屋にある書物に目を通すことにした。
最近は宣教師の話を和訳した本を好んで読んでいる。読んでいると自分の知らない世界の一端に触れた心地がして、心が躍る思いになる。
静かに紙を捲っていると、音を立てず襖が開いた。そこに居たのは昨日も傍らに控えていた美少年である。彼は森“蘭丸”成利、俺が今一番気に入っている小姓であった。
「お早う御座います、上様……と、これは失礼しました。既にお目覚めとは気付きませんでした」
「構わぬ。俺が刻限よりも目が覚めただけだ」
蘭丸が非礼を詫びようと頭を下げるのを制する。信長の側近くに仕える者は物音や所作一つ見逃さず察知する能力が求められるので、常に神経を研ぎ澄ます必要があった。主の起床に気付かなかったことを失態と恥じるくらいでないと務まらない。
信長は予定が入ってない場合は卯の刻(午前六時)に起床する。蘭丸は気を取り直して手桶を捧げて部屋に入る。城の井戸から汲まれた水は冷たく、その水で顔を洗うと肌が自然と引き締まり脳が覚醒する。信長が無言で手を差し出すと乾いた手拭いが渡され、その手拭いで顔全体を拭いていく。
寝巻から着替えると厩へと向かう。信長は若い頃から馬が好きで、暇さえあれば遠乗りを楽しんでいた。
厩には全国各地の大名から献上されたり市場で買い求めた良馬が揃っており、その馬も信長が一匹一匹丹念に確認した上で優秀と認めた馬しか飼われていなかった。
一通り馬の様子を愛でたり首を撫でたりした後に、下働きの男に訊ねた。
「今日はどの馬が良い」
「へい。三番目の馬は最近遠乗りしていないので、走りたくてウズウズしています」
「で、あるか」
信長の言葉数は極端なくらいに少ない。それが時に憶測を呼んだり誤解を招いたりする事が多々あったが、それでも話の脈絡さえ分かっていれば信長の真意は相手に伝わった。信長と幾度も接していく内に主人が求めている何かを理解する者も現れ、気遣い心配りの利く者は出所の尊卑に関わらず立身出世させていった。その辺りの人の力量を見極める眼は五十手前になった今でも衰えない。
さらに付け加えるとすれば、信長は刻限や約束事に対して厳格な価値観を持っていた。戦国の世では平気で半刻遅れたり仕事の手を抜いたり城の日用品を勝手に持ち帰るなど、今とは考えられないくらいに規律が緩い感覚だった。しかし、繊細で物事の無駄を極端に嫌う信長は、自分の価値観を仕える者にも徹底させた。面会の刻限は厳守、城の備品も差異や浪費が無いか調べさせていた。
下働きの男に勧められた馬に跨り、城を出た。後ろに従うのは従者が二人。馬と心を一つにして夢中に走った。馬に揺られ、風を切る感覚は何度味わっても心地いい。まだ静かな安土城下を駆け抜けて郊外まで走らせると、ようやく小休憩をとった。馬の息が乱れたのもあるが、それ以上に己が疲弊してしまったことに年齢を痛感せざるを得なかった。
帰りはムチも入れずにゆったりと城へ向けて歩みを進ませる。途中、馬上で従者と他愛ない雑談をして盛り上がる。信長は天下様と呼ばれる身にありながら、安土城下の世情にも驚く程に詳しかった。各地で残忍な行いをしてきたが、それはあくまで対外的な方策。自国に関しては領民が安心して暮らせるよう尽力した。領民が疲弊する過重な負担は将来的に御家を滅ぼすと気付いていたのだろう。
城下に達すると陽も高くなったこともあって人々が商いを始めていた。道端で露店を出して新鮮な野菜を並べたり屋台で軽食を提供していたりと、眺めていて飽きることがない。近隣の住人や街道を行く旅人も混じり、通りは人で溢れ盛況していた。
すると信長は一軒の茶店で歩みを止めた。馬から颯爽と降りると店番をしていた中年の男性に声をかけた。
「亭主、団子をくれ」
「へい」
従者が馬を繋いでいる間に軒先の長椅子に腰を下ろすと、扇子を開いて胸元に風を送り込む。一心地ついた頃に薄茶と串に刺さった団子が出された。信長はそれを躊躇いもなく口に運ぶ。中年の男性も暢気に団子を頬張る男が安土城の主とは思ってないし、店を訪れる旨を先に伝えてもいない。
理由は二つある。一つは庶民の暮らしを把握すること。価格、品質、客への応対、その他細かい点まで観察する。交通の便や通行量は価格に直結するし、代金に釣り合わない粗悪な物を出しているなら店側が利益を出せていない証だし、愛想が悪ければ店が暇ということだ。質の悪い店が淘汰されないのは町自体に活気が無い裏返しだ。店員の男性はやや寡黙だが許容範囲内、味もまずまずで適正価格。安土城下はそれなりに賑わっていると判断した。
それともう一つ、これは毒殺の予防。城の賄い場に敵の忍びが紛れ込んで毒を食事に仕込むことも考えられる。予め立ち寄る店でも先回りされることも十分に有り得る。しかし、大多数の一般人が利用する店を無作為に選べば毒殺の危険性は限りなく無くなる。
尾張の地方大名の時代から型に嵌らない奔放な行動は変わっていない。その一方で、天下人に最も近い存在であることを自覚しているからこそ、自分の身を第一に案じていた。戦場で討たれる可能性が低くなれば、平時に謀殺するしか選択肢が絞られる。
信長は気に入ったのか団子をさらに追加すると、それも綺麗に平らげて店を後にした。勘定は自らの懐に仕舞っていた麻袋から銭を出して払った。
信長は再び馬に跨ると、居城へ向けて歩ませた。城下の賑わいに内心満足していたのか、口元は少し綻んでいた。
