97 / 127
五 : 青葉 - (22) 待望の瞬間
しおりを挟む
昨年の後半から八上城・有岡城と織田方へ頑強に抵抗を続けてきた城が次々と攻略されたが、摂津方面でまた一つ事態が大きく動く出来事があった。天正八年三月一日、石山本願寺の顕如へ朝廷から和睦を促す勅使が送られたのだ。
天正四年五月七日に行われた天王寺の戦い以降、本願寺方との武力衝突は起きていない。この戦に勝利した織田方は本願寺をグルリと囲むように砦を築いて陸路を封鎖し、兵糧攻めにしたからだ。それでも大坂湾の制海権を本願寺と協力関係にある毛利家が握っており、海から兵糧弾薬を搬入する術が確保されていた事ので持久戦にも耐えられた。しかし……天正六年十一月六日の木津川口の海戦で頼みの綱である毛利水軍が大敗し制海権を織田方に奪われると、補給する手立ても失われてしまった。同じ摂津の荒木村重が反旗を翻し本願寺も連携を模索したが、織田方の分厚い兵力の前に阻まれてそれも叶わない。そうこうしている間に荒木も別所も滅んでしまい、畿内で完全に孤立してしまった。
刻一刻と悪化していく戦況に、本願寺方の旗頭である顕如は天正六年十二月頃から朝廷へ和睦の仲介を内々に依頼。信長の方もこれ以上戦が長引く事を望んでおらず、妥協点を探っていた。両者の思惑が一致し、条件をすり合わせた上で勅使が送られた次第である。
同年閏三月七日、織田方と本願寺方との間で講和が成立。“将兵の助命”“大坂からの立ち退き”“尼崎・花隈の両城の開城”“加賀国の江沼・能美郡を本願寺へ返還する”などの約束が取り交わされた。講和という形ではあるが本願寺方の降伏に等しい内容であった。四月九日、顕如は取り決め通りに大坂の地を明け渡して紀伊国鷺森御坊へ移った。これで石山合戦は終結……とはいかなかった。
かねてから徹底抗戦を唱えていた顕如の子・教如は大坂明け渡しに応じず、これに同調する兵達と共に石山御坊に居座ったのだ。さらに、講和条件の一つである花隈城では閏三月二日に包囲する池田輝政(信長の乳兄弟である池田恒興の次男)の手勢へ荒木勢が攻め懸かるなど交戦状態が継続しており、加賀でも一向一揆勢力との戦闘が続いていた。取り決めが履行されない事から織田方も加賀二郡の返還を取り止めるなど、大坂・加賀での戦を続行した。但し、本願寺法主である顕如の身柄を脅かす事は一切しなかった。顕如の身に傷を付けるような事があれば全国の門徒が蜂起しかねず、全面戦争に陥ってしまう。散々に苦しめられた信長でもそこまでの愚行は犯さなかった。
大坂を巡る攻防は、今暫く続くのであった。
天正八年四月、織田家に慶事があった。それも信忠に、だ。
その日、岐阜城の奥で信忠はその時を今か今かと待っていた。座っていたがソワソワと体を動かしたり、そうかと思うと立ち上がってウロウロと歩いたり、いつもの信忠とは明らかに様子が違っていた。
「若、少しは落ち着かれませ」
「う、うむ……」
新左に窘められるが、信忠はどこか上の空の様子。落ち着いたかと思えば、不安そうに新左へ声を掛ける。
「……のう、新左。お主の時はどうだった?」
「私ですか? 私は……若と同じように右往左往していたような……」
やや気まずそうに答える新左。「ならば私と同じではないか!」と抗議の声を上げたくなる信忠だが、その申し訳なさそうな顔を見てその気持ちは引っ込んだ。
「……待つ身とは辛いものだな」
「はい……ご尤もです」
互いに顔を見合わせて笑う主従。直後、鈴付きの側女が廊下に現れた。
「申し上げます。御方様、元気な男子をお産みになられました!」
「――真か!!」
その報せに、飛び上がらんばかりに喜ぶ信忠。待ち望んでいた吉報に新左も「おめでとうございます」と頭を垂れる。
摂津方面の出征から帰ってきた信忠に、鈴から懐妊が伝えられた。距離が縮まり閨を共にする機会も幾度かあったが、幸運にも子どもを授かったみたいだ。これが信忠にとって初めての子、出来れば男子がいいな……と思っていたが、まさか本当に男子とは。
本当ならば元気な子を産んでくれた鈴に感謝の言葉を掛けてやりたかったが、出産の場に男性が入るのは厳禁という仕来りがあったので自重した。尤も、父・信長はそんな事などお構いなしに出産直後の母の元に駆け寄ったとか。根拠のない慣習を気にしない父らしいと言えばそうか。
程なくして、産婆さんが生まれたばかりの赤子を抱いて現れた。居ても立っても居られず信忠は亥の一番に駆け寄る。
「ささ、殿。抱いて下され」
産婆さんに促され、赤子を受け取る信忠。落としてしまったら一大事と恐る恐るだったが、抱いてみると見た目以上に重たく感じられた。……これが、命の重さか。
産着を着た赤子は、すやすやと眠っている。肌はまだ赤みを帯びており、手指はとても小さい。信忠にとって初めての子に愛おしさが込み上げてくるが……片や、父が顔を見て「奇妙だ」と評したのも分かる気がする。
(……この子の為にも、より一層精進しなければならぬな)
親の自覚が芽生えた信忠は、織田家当主としてもっと頑張らないといけないと気持ちを新たにした。
鈴が生んだ男子は、勉学の師である沢彦和尚と相談の上で“三法師”と名付けた。嫡男には父親の幼名を付ける例も多かったが、自らの幼名である“奇妙丸”は流石に憚られた。以降、三法師は鈴と共に岐阜城で育てられることとなる。
