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五 : 青葉 - (16) 秀才は天才に勝てぬ
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翌日。新左や伝兵衛など少ない供廻りを連れて岐阜を発った信忠は安土へ向かった。城の天主では森蘭丸が信忠一行を出迎えてくれた。昨日の今日なので断られても仕方ないと考えていたが、父は信忠の求めに応じて会ってくれた。信忠は伝兵衛を伴い、蘭丸の先導で天主の階段を上がっていく。
父の元へ向かう信忠の表情は、緊張で固かった。今日の対面でどういう展開になるか、全く読まなかったからだ。
そうと知ってか知らずか蘭丸はどんどん上がっていく。父は最上階に居るみたいだ。
「上様。中将様をお連れしました」
蘭丸が声を掛けるが、返事はない。信忠は「失礼致します」と断りを入れてから部屋に入る。
欄干に寄り掛かりながら、外の景色を父は眺めていた。信忠の姿を確かめた父は、何も言わず椅子に腰掛ける。
信忠は前と同じ場所に座ると、間を置かず口を開いた。
「岡崎三郎殿に、腹を召せと仰せになられたとか」
そう質したが、父は固い表情のまま黙っている。否定しないのであれば事実なのだろう。
その反応を受け、信忠はさらに続ける。
「どうして、そのような事をお命じになられたのですか。相手は五徳の夫、盟友徳川家のご嫡男ですぞ」
「……織田に害を為す芽を摘む為に、致し方ないことだ」
平坦な声で答える父。本人も苦渋の決断を下したと言いたいのだろうが、信忠は納得がいかない。
「三郎殿が我等に刃を向けるとは思えません! 考え過ぎです!」
「ならば訊ねるが、婿殿が絶対に裏切らない証左はあるのか?」
声色は変わらないながらも鋭く切り返され、信忠も思わず言葉に詰まる。
信忠が根拠としているのは永禄五年から続く織田家と徳川家の同盟と、信康が信長の長女・五徳と結ばれた血縁の二点だが、どちらも“絶対”と言い切れるものではない。同盟など所詮は利害が一致しているだけで、どちらか片方の思惑次第で簡単に崩れ去るくらいに脆いものだ。血縁の強さは同盟と比べればかなり確かなものではあるが、実の親兄弟が殺し合う戦国の世で信用に足るとは言い難い。
それでも負けじと反論を試みる。
「さ、されど、あまり無体な要求をしたが故に三河殿が袂を分かつかも知れませぬぞ」
「その点は心配いらん」
信忠が最も恐れている懸念について、父はあっさりと否定する。まるで信じて疑わない様子である。
「……まるで分かっているような口振りですね」
証左でもあるのですか? と言い返してやりたい気持ちをグッと堪え、訊ねる信忠。すると、父はさも当然という風に答えた。
「そりゃそうだ。三河殿からしてみれば“獅子身中の虫”をこの機に排除出来るのだからな。俺が同じ立場でもそうする」
その答えを聞いて、信忠は絶句した。
父親が、血の繋がった実の息子を、家中の危険分子と見ている……父から告げられた内容に、信忠は愕然とした。
「そんな……まさか……」
「三河殿は婿殿の器量が自らを超える逸材と既に見抜いておる。自分に害が及ぶ前に火種を消せて、内心ホッとされているだろう」
「三郎殿が、実の父である三河殿を弑すると仰るのですか!!」
淡々と事実のように語る父に、信忠は思わず声を荒らげる。つい感情的になった信忠へ、冷ややかな眼で父は言い放つ。
「――あぁ。俺が婿殿の立場なら、必ずやる。家を大きくしたい野心を抱く者にとって、器で劣る父は邪魔でしかないからな」
平然と言い放たれ、信忠の中で上っていた血が一気に引くのを感じた。
言葉を失う信忠へ、畳み掛けるように父は言った。
「勘九郎、これだけは覚えておけ。“秀才は天才に勝てぬ”、上に立つ者が自らより下だと思えば食われる。例えそれが主君だろうと血の繋がりのある父だろうと関係ない」
「……どうして、上様はそう言い切れるのですか」
絞り出すように信忠が投げ掛けると、父ははっきりと答えた。
「決まっておるではないか――俺自身が、そうだったからだ」
その答えで、信忠は全て合点がいった。父は……信康を自らと重ねて見ているのだ、と。
奇抜な恰好や立ち居振る舞いから“うつけ”と嘲りの対象となっていた信長の器量を疑問視する者は織田家中の内外で大半を占め、品行方正で大人しい性格の弟・信行こそ嫡男に相応しいと皆思っていた。そんな否定的な意見ばかり挙がっていても、父・信秀は信長が嫡男だと揺るがなかった。信行は行儀良く型通りに育っているが、信長には型に嵌まらない爆発力がある。平時で御家の安泰だけを考えるなら信行も一考の余地はあるが、今は乱世。御家を潰す危険性を孕んでいても、もっともっと大きくする可能性を秘めた信長こそ適任だと信秀は信じて疑わなかった。実際、その通りになった。
信秀の死後、大半の家臣は信行方になった。それでも、逆境にあった信長は結果で力を示した。家臣に担がれる神輿なだけの“秀才”信行よりも、何が何でも勝つのだという強い執念と野心でギラギラする“天才”信長の方が、器量で上回ると周囲の者達も次第に認め始めたのだ。最終的には、信長の計略に嵌まった信行は討たれた。
「婿殿は、俺の若い頃によく似ている。自分以外の人間を見る眼が“そこそこ使える”と“使えない阿呆”で選別している。……気持ちは分からんでもないが」
言うなりチッと舌打ちした父。本当は殺したくないのでは? と推測される仕草を出すのはかなり珍しい。命じた側も葛藤しているのだ、と信忠は意外そうな目で父を見つめる。
苛立った様子を見せたのも束の間、大きく息を吐いた父は険しい顔のまま続ける。
「今はまだいいかも知れない。だが、ずっと先になると分からない。俺が存命の間は大人しくしているだろうが、俺が死んだらどうなるか。……婿殿が天下人の二番手で満足するとは到底思えない。十中八九、天下簒奪に動く」
父ははっきりと断言する。その鬼気迫る声色に、信忠も思わず息を呑む。
四年前に会った時、信康は堂々と『父に不満がある』と明かした。そして、主君である父・家康に『心服していない』とも。……あの時点で牙を持っていたのだ。実の父ですら取って代わろうというのだ、赤の他人ならもっと躊躇しないだろう。狙われるのは間違いなく、器で劣る自分だ。才覚で優る信康が精悍で知られる徳川兵を率いて攻め込んできたら……考えるだけでゾッとする。
「……三河殿は、お受けするでしょうか?」
やや血の気が引いた顔で信忠は問うたが、父は「分からん」と投げやりに答える。
「徳川の家の中に“婿殿の考えに共鳴する若手が岡崎を中心に増えている”と報告は入っている。これに不遇を託つ奥の勢力や冷や飯を食わされている連中が婿殿を担ごうとしたら、徳川家は間違いなく割れる。一揆の時とは比べものにならないくらいに、な。そうなるのは是が非でも避けたいことだろう」
父の口振りから、徳川家も一枚岩でない事を信忠も窺い知れた。
それから、ハァと一つ息を吐いた父は物憂げな表情を浮かべながら言った。
「……三河殿が婿殿の扱いに苦慮しているのは承知しているが、肉親の情が勝るとも限らない。長く人質生活を過ごしてきたから堪忍は持っておるが、如何せん短慮な面もあるからな。従うか、拒むか。三河殿がどちらを選ぶか俺にも分からん」
一つ間を挟んで「だが」と父は言葉を継ぐ。
「三河殿が袂を分かてば、それまでの男だと割り切るしかあるまい。二、三年は多少苦しくなるだろうが、今の内なら勝てる……その覚悟は、ある」
最後の一言だけ、力を込める父。対して、そこまで見越していると分かり、信忠はそれ以上追及する気になれなかった。
今の徳川家の版図は三河全域と遠江の大半、それに駿河の一部。動員可能な兵数は一万五千から二万といったところか。仮に武田と手を組んだとしても、東西に敵を抱える武田家からの援軍は望み薄だ。また、徳川家も良好な関係を築いてきた北条家への手当が必要となり、その分だけ兵は減る。結果、兵数で圧倒的に上回る織田勢と独力で対峙しなければならない。一方の織田家も尾張や美濃に兵を割かなければならなくなるが、それも一時的のこと。時が経てば余剰戦力が生まれ、それを逐次投入していけばいい。戦力と時機が整い次第、東へ軍を進めれるだけだ。“時間は掛かるが勝てない相手ではない”、天下人・信長は、そう捉えていた。
「……承知致しました」
一時の感情から発したものではなく前々から考えに考え抜いた末の結論と分かり、信忠は承服の意を示した。
信忠自身、信康には敵わないと思っていた。『父に取って代わりたい』と宣言していた信康が、未来永劫“織田家の盟友”の座で満足するとは考えられない。必ずや天下を狙って牙を剥くだろう。その時に対峙するのは、間違いなく自分だ。そして、必ず勝てると言えなかった。……父の言う事は間違っていない。もしかすると、受け容れがたい未来から信忠は目を背けていたのかも知れない。
話が済んだ信忠は、父に一礼して下がっていった。父は険しい顔のまま、外の景色をずっと眺めていた。
酒井忠次が持ち帰った信長の命令に、徳川家は揺れに揺れた。
盟約を結ぶ相手から一方的に通告された“嫡男切腹”に、徳川家中の大半は激怒した。「内政干渉だ」「信長は何様のつもりだ!」と信長を非難する意見が大勢を占め、中には「織田と手を切り、武田と通ずるべきだ!」とする過激な意見も飛び出した。侃々諤々の議論が交わされるのをじっと見守っていた家康だったが、意見が出尽くしたのを見計らい「あとは私が決める」と宣言し、下がっていった。
天正七年八月三日。兵を率いて岡崎城に乗り込んだ家康は、信康へ城主解任と身柄を三河国大浜城へ移す旨を申し渡した。一連の動きは信康の耳にも届いており、粛々と応じた。その後、信康の身柄は遠江・堀江城、さらに二俣城へと移される事となる。
同じく武田家と内通の嫌疑がかけられていた築山殿は家康の兵の監視下に置かれたが、八月二十九日に移送中の遠江国小藪村で家康の家臣の手で始末された。
九月十五日。家康の命により、信康自刃。享年二十一。父をも凌駕するかも知れないと期待された大器は、その才の大きさが故に命を落とした。
これは余談になるが……後年、関ヶ原の戦いで自軍が苦戦する様を見た家康は「倅(信康)が生きていれば」と漏らしたとされる。同盟関係と息子の命という究極の選択を迫られ、息子の命を犠牲にした家康。その傷は生涯癒えることはなかった。
父の元へ向かう信忠の表情は、緊張で固かった。今日の対面でどういう展開になるか、全く読まなかったからだ。
そうと知ってか知らずか蘭丸はどんどん上がっていく。父は最上階に居るみたいだ。
「上様。中将様をお連れしました」
蘭丸が声を掛けるが、返事はない。信忠は「失礼致します」と断りを入れてから部屋に入る。
欄干に寄り掛かりながら、外の景色を父は眺めていた。信忠の姿を確かめた父は、何も言わず椅子に腰掛ける。
信忠は前と同じ場所に座ると、間を置かず口を開いた。
「岡崎三郎殿に、腹を召せと仰せになられたとか」
そう質したが、父は固い表情のまま黙っている。否定しないのであれば事実なのだろう。
その反応を受け、信忠はさらに続ける。
「どうして、そのような事をお命じになられたのですか。相手は五徳の夫、盟友徳川家のご嫡男ですぞ」
「……織田に害を為す芽を摘む為に、致し方ないことだ」
平坦な声で答える父。本人も苦渋の決断を下したと言いたいのだろうが、信忠は納得がいかない。
「三郎殿が我等に刃を向けるとは思えません! 考え過ぎです!」
「ならば訊ねるが、婿殿が絶対に裏切らない証左はあるのか?」
声色は変わらないながらも鋭く切り返され、信忠も思わず言葉に詰まる。
信忠が根拠としているのは永禄五年から続く織田家と徳川家の同盟と、信康が信長の長女・五徳と結ばれた血縁の二点だが、どちらも“絶対”と言い切れるものではない。同盟など所詮は利害が一致しているだけで、どちらか片方の思惑次第で簡単に崩れ去るくらいに脆いものだ。血縁の強さは同盟と比べればかなり確かなものではあるが、実の親兄弟が殺し合う戦国の世で信用に足るとは言い難い。
それでも負けじと反論を試みる。
「さ、されど、あまり無体な要求をしたが故に三河殿が袂を分かつかも知れませぬぞ」
「その点は心配いらん」
信忠が最も恐れている懸念について、父はあっさりと否定する。まるで信じて疑わない様子である。
「……まるで分かっているような口振りですね」
証左でもあるのですか? と言い返してやりたい気持ちをグッと堪え、訊ねる信忠。すると、父はさも当然という風に答えた。
「そりゃそうだ。三河殿からしてみれば“獅子身中の虫”をこの機に排除出来るのだからな。俺が同じ立場でもそうする」
その答えを聞いて、信忠は絶句した。
父親が、血の繋がった実の息子を、家中の危険分子と見ている……父から告げられた内容に、信忠は愕然とした。
「そんな……まさか……」
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「――あぁ。俺が婿殿の立場なら、必ずやる。家を大きくしたい野心を抱く者にとって、器で劣る父は邪魔でしかないからな」
平然と言い放たれ、信忠の中で上っていた血が一気に引くのを感じた。
言葉を失う信忠へ、畳み掛けるように父は言った。
「勘九郎、これだけは覚えておけ。“秀才は天才に勝てぬ”、上に立つ者が自らより下だと思えば食われる。例えそれが主君だろうと血の繋がりのある父だろうと関係ない」
「……どうして、上様はそう言い切れるのですか」
絞り出すように信忠が投げ掛けると、父ははっきりと答えた。
「決まっておるではないか――俺自身が、そうだったからだ」
その答えで、信忠は全て合点がいった。父は……信康を自らと重ねて見ているのだ、と。
奇抜な恰好や立ち居振る舞いから“うつけ”と嘲りの対象となっていた信長の器量を疑問視する者は織田家中の内外で大半を占め、品行方正で大人しい性格の弟・信行こそ嫡男に相応しいと皆思っていた。そんな否定的な意見ばかり挙がっていても、父・信秀は信長が嫡男だと揺るがなかった。信行は行儀良く型通りに育っているが、信長には型に嵌まらない爆発力がある。平時で御家の安泰だけを考えるなら信行も一考の余地はあるが、今は乱世。御家を潰す危険性を孕んでいても、もっともっと大きくする可能性を秘めた信長こそ適任だと信秀は信じて疑わなかった。実際、その通りになった。
信秀の死後、大半の家臣は信行方になった。それでも、逆境にあった信長は結果で力を示した。家臣に担がれる神輿なだけの“秀才”信行よりも、何が何でも勝つのだという強い執念と野心でギラギラする“天才”信長の方が、器量で上回ると周囲の者達も次第に認め始めたのだ。最終的には、信長の計略に嵌まった信行は討たれた。
「婿殿は、俺の若い頃によく似ている。自分以外の人間を見る眼が“そこそこ使える”と“使えない阿呆”で選別している。……気持ちは分からんでもないが」
言うなりチッと舌打ちした父。本当は殺したくないのでは? と推測される仕草を出すのはかなり珍しい。命じた側も葛藤しているのだ、と信忠は意外そうな目で父を見つめる。
苛立った様子を見せたのも束の間、大きく息を吐いた父は険しい顔のまま続ける。
「今はまだいいかも知れない。だが、ずっと先になると分からない。俺が存命の間は大人しくしているだろうが、俺が死んだらどうなるか。……婿殿が天下人の二番手で満足するとは到底思えない。十中八九、天下簒奪に動く」
父ははっきりと断言する。その鬼気迫る声色に、信忠も思わず息を呑む。
四年前に会った時、信康は堂々と『父に不満がある』と明かした。そして、主君である父・家康に『心服していない』とも。……あの時点で牙を持っていたのだ。実の父ですら取って代わろうというのだ、赤の他人ならもっと躊躇しないだろう。狙われるのは間違いなく、器で劣る自分だ。才覚で優る信康が精悍で知られる徳川兵を率いて攻め込んできたら……考えるだけでゾッとする。
「……三河殿は、お受けするでしょうか?」
やや血の気が引いた顔で信忠は問うたが、父は「分からん」と投げやりに答える。
「徳川の家の中に“婿殿の考えに共鳴する若手が岡崎を中心に増えている”と報告は入っている。これに不遇を託つ奥の勢力や冷や飯を食わされている連中が婿殿を担ごうとしたら、徳川家は間違いなく割れる。一揆の時とは比べものにならないくらいに、な。そうなるのは是が非でも避けたいことだろう」
父の口振りから、徳川家も一枚岩でない事を信忠も窺い知れた。
それから、ハァと一つ息を吐いた父は物憂げな表情を浮かべながら言った。
「……三河殿が婿殿の扱いに苦慮しているのは承知しているが、肉親の情が勝るとも限らない。長く人質生活を過ごしてきたから堪忍は持っておるが、如何せん短慮な面もあるからな。従うか、拒むか。三河殿がどちらを選ぶか俺にも分からん」
一つ間を挟んで「だが」と父は言葉を継ぐ。
「三河殿が袂を分かてば、それまでの男だと割り切るしかあるまい。二、三年は多少苦しくなるだろうが、今の内なら勝てる……その覚悟は、ある」
最後の一言だけ、力を込める父。対して、そこまで見越していると分かり、信忠はそれ以上追及する気になれなかった。
今の徳川家の版図は三河全域と遠江の大半、それに駿河の一部。動員可能な兵数は一万五千から二万といったところか。仮に武田と手を組んだとしても、東西に敵を抱える武田家からの援軍は望み薄だ。また、徳川家も良好な関係を築いてきた北条家への手当が必要となり、その分だけ兵は減る。結果、兵数で圧倒的に上回る織田勢と独力で対峙しなければならない。一方の織田家も尾張や美濃に兵を割かなければならなくなるが、それも一時的のこと。時が経てば余剰戦力が生まれ、それを逐次投入していけばいい。戦力と時機が整い次第、東へ軍を進めれるだけだ。“時間は掛かるが勝てない相手ではない”、天下人・信長は、そう捉えていた。
「……承知致しました」
一時の感情から発したものではなく前々から考えに考え抜いた末の結論と分かり、信忠は承服の意を示した。
信忠自身、信康には敵わないと思っていた。『父に取って代わりたい』と宣言していた信康が、未来永劫“織田家の盟友”の座で満足するとは考えられない。必ずや天下を狙って牙を剥くだろう。その時に対峙するのは、間違いなく自分だ。そして、必ず勝てると言えなかった。……父の言う事は間違っていない。もしかすると、受け容れがたい未来から信忠は目を背けていたのかも知れない。
話が済んだ信忠は、父に一礼して下がっていった。父は険しい顔のまま、外の景色をずっと眺めていた。
酒井忠次が持ち帰った信長の命令に、徳川家は揺れに揺れた。
盟約を結ぶ相手から一方的に通告された“嫡男切腹”に、徳川家中の大半は激怒した。「内政干渉だ」「信長は何様のつもりだ!」と信長を非難する意見が大勢を占め、中には「織田と手を切り、武田と通ずるべきだ!」とする過激な意見も飛び出した。侃々諤々の議論が交わされるのをじっと見守っていた家康だったが、意見が出尽くしたのを見計らい「あとは私が決める」と宣言し、下がっていった。
天正七年八月三日。兵を率いて岡崎城に乗り込んだ家康は、信康へ城主解任と身柄を三河国大浜城へ移す旨を申し渡した。一連の動きは信康の耳にも届いており、粛々と応じた。その後、信康の身柄は遠江・堀江城、さらに二俣城へと移される事となる。
同じく武田家と内通の嫌疑がかけられていた築山殿は家康の兵の監視下に置かれたが、八月二十九日に移送中の遠江国小藪村で家康の家臣の手で始末された。
九月十五日。家康の命により、信康自刃。享年二十一。父をも凌駕するかも知れないと期待された大器は、その才の大きさが故に命を落とした。
これは余談になるが……後年、関ヶ原の戦いで自軍が苦戦する様を見た家康は「倅(信康)が生きていれば」と漏らしたとされる。同盟関係と息子の命という究極の選択を迫られ、息子の命を犠牲にした家康。その傷は生涯癒えることはなかった。
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