最近は宣教師の話を和訳した本を好んで読んでいる。読んでいると自分の知らない世界の一端に触れた心地がして、心が躍る思いになる。
静かに紙を捲っていると、音を立てず襖が開いた。そこに居たのは昨日も傍らに控えていた美少年である。彼は森“蘭丸”成利、俺が今一番気に入っている小姓であった。
「お早う御座います、上様……と、これは失礼しました。既にお目覚めとは気付きませんでした」
「構わぬ。俺が刻限よりも目が覚めただけだ」
蘭丸が非礼を詫びようと頭を下げるのを制する。信長の側近くに仕える者は物音や所作一つ見逃さず察知する能力が求められるので、常に神経を研ぎ澄ます必要があった。主の起床に気付かなかったことを失態と恥じるくらいでないと務まらない。
信長は予定が入ってない場合は卯の刻(午前六時)に起床する。蘭丸は気を取り直して手桶を捧げて部屋に入る。城の井戸から汲まれた水は冷たく、その水で顔を洗うと肌が自然と引き締まり脳が覚醒する。信長が無言で手を差し出すと乾いた手拭いが渡され、その手拭いで顔全体を拭いていく。
寝巻から着替えると厩へと向かう。信長は若い頃から馬が好きで、暇さえあれば遠乗りを楽しんでいた。
厩には全国各地の大名から献上されたり市場で買い求めた良馬が揃っており、その馬も信長が一匹一匹丹念に確認した上で優秀と認めた馬しか飼われていなかった。
一通り馬の様子を愛でたり首を撫でたりした後に、下働きの男に訊ねた。
「今日はどの馬が良い」
「へい。三番目の馬は最近遠乗りしていないので、走りたくてウズウズしています」
「で、あるか」
信長の言葉数は極端なくらいに少ない。それが時に憶測を呼んだり誤解を招いたりする事が多々あったが、それでも話の脈絡さえ分かっていれば信長の真意は相手に伝わった。信長と幾度も接していく内に主人が求めている何かを理解する者も現れ、気遣い心配りの利く者は出所の尊卑に関わらず立身出世させていった。その辺りの人の力量を見極める眼は五十手前になった今でも衰えない。
さらに付け加えるとすれば、信長は刻限や約束事に対して厳格な価値観を持っていた。戦国の世では平気で半刻遅れたり仕事の手を抜いたり城の日用品を勝手に持ち帰るなど、今とは考えられないくらいに規律が緩い感覚だった。しかし、繊細で物事の無駄を極端に嫌う信長は、自分の価値観を仕える者にも徹底させた。面会の刻限は厳守、城の備品も差異や浪費が無いか調べさせていた。
下働きの男に勧められた馬に跨り、城を出た。後ろに従うのは従者が二人。馬と心を一つにして夢中に走った。馬に揺られ、風を切る感覚は何度味わっても心地いい。まだ静かな安土城下を駆け抜けて郊外まで走らせると、ようやく小休憩をとった。馬の息が乱れたのもあるが、それ以上に己が疲弊してしまったことに年齢を痛感せざるを得なかった。
帰りはムチも入れずにゆったりと城へ向けて歩みを進ませる。途中、馬上で従者と他愛ない雑談をして盛り上がる。信長は天下様と呼ばれる身にありながら、安土城下の世情にも驚く程に詳しかった。各地で残忍な行いをしてきたが、それはあくまで対外的な方策。自国に関しては領民が安心して暮らせるよう尽力した。領民が疲弊する過重な負担は将来的に御家を滅ぼすと気付いていたのだろう。
城下に達すると陽も高くなったこともあって人々が商いを始めていた。道端で露店を出して新鮮な野菜を並べたり屋台で軽食を提供していたりと、眺めていて飽きることがない。近隣の住人や街道を行く旅人も混じり、通りは人で溢れ盛況していた。
すると信長は一軒の茶店で歩みを止めた。馬から颯爽と降りると店番をしていた中年の男性に声をかけた。
「亭主、団子をくれ」
「へい」
従者が馬を繋いでいる間に軒先の長椅子に腰を下ろすと、扇子を開いて胸元に風を送り込む。一心地ついた頃に薄茶と串に刺さった団子が出された。信長はそれを躊躇いもなく口に運ぶ。中年の男性も暢気に団子を頬張る男が安土城の主とは思ってないし、店を訪れる旨を先に伝えてもいない。
理由は二つある。一つは庶民の暮らしを把握すること。価格、品質、客への応対、その他細かい点まで観察する。交通の便や通行量は価格に直結するし、代金に釣り合わない粗悪な物を出しているなら店側が利益を出せていない証だし、愛想が悪ければ店が暇ということだ。質の悪い店が淘汰されないのは町自体に活気が無い裏返しだ。店員の男性はやや寡黙だが許容範囲内、味もまずまずで適正価格。安土城下はそれなりに賑わっていると判断した。
それともう一つ、これは毒殺の予防。城の賄い場に敵の忍びが紛れ込んで毒を食事に仕込むことも考えられる。予め立ち寄る店でも先回りされることも十分に有り得る。しかし、大多数の一般人が利用する店を無作為に選べば毒殺の危険性は限りなく無くなる。
尾張の地方大名の時代から型に嵌らない奔放な行動は変わっていない。その一方で、天下人に最も近い存在であることを自覚しているからこそ、自分の身を第一に案じていた。戦場で討たれる可能性が低くなれば、平時に謀殺するしか選択肢が絞られる。
信長は気に入ったのか団子をさらに追加すると、それも綺麗に平らげて店を後にした。勘定は自らの懐に仕舞っていた麻袋から銭を出して払った。
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