天正四年五月七日に行われた天王寺の戦い以降、本願寺方との武力衝突は起きていない。この戦に勝利した織田方は本願寺をグルリと囲むように砦を築いて陸路を封鎖し、兵糧攻めにしたからだ。それでも大坂湾の制海権を本願寺と協力関係にある毛利家が握っており、海から兵糧弾薬を搬入する術が確保されていた事ので持久戦にも耐えられた。しかし……天正六年十一月六日の木津川口の海戦で頼みの綱である毛利水軍が大敗し制海権を織田方に奪われると、補給する手立ても失われてしまった。同じ摂津の荒木村重が反旗を翻し本願寺も連携を模索したが、織田方の分厚い兵力の前に阻まれてそれも叶わない。そうこうしている間に荒木も別所も滅んでしまい、畿内で完全に孤立してしまった。
刻一刻と悪化していく戦況に、本願寺方の旗頭である顕如は天正六年十二月頃から朝廷へ和睦の仲介を内々に依頼。信長の方もこれ以上戦が長引く事を望んでおらず、妥協点を探っていた。両者の思惑が一致し、条件をすり合わせた上で勅使が送られた次第である。
同年閏三月七日、織田方と本願寺方との間で講和が成立。“将兵の助命”“大坂からの立ち退き”“尼崎・花隈の両城の開城”“加賀国の江沼・能美郡を本願寺へ返還する”などの約束が取り交わされた。講和という形ではあるが本願寺方の降伏に等しい内容であった。四月九日、顕如は取り決め通りに大坂の地を明け渡して紀伊国鷺森御坊へ移った。これで石山合戦は終結……とはいかなかった。
かねてから徹底抗戦を唱えていた顕如の子・教如は大坂明け渡しに応じず、これに同調する兵達と共に石山御坊に居座ったのだ。さらに、講和条件の一つである花隈城では閏三月二日に包囲する池田輝政(信長の乳兄弟である池田恒興の次男)の手勢へ荒木勢が攻め懸かるなど交戦状態が継続しており、加賀でも一向一揆勢力との戦闘が続いていた。取り決めが履行されない事から織田方も加賀二郡の返還を取り止めるなど、大坂・加賀での戦を続行した。但し、本願寺法主である顕如の身柄を脅かす事は一切しなかった。顕如の身に傷を付けるような事があれば全国の門徒が蜂起しかねず、全面戦争に陥ってしまう。散々に苦しめられた信長でもそこまでの愚行は犯さなかった。
大坂を巡る攻防は、今暫く続くのであった。
天正八年四月、織田家に慶事があった。それも信忠に、だ。
その日、岐阜城の奥で信忠はその時を今か今かと待っていた。座っていたがソワソワと体を動かしたり、そうかと思うと立ち上がってウロウロと歩いたり、いつもの信忠とは明らかに様子が違っていた。
「若、少しは落ち着かれませ」
「う、うむ……」
新左に窘められるが、信忠はどこか上の空の様子。落ち着いたかと思えば、不安そうに新左へ声を掛ける。
「……のう、新左。お主の時はどうだった?」
「私ですか? 私は……若と同じように右往左往していたような……」
やや気まずそうに答える新左。「ならば私と同じではないか!」と抗議の声を上げたくなる信忠だが、その申し訳なさそうな顔を見てその気持ちは引っ込んだ。
「……待つ身とは辛いものだな」
「はい……ご尤もです」
互いに顔を見合わせて笑う主従。直後、鈴付きの側女が廊下に現れた。
「申し上げます。御方様、元気な男子をお産みになられました!」
「――真か!!」
その報せに、飛び上がらんばかりに喜ぶ信忠。待ち望んでいた吉報に新左も「おめでとうございます」と頭を垂れる。
摂津方面の出征から帰ってきた信忠に、鈴から懐妊が伝えられた。距離が縮まり閨を共にする機会も幾度かあったが、幸運にも子どもを授かったみたいだ。これが信忠にとって初めての子、出来れば男子がいいな……と思っていたが、まさか本当に男子とは。
本当ならば元気な子を産んでくれた鈴に感謝の言葉を掛けてやりたかったが、出産の場に男性が入るのは厳禁という仕来りがあったので自重した。尤も、父・信長はそんな事などお構いなしに出産直後の母の元に駆け寄ったとか。根拠のない慣習を気にしない父らしいと言えばそうか。
程なくして、産婆さんが生まれたばかりの赤子を抱いて現れた。居ても立っても居られず信忠は亥の一番に駆け寄る。
「ささ、殿。抱いて下され」
産婆さんに促され、赤子を受け取る信忠。落としてしまったら一大事と恐る恐るだったが、抱いてみると見た目以上に重たく感じられた。……これが、命の重さか。
産着を着た赤子は、すやすやと眠っている。肌はまだ赤みを帯びており、手指はとても小さい。信忠にとって初めての子に愛おしさが込み上げてくるが……片や、父が顔を見て「奇妙だ」と評したのも分かる気がする。
(……この子の為にも、より一層精進しなければならぬな)
親の自覚が芽生えた信忠は、織田家当主としてもっと頑張らないといけないと気持ちを新たにした。
鈴が生んだ男子は、勉学の師である沢彦和尚と相談の上で“三法師”と名付けた。嫡男には父親の幼名を付ける例も多かったが、自らの幼名である“奇妙丸”は流石に憚られた。以降、三法師は鈴と共に岐阜城で育てられることとなる。
0
あなたにおすすめの小説
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
小日本帝国
ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。
大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく…
戦線拡大が甚だしいですが、何卒!
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる