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9. 五月十七日:中国筋
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能舞台の演目は不満だったが、接待役を任せた光秀は実によく働いた。食事でも材料の一つ一つに至るまで一級品を揃え、器にもこだわり、見た目でも楽しめる贅を尽くした膳を提供した。饗応三日目の十七日になっても家康が飽きないように趣向を凝らしている。元来の生真面目さが如何なく発揮され、それでいて使命感に燃えているのか表情は活き活きとしていた。
この日の昼食は両家の家臣が顔を合わせて大広間で会食と相成った。信長は日頃接する機会の少ない徳川家の家臣達と言葉を交わし談笑していた。
そんな時、蘭丸が険しい表情をして信長の元へ静かに寄ってきた。宴席の場で愛想良く振舞える蘭丸が緊張した面持ちということは、何か想定外の事態が起きたのかと察する。さり気なく体を倒して耳を寄せる。
「備中の羽柴様より火急の使者が参りました」
羽柴秀吉は中国方面担当で、毛利家と対峙している。先日は備中高松城を攻めると報告があったと記憶している。
秀吉は織田家の家臣ながら近江長浜と播磨・但馬を治め、単独でも大名級の武力を持ち、さらに与力として付けている大名や臣従している備前の宇喜多家の軍勢も合わせれば総勢二万を超える軍を指揮している。そんな秀吉が緊急で使者を寄越すとなれば、備中で何かあったと考えていい。
蘭丸の報告を受けて信長が立ち上がると、隣に座っていた家康が怪訝そうな顔で見つめる。
「……如何されましたか?」
「ちょっと野暮用が入りましたので、少し席を外します。三河殿はゆるりとされて下され」
信長がにこやかに微笑むと、家康も強張った表情が幾分か和らいだ。軽く一礼すると蘭丸に先導される形で別室へ向かった。
秀吉からの使者を待たせている別室に入ると、甲冑姿の若武者が神妙な面持ちで端座していた。
若武者は信長の姿を確認すると平伏し、着座するのを確かめて頭を上げると懐から一通の書状を取り出した。蘭丸を介して書状を受け取ると、すぐに中身を改める。
「……お主、名は?」
「はっ、大谷“平馬”吉継と申します」
書状から目線を離さずに訊ねると、吉継はハキハキとした声で即答した。信長はそれに応えず文面に目を通す。
そして最後まで読み終えると吉継を見据えて問い質した。
「……備中高松城を囲む羽柴勢に毛利・吉川・小早川など総勢四万の大軍が来襲したと書いてある。相違ないな?」
「はっ。某も、この眼でしかと確かめましたので間違い御座いません」
吉継は信長の威圧感に臆することなく明朗に答える。その態度と姿勢から誇張や偽りがないと判断した。秀吉は時折物事を脚色したり大袈裟に伝えたりするから信用ならない。
備中高松城を包囲した秀吉は当初力攻めを試みたが、城の周囲が湿地帯だった為に損害ばかり出して捗々しい成果を上げることが出来なかった。攻め倦ねていた秀吉は思い切って発想を変え、城をぐるりと囲む形で堰を造って近くを流れる川の水を引き込んで城を丸ごと水没させる“水攻め”を行うことにした。
この策は過去に前例がない奇策であったが、これが功を奏して高松城は人工的に造られた湖の中に取り残されることとなった。
一方、毛利方も黙っていない。備中高松城が水没の危機に瀕しているとの一報を受けた毛利家当主の輝元は、すぐに救援の為に出陣することを決意。先代元就の子で毛利家の屋台骨を支える吉川元春と小早川隆景もその動きに同調して高松城へ救援に出向いた。
毛利家が総力を挙げて現れたことで単独で対応するのは困難と判断した秀吉は、直ちに安土へ援軍を要請。我等も総大将である上様の出陣を懇願する旨が書状には記されていた。
「何卒、上様の出陣を賜りますようお願い致します」
言い終えるなり吉継は深く頭を下げた。その姿から味方を危機から救いたいという気持ちが滲み出ていた。
「相分かった。直ちに備中へ向かう」
熟慮するまでもなく、即決した。信長の眼から見ても、毛利家と決着をつける絶好の機会と捉えた。
まず、秀吉が毛利の全軍を高松城まで引っ張り出したのは大きい。毛利をここで倒せば織田の版図は西へ一気に拡大して、その先にある九州が見えてくる。天下統一に向けて大きく前進することに間違いない。信長の勝負勘がそう囁いた。
今現在、融通が利く軍勢は信忠率いる織田本隊と、丹波を平定以降は遊撃部隊の位置づけにある明智光秀の軍勢だけ。他の有力家臣達は各地に散らばり参集することは難しい。北陸の柴田勝家は越後目前まで迫り、丹羽長秀は三男信孝と共に四国へ渡海準備中、関東の滝川一益は赴任したばかりで国衆をまとめることで手一杯。ただ、先述した二人に加えて畿内周辺の与力大名も動員すれば、数万は捻出することが出来る。それだけの規模があれば毛利に遅れをとることはないだろう。
問題は、遠路はるばる安土へ訪ねて来た家康への対応だが……戦は時機が一番大切なので仕方ない。一月もあれば片がつくだろうから、その間は京や堺を見物してもらおう。光秀は先遣隊として出発させるべく、接待役の任を解いて戦支度に備えさせる。
それらの方針を瞬時に固めると、吉継の方に向き直る。
「秀吉にはくれぐれも注意を払うよう申し伝えよ」
「承知仕りました」
信長の厳命に吉継は深々と頭を下げた。
これで先日の武田に続いて、毛利とも決着がつく。上杉も最早風前の灯。ようやく天下布武に向けて目処がついてきた。先行きの明るさに気分が高揚するのを信長はひしひしと感じ取っていた。
「三河殿、真に申し訳ない」
宴席に復帰した信長は開口一番に事情を説明し、非礼を詫びる。状況を察した家康は嫌な顔一つ見せず応えた。
「戦況は刻一刻と変化するもの、仕方ありません。ですから、お気遣いなく。……そうだ、こうして立ち会ったのも何かの縁。もし良ければ私も中国筋へ参陣致しましょうか?」
招かれた客であるはずの家康から思いがけない申し出を提案されたが、信長は鷹揚な態度で断った。
「それには及びません。毛利など一月で片付けますので、三河殿はそれまでゆっくりと畿内を散策していて下され。帰ってきたら今度は茶の湯にてもてなしましょう」
「右府殿自ら亭主となるとは、何とも恐れ多い。この家康、その日が来るのを心待ちにしております」
快く応じた家康に、信長は静かに頭を下げた。理解ある盟友に対して感謝する気持ちに偽りはなかった。
この日の昼食は両家の家臣が顔を合わせて大広間で会食と相成った。信長は日頃接する機会の少ない徳川家の家臣達と言葉を交わし談笑していた。
そんな時、蘭丸が険しい表情をして信長の元へ静かに寄ってきた。宴席の場で愛想良く振舞える蘭丸が緊張した面持ちということは、何か想定外の事態が起きたのかと察する。さり気なく体を倒して耳を寄せる。
「備中の羽柴様より火急の使者が参りました」
羽柴秀吉は中国方面担当で、毛利家と対峙している。先日は備中高松城を攻めると報告があったと記憶している。
秀吉は織田家の家臣ながら近江長浜と播磨・但馬を治め、単独でも大名級の武力を持ち、さらに与力として付けている大名や臣従している備前の宇喜多家の軍勢も合わせれば総勢二万を超える軍を指揮している。そんな秀吉が緊急で使者を寄越すとなれば、備中で何かあったと考えていい。
蘭丸の報告を受けて信長が立ち上がると、隣に座っていた家康が怪訝そうな顔で見つめる。
「……如何されましたか?」
「ちょっと野暮用が入りましたので、少し席を外します。三河殿はゆるりとされて下され」
信長がにこやかに微笑むと、家康も強張った表情が幾分か和らいだ。軽く一礼すると蘭丸に先導される形で別室へ向かった。
秀吉からの使者を待たせている別室に入ると、甲冑姿の若武者が神妙な面持ちで端座していた。
若武者は信長の姿を確認すると平伏し、着座するのを確かめて頭を上げると懐から一通の書状を取り出した。蘭丸を介して書状を受け取ると、すぐに中身を改める。
「……お主、名は?」
「はっ、大谷“平馬”吉継と申します」
書状から目線を離さずに訊ねると、吉継はハキハキとした声で即答した。信長はそれに応えず文面に目を通す。
そして最後まで読み終えると吉継を見据えて問い質した。
「……備中高松城を囲む羽柴勢に毛利・吉川・小早川など総勢四万の大軍が来襲したと書いてある。相違ないな?」
「はっ。某も、この眼でしかと確かめましたので間違い御座いません」
吉継は信長の威圧感に臆することなく明朗に答える。その態度と姿勢から誇張や偽りがないと判断した。秀吉は時折物事を脚色したり大袈裟に伝えたりするから信用ならない。
備中高松城を包囲した秀吉は当初力攻めを試みたが、城の周囲が湿地帯だった為に損害ばかり出して捗々しい成果を上げることが出来なかった。攻め倦ねていた秀吉は思い切って発想を変え、城をぐるりと囲む形で堰を造って近くを流れる川の水を引き込んで城を丸ごと水没させる“水攻め”を行うことにした。
この策は過去に前例がない奇策であったが、これが功を奏して高松城は人工的に造られた湖の中に取り残されることとなった。
一方、毛利方も黙っていない。備中高松城が水没の危機に瀕しているとの一報を受けた毛利家当主の輝元は、すぐに救援の為に出陣することを決意。先代元就の子で毛利家の屋台骨を支える吉川元春と小早川隆景もその動きに同調して高松城へ救援に出向いた。
毛利家が総力を挙げて現れたことで単独で対応するのは困難と判断した秀吉は、直ちに安土へ援軍を要請。我等も総大将である上様の出陣を懇願する旨が書状には記されていた。
「何卒、上様の出陣を賜りますようお願い致します」
言い終えるなり吉継は深く頭を下げた。その姿から味方を危機から救いたいという気持ちが滲み出ていた。
「相分かった。直ちに備中へ向かう」
熟慮するまでもなく、即決した。信長の眼から見ても、毛利家と決着をつける絶好の機会と捉えた。
まず、秀吉が毛利の全軍を高松城まで引っ張り出したのは大きい。毛利をここで倒せば織田の版図は西へ一気に拡大して、その先にある九州が見えてくる。天下統一に向けて大きく前進することに間違いない。信長の勝負勘がそう囁いた。
今現在、融通が利く軍勢は信忠率いる織田本隊と、丹波を平定以降は遊撃部隊の位置づけにある明智光秀の軍勢だけ。他の有力家臣達は各地に散らばり参集することは難しい。北陸の柴田勝家は越後目前まで迫り、丹羽長秀は三男信孝と共に四国へ渡海準備中、関東の滝川一益は赴任したばかりで国衆をまとめることで手一杯。ただ、先述した二人に加えて畿内周辺の与力大名も動員すれば、数万は捻出することが出来る。それだけの規模があれば毛利に遅れをとることはないだろう。
問題は、遠路はるばる安土へ訪ねて来た家康への対応だが……戦は時機が一番大切なので仕方ない。一月もあれば片がつくだろうから、その間は京や堺を見物してもらおう。光秀は先遣隊として出発させるべく、接待役の任を解いて戦支度に備えさせる。
それらの方針を瞬時に固めると、吉継の方に向き直る。
「秀吉にはくれぐれも注意を払うよう申し伝えよ」
「承知仕りました」
信長の厳命に吉継は深々と頭を下げた。
これで先日の武田に続いて、毛利とも決着がつく。上杉も最早風前の灯。ようやく天下布武に向けて目処がついてきた。先行きの明るさに気分が高揚するのを信長はひしひしと感じ取っていた。
「三河殿、真に申し訳ない」
宴席に復帰した信長は開口一番に事情を説明し、非礼を詫びる。状況を察した家康は嫌な顔一つ見せず応えた。
「戦況は刻一刻と変化するもの、仕方ありません。ですから、お気遣いなく。……そうだ、こうして立ち会ったのも何かの縁。もし良ければ私も中国筋へ参陣致しましょうか?」
招かれた客であるはずの家康から思いがけない申し出を提案されたが、信長は鷹揚な態度で断った。
「それには及びません。毛利など一月で片付けますので、三河殿はそれまでゆっくりと畿内を散策していて下され。帰ってきたら今度は茶の湯にてもてなしましょう」
「右府殿自ら亭主となるとは、何とも恐れ多い。この家康、その日が来るのを心待ちにしております」
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